【藤津郡塩田町布手】

歩き、見、ふれる歴史学現地調査レポート

調査者1LA00056小田原可奈

1LA00103酒井未由紀

 

現地調査日 722

調査地区 塩田町布手

 

日程

9:15九大出発

塩田町に近づくにつれ、外の風景が明らかに変化してきたことを感じつつ、これからの調査に対し意欲をわかせる。

11:00塩田町到着

塩田町役場前でバスを降り、そのまま森さんとの待ちあわせ場所である塩田町図書館(資料館も併設)に向かう。待ちあわせの時間までに昼食をすませ、せっかく図書館に来たからと何か調べようとするが収穫なし。若い司書さん達はやはり何も知らず、たまたま森さんの話をすると、(実は森さんはこの町では有名な方で、「塩田昔話」という本なども出版されておられる。)「森先生に聞かれるのがー番いいですよ。」と言われ、森さんの到着を待つ。

13:00森さんに会う

森さんが図書館にいらっしゃる。わざわざお菓子とジュースを差し入れに持って来てくださり、和気藹々とした雰囲気の中でインタビューを開始した。

 

塩田町布手に関する調査報告

<村の範囲>

正確な範囲はわからなかったが、地図で説明すると大体、塩田川の州岸から現在の国道の付近一帯とのこと。その際、長崎街道の話が出て、街道付近に位置した三本松が大きく永田、西古賀、東古賀と、大まかに三つに分けられて呼ばれていたと教えていただく。この三つは戦時中には、強制的につくられた冠婚葬祭などにおける助け合いの組織である隣保班もかねていたそうだ。また、布手の方では、布手を「のんで」というらしい。

<村の水利>

布手では田んぼのことを「馬場下ちゃーばる」と呼んでいた。「チャーバル」は平原という意味である。柳瀬井堰より上流は北鹿島の人々のものであり、馬場下の村一帯は関東井堰より取水していた。チャーバルに水を入れる日時などを取り決める権限など、村の水利に関しては区長が強制管理していた。そのため、村同士での水に関する取り決めは、区長同士による話し合いという平和的方法が取られ、村同士での水争いはあまりなかった。しかし、他人の家の水を夜中にあけたりなどの個人的な小さな水争いは多少あったようだ。また、溜池には「水番」と呼ばれる管理人がおり、村入みなでその人にお金をあげて水を管理してもらっていた。

塩田州は潮高満川と昔言ったように、潮と水がかち合いたびたび洪水が起こっていた。

馬場下ちゃーばるも度々洪水により作土も流れ、耕作には適さない土地となっていた。そのため、前田伸右衛門という人が、結構な面積の田を犠牲田とする覚悟で二重堤防をつくった。横土手、はじノ木土手であった。これによって洪水のときは川下から増水し、水が引くときは泥水を沈めるので土は年々肥え、ついに美田となっていったのである。また、塩田州は洪水の際水が引くのもはやかったため、犠牲田にもそれほど大きな被害はなかったそうだ。

<旱魃>

塩田川は日照りが二十日も続けばすぐ干あがっていた。そういうときも、区長同士が時間給水(まわし水)について話し合い、田の具合をみて水を入れる田を決めていた。しかし、塩田川は干あがるのも早いが、もとに戻るのも早かったため、かんばつの年でも他の地方に比べると米はよくできていたほうだという。

1996(平成4)のかんばつのときはポンプで水をくみ上げて北鹿島におくったが、それほど大きな被害はうけなかった。

<耕地、耕作にともなう慣行>

ちゃーばるの状態はほとんど良好だったが、現在の塩田小学校のあたりのちゃーばるだけは、湿田であまりよい状態ではなかった。ほとんどのちゃーばるで二毛作を行っていた。表作は稲、時に菜種で、裏作は麦であった。苗はちゃーばるの一画を区切って直に作っていた。

また、肥料としては畦に大豆をまいたり、油かすを使ったり、ちゃーばるに青草を埋めたり、人尿糞を使用したりしていた。人尿糞は、昔は米と交換で商家と契約していた。特に防虫対策は行われていなかった。虫が発生したときは、誘蛾灯や、筒に油を入れたものを使って駆除していた。また一人が先に油をまき、その後を二、三人が追いかけて油を蹴って稲につけるなどの作業もしていた。これは森さんも子供のころしていたらしい。戦後は農薬が主となるが、そのせいで人や魚が死ぬこともあった。

<村の発達>

大正4年、嬉野から塩田に電車が通ったときに電気もきた。当初ははだか電球で数も少なかった。その前には、ランプを使用していた。

プロパンガスは昭和30年代後半に入ってきた。その前は、薪を主に自分の家の所有する山に行ってとってきていた。風呂は薪ではなく藁でわかしていた。また、薪のことは「びゃーら」という。

<村の生活に必要な土堀>

塩田に入会山はなく、薪はそれぞれ自分の家の山からとっていた。ただし、五町田には区有林があったので、入会山として使用していたかもしれないということだ。

 

<米の保存>

森さんの時代はとれた米はすでに農協にだしていたが、それ以前、森さんの父親の時代などは米屋に売っていたそうだ。とれた米は、玄米の状態で虫がこないように和紙(この和紙は鍋野でつくられていた)でつくった袋に入れ、藁で編んだメッキに入れ保存。後には、ブリキ缶で保存することもあった。ネズミ対策としては、米蔵に入れておいたことぐらいだったという。種籾は同じ方法ではあるが、別に分けて保存していた。雑穀(麦、いも、かぼちゃなど)を米にまぜて食べていたが、やはり自分の家で米をつくっていたので、あくまで米が主食だったということである。町の方では、茶がゆもつくっていた。

<村の動物>

牛や馬は、耕作用あるいは運搬用として主に飼われていた。だが、森さんの家の田は小さかったため、飼っていなかったそうだ。動物による運搬を仕事にしている人もいて、彼らは、「うまかたさん」や「馬車ひきさん」と呼ばれていた。牛や馬を交換してもうけていた「ばくりゅう」には、やはり口のうまい人が多かったらしい。

<村の道>

魚は有明海のものを、魚屋さんがかごに入れて行商しにきていたそうだ。その魚は「まえもん」と呼ばれた。くじらなどの塩魚は唐津のものが入ってきたが、めったになかったらしい。いのししが峠を越えてくることもあった。

<まつり>

風火(かざみ)という雨乞いを主とした祭りが、二百十日(立春から数えて)の前日に行われる。91日ごろの、台風がよくくるときである。これは、塩田川沿いに6(宮ノ元、大草野、丹生川、平野、井手川内、湯野田)ある丹生神社の水神におまいりするもので、農業を営んでいる集落が、集落ごとにおまいりするそうだ。

また1123目には旧塩田町(五町田、久問以外。この二つは別にそれぞれやっている)でおくんちが行われる。鍋野、塩吹、宮ノ元、本谷、畦川内、布手、野分、塩田、下野辺田、原町の十ヵ所で、一年ごとに係をまわしている。三日におのぼり。昔は市がたっていたらしい。

<昔の若者>

男子は15歳くらいになると、夕食後に青年宿に集まり、寝泊まりするようになっていた。そこでは、20歳前後の青年団長から遊びやしつけを教わった。夜学をするところもあった。これらのことは強制的であり、決して逆らうことはできなかったという。女子は、子守り奉公などで出かける人が多かった。

 他の村の男女が出会うのは祭りのときなどであった。祭りは、村の人々にとって非常に大きな娯楽であり、この日は他の村に行くことも簡単に許されたからである。祭りの日に、他の村で評判の娘をみんなでかついで持って帰ったということもあったらしい。もし別の青年団の人と恋におちてしまったら、相手の青年団長のところへきちんと挨拶に行かなければならなかった。

結婚は親同士によって決められることが多く、森さんの両親は、結婚式当日に初めて本人同士が顔を合わせたそうだ。しかし森さんの時代になると、半分くらいは恋愛結婚になっていた。男女がつきあうのに親の承諾は必要であったが、反対されることはそれほどはなかったということだ。

 

15:30

一通り話が終わった後、資料館の中を案内していただいた。そこには塩田町で出土した石像、昔の電車の写真、昔使われていた農具などが展示されていた。また有田焼もあったが、有田焼の原料の土は塩田でとれるらしい。そのため、塩田には石工も多かったらしい。

図書館から歩いて15分位で行けるということだったので、布手まで連れて行っていただいた。辺り一面に田畑が広がり、風にそよぐ稲がとても美しく印象的であった。先程話にうかがった井堰や、渡は実際に目にすることができたが、残念ながらピョンピョン橋などはもう残っておらず見ることはできなかった。

歩きながら森さんに今後の村のことについて聞いてみた。すると、やはり布手においても専業農家が減り兼業農家が増えてきていることや、道路整備によって田畑が縮小されたりしていることから、農業はだんだん衰退していくだろうとおっしゃっていた。

もう少し先まで案内していただいていると、ちょうど迎えのバスがやってきてしまったので、そこで終わりとなった。役場前で森さんと別れ、塩田町を後にした。

 

写真<塩田町布手に残る森さんの生家>

 現在は園芸の場として使っていらっしゃる。ヒマワリなどたくんさの花が咲いていた。

写真<昔、ピョンピョン橋があった付近>

 普段は穏やかな塩田川だが、少しの雨ですぐ増水してしまうそうだ。

写真<布手一帯>

 昔ながらの家も少なくなく、右には藁葺きの屋根の家も見える。

写真<三宝寺渡>

 この道をずっとまっすぐ行くと、三宝寺というお寺に着くことから、こう呼ばれている。

写真<花立水路へと最終的につながっていく水路>

 

<しこ名ー覧>

調査した地域 布手

○堤防

小字清水川のうちに           ヨコデイ(横土手)

ハジノキデイ(はじノ木土手)

ヤナセイゼキ(柳瀬井堰)

小字三本松のうちに           ピョンピョンバシ(ピョンピョン橋)

ヒヨシイゼキ(日吉井堰)

○水路

小字畑ヶ田のうちに           ハナダテスイロ(花立水路)

○田畑

小宇畑ヶ田のうちに           ヤシキ(屋敷)

イッケンヂャヤ(ー軒茶屋)

小字清水川のうちに           シミズゴウ(清水濠)

小字三本松のうちに           イッポンマツ(ー本松)

キヨウコウアト(教校跡)

ヒガシコガ(東古賀)

ニシコガ(西古賀)

ナガタ(永田)

○道

小字畑ヶ田のうちに           ジョウザイジババ(常在寺馬場)

小字北四本松のうちに       タカダノワタシ(高田渡)

小字二本松のうちに           サンボウジワタシ(三宝寺渡)

ギザンノワタシ                  ((または儀)山の渡)

小字三本松のうちに           テンジンダアト(天神田跡)

<地名の由来>

布手……この地に住む老婦がよく布を織り、染めて塩田川に干していたことに由来。

塩田川……もともとは潮高満川とよばれていたが、それがだんだんなまって塩田川と呼ばれるようになる。

塩吹……クジラが有明海から塩田川をのぼってきて潮を吹いたという伝説に由来。

 

○調査に協力してくださった方

森敏治さん

大正11(1922)3月生まれ

布手で生まれ育つが、昭和37(1962)に水害により塩吹へ移られた。

 



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