【藤津郡塩田町五町田】 《調査者》 1EC99006 池田絵理 1EC99054 黒木瑠美子 1EC99250 三角佳奈
《話を聞いた方について》 名前:瀬頭文一さん(大正3年生まれ、86歳) 瀬頭シツ子さん(大正12年生まれ、77歳)
《しこ名》 第一:カミナガヤ(上長屋)、サノミヤ(三宮) 第ニ:ゴンゲン、ヒノクチ 第三:ナカドオリ、クラトコ、ヨコイデ(横井手) 第四:クージ(小路)、ドドロ(土々路) 第五:シモガワラ(下河原) ※しこ名の場所を尋ねたが、全部はっきりとはわからなかった。 その他の呼び名(しこ名)は、昔と今で変化しているものは少ない(ほぼ同じだそうだ)。 ・土々路=昔の部落名、現在お酒の東長がここにある。 ・横井手=お酒の東一がある。 ※東長・東一=佐賀で有名なお酒
《お祭り》 4月5日 吉浦神社お祭り(塩田町あげてのお祭り) 9月頃 塩田川イカダ流し(鹿島土木・塩田町) ※この他にも7月にもお祭りがある…みたいなことも言われていた。私達が伺う2・3日前に祭りは終了したばかりだと言われていた。
<ここからは塩田町五町田での生活や歴史についてまとめた> 《塩田町(五町田村)の誕生について》 塩田郷はもともと、塩田村(=馬場下村・大草野村)、五町田村(=五町田村・谷所村・真崎村)、久間村(=久間村)という3つの村に大きく分割されていた。そして、その塩田村・五町田村・久間村が昭和31年に合併し、現在の塩田町が出来上がった。 次に五町田村であるが、ここは美野・五町田・袋の3村が合併して1村となった。しかし、合併した後もこの「ミノ」「ゴチョウダ」「フクロ」という呼び方は村人達の間で使われていたそうだ。
《塩田町での当時の生活について》 瀬頭さん達が子供の頃(大正時代)には電気がすでに塩田町には通っていたため、電灯などは使用されていた。水は生活用水・農業用水ともに全て塩田川から引用しており、水に困ることはなかった。塩田川は、塩田町の人達にとって非常に重要なもので、上記のような利用の他、夏には子供達が水泳をして遊んだり、夕食のために父親が鮎などの川魚を釣ってきたりしていたそうだ。他に魚を得る手段としては、近所の魚屋に買いに行ったり、魚屋が売りに来たりしていた。また、畑仕事の帰りには塩田川で体や鍋を洗って帰ったそうだ。塩田町では中心となっていた稲作の他にも様々な作物を栽培していたため、田や畑の手入れに加え、夏は醤油・味噌作りを、冬は麦の手入れ・山に焚き木取りをと、常に家の手伝いが忙しく(女の人は、布団の洗濯があったため夏が特に忙しかった)、若者の時は働いてばかりで特に遊んだ記憶はない、と言われた。
《当時の農業について》 当時、農家であった瀬頭さんの家では主に稲作がされていた。その他に、麦・園芸・お茶・みかん・大豆なども栽培していた。その際の農業用水としてはやはり塩田川の水を引用していたため、特に旱魃はなかった。ただ、やはり水田の場所によって米の出来に少し差があった。塩田川周辺の田はだいたい米の出来はよかったが、山の近くの田はあまり米がよくとれなかったらしい。また、肥料としては小魚・人糞・家畜の糞などを使用していた。そして、できあがった米はいつも農協に出していたそうだ。この質問をした際に、それ以前はどの様にしていたかを伺ったが、「瀬頭さんが農協に勤めていたため、ずっと農協に出していた」とのことだった。しかし、その農業も終戦直前、国営化が進む中でやめてしまった、ということだった。
《塩田川について》 塩田川はもともと「塩田満川」と呼ばれていたそうだ。しかし、年が経つにつれて徐々に言葉がなまり、現在のように「塩田川」と呼ばれるようになった。前述のように塩田川は、塩田町の住民にとって生活全般において欠かせないものであった。生活・農業・祭りなど利用の幅は広かった。そのため、塩田川は非常に重宝されており、川辺には宮の元丹生神社(和銅二年建立)を総本社とする水神が祭られている。塩田川は有明海に流れ込んでいるが、その満潮となるとしばしば大水害をもたらした。その中でも一番規模が大きかったのが、サンヒチ水害〔サンシチ水害か:入力者注〕と言われる昭和37年に起きた水害である。この水害で少なくとも家が2件と子供が2人流され、農作物の被害については、ふくろう(現在の五町田乙、つまり塩田川下流)がほぼ全滅だった、とのことであった。救済活動の中心として、地元の消防団や婦人会が活躍したそうだ。瀬頭シツ子さんはこの時、ちょうど婦人会に属していてみんなと救済活動をされたということだった。その後、水害追放のため絶え間ない努力がなされ、今から5、6年前にやっと塩田川沿いに堤防が完成した。瀬頭さんは「この堤防完成のおかげで安心して暮らせるようになった」とおっしゃられていた。また、当時のなごりとしては、塩田川の下流域の方では現在でもまだ水害後に新しく建設された高床式の住居をいくつか見ることができる。 その一方で、以前は自然に満ちあふれ、町民の生活と密着していた塩田川であるが、現在は町民の出した生活廃水などによって非常に汚くなってしまい、昔のように川で泳いだり、釣った魚を食べたりといったことはほとんどできなくなってしまった。また、町民の悲願であった堤防の完成は、町民達の祭りである「イカダ流し」に影響をもたらした。
《吉浦神社について》 吉浦神社は五町田至誠山頂にある蓮池藩の祖「鍋島直澄公」が祭られている神社で、「お山さん」の呼び名で親しまれている。寛永14年、島原の乱の後、直澄公の父である勝茂公が藤津・杵島・松浦の地から分与し、蓮池に移し、大名にとり立てられ、塩田郷の大部分を直純公〔直澄公か:入力者注〕の領分とした。よって、直澄公は蓮池領主となり、産業の振興にも力を注ぎ、水路を開いて用水池を築いた。このように仁政を行った直澄公は非常に領民達に慕われ、その遺徳を偲ばれ、この没せれられた地である吉浦に祭られたということだった。
《和泉式部について》 五町田村で話を聞き始めて、誰もが一番初めに口にされたのが「和泉式部」についての話であった。塩田町五町田村はかの有名な歌人「和泉式部」の育った土地であるそうだ。このことは五町田村という村の地名にも深く関わっているということで、瀬頭さんもとても丁寧に説明してくださった。その話というのは次のようなものであった。ある日、和泉山の寺のお坊さんが寺で猪に育てられている赤ん坊を見つけ、ちょうどそのことを夢のお告げで見たと言う大黒丸夫婦に授ける。そして、大黒丸夫婦は塩田の家に赤ん坊とともに帰り、生まれた寺の名前をとって「和泉式部」と名づけたそうだ。五町田の地名の由来は、和泉式部が京都の和歌の会のときに見事な和歌を詠み、天子様がその褒美を和泉式部にやろうとしたときに、和泉式部が自分を育ててくれた大黒丸夫婦に五町の田をいただきたいといわれ、天子様が夫婦に五町の田を授けられたことから、大黒丸の長者が住むこの地域を五町田と呼ぶようになったという由来があるそうである。私達が調査した地域付近にも、和泉式部のゆかりの地として和泉式部の公園・石碑が造られていたり、そのことを物語る看板が掲げられたりしていた。中学や高校の時に、古文の授業などで和泉式部について勉強したことはあったが、その歴史上の人物の育った地がこんなに身近にあることを初めて知り、とても驚いた。
《猫化け騒動について》 この「猫化け騒動」というのは佐賀の人なら誰でも知っているような有名な話ということで、話していただいた。この物語は佐賀の蓮池というところで起こった話である。内容としては、お殿様とお姫様が周囲に隠れて会うために猫の姿に化けてあらわれた、というものであった。この話を聞き、こういった話が代々受け継がれていき現代にも残っていっていることに感動したと同時に、話の内容もとてもすてきだと思った。
《今回の調査を通して》 今回、私達が訪問した瀬頭さんのお宅は現在この五町田で二番目の長老であった。五町田村での生活は長く、五町田村のことについてはもちろん、塩田町の人達の昔からの生活の移り変わりや歴史についてよくご存知で、とても一生懸命に話をしてくださった。しかし、方言はあまりなく、言葉自体は結構聞き取りやすかった。使われていた方言の中で特に印象に残ったものは、「田→田ん中」「書いてある→きゃーてある」といったものであった。 今回の調査の中で、私達はわずかではあるが塩田町五町田村の歴史や生活に触れることができ、感慨深さにとても感動させられた。猛暑の中での調査はきついことも少しはあったが、瀬頭さんの話も、現地を歩き回り周辺を調べたことも、得たことの方が多かったため非常に楽しかった。 |