塩田町レポート 2000年7月22日実施 お話を伺った方 古賀孝昭さん 昭和25年8月30日生まれ 深村繁雄さん 昭和24年3月25日生まれ 7月22日スケジュール AM9:15 学校出発 AM11:00 佐賀県藤津郡塩田町真崎に到着 PM1:00 古賀孝昭さんのお宅を訪問 PM4:00 対談終了 PM6:00 学校へ帰る *しこ名
―村の水利について教えてもらえますか? 「もちろん塩田川から水を引いていたよ。塩田川のこの辺りは、今となっては川なんだけど昔は海だったんよね。だから今でも井戸水はちょっと塩辛いよ(笑)。川の上流の方にある塩吹(シオフキ)というところでは、昔塩が取れよった。今では堰で止めて塩が上がらないようにしているんやけど。うちの地区の田はAの堰からやってくる。Aの堰を倒していない時は、村に水が入るごとなっとる。大雨が降った時や、下の村に水を流す時は堰を倒すようになっとる。そうせんと、田ん中に水がいっぱい入ってくっけん。今はそれほどはないんやけど、昔はこまかく分かれていて、堰が部落ごとにあったね。水をめぐっての争いがしばしばあって、時には殺人に至ることもあったんよ。それだけ水が大切だったんだよ、昔は。」 ―えーっ!!(一同驚き) 水利に関して何か取り決めはあったんですか? 「自然の法則やね。水は上から下に流れるでしょ、だから時間ごとに水を流す地区を分けてね、例えば角の数字の順番といったように。5の角の次は6の角といったような順番で水を流すんだよ。だからこまごまと堰が配置されていて、時間が来ると倒したり立てたりしていたんよ。」 ―干ばつとかはあったんですか? 「昭和13年か14年ごろに大干ばつがあったんだけど、この辺りは水が豊富だから稲が枯れたりすることはなかったね。」 ―1994年に全国的に米不足になったじゃないですか。そのときはどうでしたか? 「そんときも稲が枯れることはなかったよ。この地域はお米もわりととれよったしね、塩田川が近いけん。」 ―この地域は水に恵まれていて水には困らなかったみたいですが、水害とかはあったんですか? 「昭和40年代くらいまで、梅雨や台風で床下浸水になったんよ。この辺りは海抜が0〜1メートルくらいの低地やけん、川が氾濫したら水害がおこりやすいんよ。大潮のときも川の水位が土地よりも高くなるしね・・・。でも昨年大牟田排水場ができて水害もおこりにくくはなってきたね。15億円もかかってるんよ。ずっと陳状を出し続けて、やっとできたもんね。」 ―昔は牛とか馬とかは飼っていましたか? 「昔はほとんどの人が飼っていたよ。牛は農業するときの動力源だったけん。この辺りはほとんど牛だったよ。馬を飼って家は珍しかったね。馬は牛の倍のスピードで田ん中を耕すけど、土地のゆるかところには牛の方が強かったね。牛は大体各家に1匹ずつおって、メスが多かったね。その子供は売ったり、使えんようになった母牛の代わりに使ったりしよったね。」 ―牛の餌とかはどうしてたんですか? 「餌は稲わらをあげることもあったけど、大体あぜ道の草をかまで刈って食べさせよった。みそ汁や米のとぎ汁を草に混ぜて食べさせとったね。栄養もあるしね。」 ―今でも牛はまだいますか? 「昭和30年代か40年代くらいまではおったけど、もう今はおらんね。牛だけじゃなくて豚とか鶏とかもおらん。牛小屋はまだ残ってるところもあるけど。昔はどこにでもいたのにねえ。」 ―乾田と湿田のどっちが多かったですか? 「この辺りはほとんどが湿田やね。川が近いからね。大牟田は塩田町の水害常習地帯と言われてるからね。」 ―米がよくとれる田とあまりとれない田といったのはあったんですか? 「うーん、でもここは全体的に米がよくとれる地区なんじゃないかな、水害のときに栄養のある肥沃な土も一緒に運ばれてくるからね。水も豊富だし。」 ―じゃあ特に大きな差は 「別にないね・・・。」 ―戦前、化学肥料のない頃は何を肥料にしていたんですか? 「(即答で)人糞だね。それぞれの家の裏にこえだめがあってね、そこにためてるんだよ。そりゃどこの家庭にも肥溜めがあったな、置いといて中で発酵させるんよ、すごく栄養があるんよ、これが。ほんとよく昔は肥溜めに落ちたゆう話があったわな(笑)、本当に遊びよる時にな、おちたりな、お宅らの家もそんなんやったんじゃないかい?」 ―私のお父さんが、昔肥溜めがどうこう言ってましたよ、そういえば。 「やろうね(笑)。ほんと、あれ昔旅館や病院や学校にももらいに行ってたな(昔を思い出しながら)。そうやって人間が食べて出したものを田ん中にばらまいて、それが稲に吸収されて、その米をまた人間が食べる。本当に循環しとるわけよな。それが今じゃ排泄物や生ゴミやなんかは全部下水として流したりするやろ、だから海水汚染にもなるんやろうな。自然の法則に従ってないもんな。(話が熱くなってきて)なんでもかんでも海に流しとればな。そりゃその一部を魚が食べて、その魚をわしらが食べたら循環になるかもしらんけどな。」 ―ほんの一部ですし、(汚染の速度に)追いつけませんよね。 「そうやなあ、今じゃそんな事しよる人もうほとんどおらんけど、でも、おばあさんが自分の畑にピャ―っと(人糞を)まいたりいうのは時々あるみたいやけど、若い嫁さんが臭いゆうて怒るから、そんなんもうできんのや言うしな。」 ―はあ、そうですか。じゃあ、今じゃもう肥溜めとかもないんですか? 「そうやね、昭和45年ごろまではあったけど、今じゃもう減ったよ。大腸菌の問題もでてきたしね、ここ10年ぐらいで減ったかな。」 ―じゃあ今はもう化学肥料ですか。化学肥料がでだしたころから? 「そうやな、もう化学肥料やな。」 ―あぜに大豆や小豆は植えていたんですか? 「大豆や小豆とかはあぜで作ってなかったよ。そういったものは田ん中にある畝畑に作ってるよ。かつて水害で水と一緒に流れされてきた肥沃な土を田ん中の一箇所によせ集めて畝にしていたんだよ。その方が栄養が豊富だしね。」 ―農薬のない時代はどうしていたんですか? 「油を使っていたよ。少しまいて、足で蹴散らして田ん中全体に広げてね。虫は水に落ちたら油にまかれて身動きがとれないようになるから、それで死ぬのさ。」 ―何の油ですか? 「機械につける油だよ。潤滑油ってやつだね。でも油は当時貴重だったから油かす、廃油を使ってたね。でもやっぱり虫がひどい時は虫にやられてしまって、米がダメになる時もある。だからなるべく早め早めに駆除するようにしてね、幼虫や卵の時期に。殺菌剤は結構はよからあったよ。そうだな、昭和初期にはもうあったかな、昔のはよく効いてたらしくってね、PCP,BHCやポリドール、水銀ボルドーとかがあったかな。(次々と思い出してくる感じだった。)水銀ボルドーなんか多かったね。ほら、怪我したときに塗る赤チンキ、あれもこれが含まれているはずだよ。」 ―赤チンキ、ありましたね。小さいころよく使ってた、最近見ないけど。 「そうそう、怪我したらあればっかり塗ってたよ。ポリドールなんかは、これを使った自殺(農薬自殺)が増えたから生産停止になったしね。まあ、これらの殺菌剤は食べ物(米)に残ることがあったから、次第に使われないようになってしまったな。殺虫剤は、そんなに簡単には出来なかったよ。ほら、蚊とり線香の成分でもある<除虫菊>とかからできてるよ。 ―手間返しというのはあったんですか? 「手間返し?ああ、イイカエシのことか、イイスとも言うわな。」 ―イイス、ですか? 「イイス、だから一緒にするっていう意味だよ。他の人のところに手伝いに行くけん、今度は来てよ!みたいなことだね。一緒に頑張るんよ。それと小作もあるな。地主から土地を借りて米を返すやつよな。でも自分たちの食べる米がいるから、そんなたくさん地主に米は返せんよ。だから、米を返せんときは体で返したんよ、労働でな。それも手間返しやね。」 ―村に電気、プロパンガスが来たのはいつ頃ですか? 「うーん・・・(考え込んでいる)蛍光灯がついたのはいつ頃だったかな。昭和の30年頃だったかな・・・でも戦時中にはもうラジオがあったしな。だから電気自体は戦前ごろの昭和に入ったころからあったってことだろうね・・・で、蛍光灯や豆電球がつきだしたのはもう少し後だろうね。まあ電気も今のようには使ってなかったね。」 ―じゃあ、電気が来る前はどうしていたんですか? 「ランプだね。オイルランプ。あと部屋ん中はろうそく。」 ―夜外を歩く時とかはどうなんですか? 「オイルランプだな。そんで、こうそこいらにひっかけて。ほら、西部劇みたいだな。こうランプ持ってよ(笑)」 ―そうですね(笑)じゃあガスはいつごろきたんですか? 「ガスは昭和36年か37年か・・・(考えて)それくらいだったと思うよ。」 ―じゃあ、ガスが来る前はどうしていたんですか? 「まきだよまき。(即答ではっきりと)それでかまどをたいたり、風呂もね」 ―五右衛門風呂ですか? 「そう五右衛門風呂。うちのところは共同風呂じゃなかったからね。山のほうじゃ、共同風呂が多かったみたいだけどねぇ。うちじゃ、井戸から水汲んで沸かしていたよ。まきは山に切りに行ってね、雑木林を共同で買ってたんだよ。樫の木をね、馬車を牛に引かせて取りに行ってたよ。オレたちが小さいころはよく父親とかが取りに行ってたかな・・・馬車って言っても立派なもんじゃなくてリアカーだね。あれにいっぱい取ってきてたよ。」 ―そうですか・・・ 「そうだね・・・ああガス灯があったな。ガス灯。(突然いろいろと思い出したようだった)」 ―ガス灯ですか? 「そう、カーバイドっていってね、石炭を水に入れてガスを発生させてね、それに火をつけたんだよ。大体外で作業するときによく使われてたね。そういえば昔は変電所もあったね。各家庭に必要なちょっとの電気だけど、発電所からは、何万ボルトの電気が流れてくるわけだから。そこで、電圧を落とすわけよ。そうしないと危ないでしょ。」 ―ヘえー(一同感心) じゃあ、次の質問ですが、米がでできたら今は農協に出すじゃないですか。農協に出す前の時代は誰か渡したりとか売ったりとか特定の相手先があったんですか? 「穀物商人がいたよ。ちゃんと買いつけにきていたよ。それで商人と農家の間には仲介業者見たいのがおってね。こう、その人たちと駆け引きをしよったんよ。だから、その値段じゃあやめとく。あっちの人に売るとかね。これは戦前の話だから、戦時中・戦後は米は自由販売だめになっただろ、特に戦後は米だけだめになってるだろ。だから戦時なんかやみごめもあったんだよ、今でも時々やけどあるしね。」 ―へぇ、いまでもあるんですか? 「少ないけどね、時々ある。まぁ、表の世界と裏の世界だね。だから、長崎のほうから来て、二俵かついで帰ってった人もいるしね。」 ―二俵もですか?一人で?(すごく驚いて) 「あぁ、そうだよ。だから、昔、来たことのある人が、年をとって『(風景を)覚えている』って言ってくれる人もいるしね。そうだねぇ、当時(戦前〜戦後すぐ頃)米一俵の値段が若者の一か月分の給料と一緒だったけど、今じゃ、給料の12分の1ぐらいだろ。物価が上がってしまったからねえ・・・価格も上がってしまったんだな。」 ―昔は青田売りと言うのはあったんですか? 「不作のときはあったよ。要は、金がないわけだから。一刻でも早く金を手に入れるためにね。今で言う給料の前借りみたいだな(笑)収穫前に早く売ってしまって現地収入だね。今のように共済制度がなかったからねぇ。生活もかかってたし、していたようだよ。長年米を作っている人は、その年の米のでき具合が勘でわかるからね。買う側の見込みの100%じゃ買ってくれんさ。その7〜8割の値段になるわな。でもこっちもはやくお金がほしいもんやけん、手を打つわな。」 ―ちなみに今年はどうですか?豊作ですか? 「んーそうだな(笑)。まぁ順調だから、豊作かなぁ。あとは台風だけだね。それさえうまく乗り越せば・・・うん。」 ―家族が食べるお米は何と言いましたか? 「ハンミャーかな?まぁ、それかあとはメシマイとかメシゴメとかかな?」 ―来年の秋の収穫までお米をとっとかないといけなかったと思いますが、どうやって保存したんですか? 「昔は、ブリキのかんかんに入れてたなぁ。10俵くらい入る大きなかんかんで、酒蔵のタンクみたいだったよ。はしごに登って米を入れよった。米を取り出すときは、下のほうの小さな窓をちょっと開けてね、必要な分だけ取り出しよったよ。」 ―ねずみ対策は? 「ブリキのかんかんやけん、ねずみはこんけど、そんかわりに、湿気がたまって虫がつきよった。虫がつかんごと農薬を缶の周りにかけよったよ。」 ―昔は食事のときにお米に何か混ぜたりしていましたか? 「このあたりは米には不足してなかったけど、麦と混ぜたりしていたねぇ。米も一級品は売りよったけん、米が割れてしまってるような二級品ば食べよった。白米だけを食べると言うことはなかったよ。麦を混ぜたほうがおいしいしね。(笑)今でも麦を混ぜて食べることもあるでしょ、ね。」 ―他のひえやあわなんかは使わなかったんですか? 「このへんは米がいっぱい取れるけん、あんま使わんみたいやったけど、山のほうに行くと、ひえ、あわ、いもなんかも混ぜたんじゃないんかなぁ。」 ―牛洗い場や牛捨て場はあったんですか? 「牛はこのへんで洗いよった。(地図参照)牛はそんなに捨てんかったけん、牛捨て場というより、牛焼き場がこの堤防のあたり。(地図参照)この辺で焼いたり埋めたりしよった。食器やらガラスやらの割れたともここに捨てよったな。ゴミ捨て場のごとなっとったなぁ。」 ―この辺にはどんなお祭りがあるんですか? 「近くの五明大明神で11月の勤労感謝の日にくんちがあるねぇ。あとむかしは7月14日に映画をしよったねぇ。地蔵祭りかな。昔は今みたいにテレビがなかったけん、クラブ、今の公民館の広場でチャンバラ映画ば見よったなぁ。夜店のよう来よったもんな。夜店は学校の文化祭とかにも来よったよ。あと、4月5日に吉浦神社の大祭もあるねぇ。桜のきれいかときやけん、神事をして、お花見ばしよる。」 ―若い頃はどんな遊びをしていらっしゃいましたか? 「私たちの若い頃は車やバイクがあったから、ドライブに行ったり、海水浴に行ったりしてたねぇ。車とかなかったときは、自転車や歩いて町のほうへ映画とか見に行きよったんやなかろうか。私たちの小さい頃は、サーカスや闘牛や闘剣が町に来てたよ。」 ―昔の恋愛について教えていただいてもいいですか? 「昔は浮いた話があったら嫁のもらい手がなくなるということで、オープンな恋愛が難しかったね。公然と2人で歩いたりすることは許されなかったからねえ。昔は、若い人はクラブに集まって“よばい”にいったりもしたみたいよ。(恥ずかしそうに笑って)」 感想 3時間あまりお話を聞かせていただきましたが、まだまだ聞き足りないほどでした。昔の農村での生活の様子が垣間見られ非常に興味深かったです。とても意義深い調査でした。今回お話を聞かせて下さった古賀さんと深村さんに感謝したいです。 注*今回のレポートを書くにあたって佐賀弁がうまく表現できず、実際の会話と違った表現になっています。 |