火曜3限 服部教官 歩いて歴史を考える 1ED99054P吉田奈央子 1ED99045W松浦淳子 1ED99025E田中麻貴 調査地:塩田町真崎(7/22) 話を聞いた人: 江頭茂さん(大正9年10月9日生まれ) 江頭キセさん(大正12年8月17日生まれ) 集まったシコ名:
11時半−塩田町に到着。地図で現在地と江頭さん宅の場所と道を確認し、昼食をとる。 12時過ぎ−江頭さん宅に向かって出発。 12時半−江頭さん宅に到着。お話を聞く。 3時−江頭さんの話に出てきた、吉浦神社に車で連れていってもらう。吉浦神社の帰りに、近くを案内してもらう。 4時過ぎ−江頭さんにお礼を言い、別れる。 4時半−バスに乗る。塩田町を発つ。 話の内容について 〇田ん中のシコ名 二本松(小字)の西側からイチノカク、ニノカク…とならんでいた。ジュウノカクくらいまであったらしいが、はっきり覚えているのは自分の田があった辺りだけだということで、場所を確認できたのはイチノカク、ニノカク、サンノカク、シノカク、ロクノカク、ジュウノカクのみだった。なぜジュウノカクだけ順番どおりでないのかはわからないそうだ。 また、八本谷(小字)の真ん中あたりにある水抜けの悪い田をイェゴダと呼んでいた。この名の由来については、川をイェゴと呼んでいたこととの関連だろうと言っていた。このイェゴダでは、麦を作るために「ダンガン排水」というのが行われていた。これは、ダンガンという鉄の玉を地下60センチくらいのところに引くと、そこを水が通って、田の水抜けが良くなるというもの。このような工夫をすることで、真崎の田はすべて麦を作ることができた。 昔、ダンガン排水をしていると、ダンガンに材木がひっかっかったことがあり、水抜けがわるいのも、昔イェゴダのあたりは川だったいではないか、と言う話もあったそうだ。今では、そのあたりの田には地下にパイプが通っており、そのパイプで水が抜けるようになっている。 〇村の水利 塩田川をイェゴ、サンノカクにあった田の水を川に排水するところをユビといった。ユビは、塩気を含んだ川の水が逆流しないように、ジョウトという弁のような仕組みになっていた。それでも、ジョウトをこえて塩水が入ってしまい、田に被害がでることも以前はしばしばあった。田は塩に弱いから、塩が入らないように気をつけなくてはいけなかったそうだ。 真崎は塩田川に隣接してはいるものの、その水は海に近いため、塩が多く農業には使えず、かなり上流のほうから水路を引き、五町田や大牟田、袋と共同で使っていた。その水路の井樋をイデンカミという。井樋に水の神さんを奉っていたため、このように呼ばれていた。北鹿島の水路の井樋は、カントウイゼキと呼んだ。 昔は、水路の水の量に限りがあるので、水の使い方には決まりがあって、これを水番といった。自分の水番の時にしか水を引くことはできなかった。昼間は五町田が水を引き、その後朝までは大牟田・真崎・袋というふうに時間や日にちを決めていた。大牟田は面積 も広く、水も入りにくい所なので、大牟田と真崎の間では真・牟・真・牟・牟....という順番で水を取っていた。この順番はどう決めたのか、と聞いたところ、古くからそういう風に決まっていたから、みなきちんと守っていた、とのこと。 若い頃は、12時から2時が水番ということもあり、夜中に出ていって水入れ、見張りをし、大変だった。水番の時には、五町田の方が勝手に水を汲み出したりしていないかを見張るのも仕事だった。水不足の年には、実際に自分の水番ではないときに水を盗む人があった。大牟田と真崎は比較的仲が良く、水利に関しても昔から協力しあっていた。そういうことで、水争いは、大牟田とはほとんどなかったが、五町田と真崎・大牟田の間でおこっていた。とっくみあいのかなりひどいケンカをしていて、血だらけになって帰って来る人もいた。 昭和52年に圃場整備が行われてから、ポンプのおかげでいつでも好きな時に田に水を入れる事が出来るようになった。圃場整備前は、大きさや形のまちまちな田が細いアゼをはさんで並んでいた。それを、大きさや形をそろえ、どの田も道と排水溝に接するように変えた。シコ名というのは、その整備前の田についていたものだから、今の田とは一致しないそうだ。以前は、水路に近い田にまず水を入れ、あとは田から田へと水を移し、捨てる水も多かった。圃場整備のおかげで効率よく水を回せるようになり、今では昔よりも少ない水で田を潤すことができるので、1994年の水不足も何の問題もなかった。少し水が足りない時のほうがいい米がとれると言っていた。 塩田川は、今はまっすぐだが、昔はそうではなかった。その名残が牛間田橋のまわりの、村の区切りが塩田川にそっていないところに残っている。ここの部分の工事は、昭和10年ごろ行われた。この頃から、川をまっすぐにしたり、堤防を高くしたり、上流にダムを作ったりしたので、水害は少なくなった。昔は床の上まで水が来るようなことがたまにあった。昭和7,8年の水害以降は、家が流されるような大きな水害はない。 昔、二本松の端にヒシボリ・デンボリという「ほい」があった。ヒシ(水草の一種で、実がなるらしい)とデン(れんこん)がそれぞれ自生していたため、こう呼んだ。子どもの頃は、ハンギという大きな桶のようなものに乗って、手でかいて進み、食べられるヒシやデンを取っていた。 〇農業のこと 今では、農業も機械化が進み、手がかからなくなったので、専業農家はほとんどなくなった。真崎のあたりでは、今でも専業で農業をしている家は一軒しかない。機械を使えば田の世話は土曜・日曜だけですむから、平日は会社づとめをし、休みの日に田に出るくらいで十分なのだそうだ。機械のないころは、みんな専業でやっていた。各農家にだいたい牛が1頭いて、馬を使う家はなかった。牛にすきを引かせ、田を耕していた。また、牛の糞は肥料になった。 化学肥料のない頃は、牛の糞を肥料にしたり、食べられない魚(イウォゴ)を安く買ってきて、塩田川の泥(ガタ)と混ぜて腐らせ、肥料としていた。この肥料を使うと、大根など野菜がとてもおいしくできたという。 機械のない頃は田植えに人手が足りず、塩田町よりも早く田植えの終わる嬉野などからお金を払って人を雇ってきて、家に泊まらせ、食事などの世話もし、手伝ってもらっていた。それほど、田植えは時間のかかるものだったのに、今では機械を使うので短時間で、楽におわらせることができるようになった。 〇遊びと祭り 若者の遊びについては、フリュウ(浮立)というものがあった。真崎では鐘や太鼓を叩く鐘浮立、五町田では面をつけて踊る面浮立を、今の公民館にあたる青年倶楽部で練習し、風祭りのときに披露していた。風祭りは夏に行われる、夏の風(台風)がひどくならないように神様にお願いする祭り。若者たちは浮立をしながら自分の村から吉浦神社まで歩き、子どもたちがちょうちんを持ってその後について歩いた。今でも風祭りは残っているが、参加する人も少なく、歩かずに車を使う人が多いそうだ。 祭りは、古賀ごとで年2回、真崎としては年3回行われた。そのうちの1つにタキトウ(田祈祷)というものがあり、毎年田植えが終わる頃に、寺のお坊さんを呼んで田にお経をあげてもらっていた。これは、米を作るためにたくさんの虫を殺すので、もともとはその供養の意味があったという。 〇生活の様子 電気は小さい頃からあったが、一家に2つ、3つしかなかった。ガスは30年ほど前から来ていて、その以前は石油コンロを使い、さらにその前にはワラやマキを燃やして料理などしていた。 魚はどこから来ていたのか、と聞いたところ、自分が小さい頃から近くに魚屋はあり、その魚屋で買っていた、とのことだった。真崎から、海までは2キロほどしかなく、魚を運ぶのもそんなに大変ではなかったようだ。また、昔は近所の水路にウナギがたくさんいたそうだ。田にいるタニシを取ってきてつぶし、壷に入れて水路に沈めておくと、次の日にはウナギが入っているので、それを持ち帰って食べる事もあった。 〇道 真崎の部落の真ん中を南北に走る道は、今では幅も広く、車も走れるようになっているが、このようになったのは昭和10年代のことだそうだ。その前は、2メートル幅の泥道で、人や自転車が通るために、真ん中に石がしいてあり、泥の道の上に石の道があるようなかたちになっていた。 |