「歩いて歴史を考える」 現地調査レポート
1ed99019T 鈴木慶子
1ed99041E 藤野沙織

7月22日(土)
9:00 九大六本松 出発
11:00 大字 真崎 到着、昼食
13:00 福富・白浜家 到着
福富公民館へ移動
聞き取り調査
16:00 福富公民館 出発
18:10 九大六本松 到着

お話をうかがった方々
白浜重憲さん(昭和十六年生まれ)
椛島光安さん(大正六年生まれ)
古賀一吉さん(昭和三年生まれ)

塩田町・福富
村の範囲
 一本松、二本松、三本松
しこ名一覧
 ニノカク(二の角)
 サンノカク(三の角)
 シノカク(四の角)
 ゴノカク(五の角)
 ゾウセンマチ(造畝町)
 ウマンタナジ(馬段路)
 カノハシ(桑の橋)
 ベンザイカク(弁財角)
 トックイボイ(徳久利掘)
 スモウダマリ(相撲溜)
 ニノカクには墓地があるので、死ぬことを「ニノカクへ行く」とも言った。

水利
水田にかかる水は、昔は福富川(塩田川の上下を流れる川)から引いており、今はため池から3〜4反に1つあるポンプで配水している。また、生活用水は塩田川から引いているが、昔は引水できる時間が昼は隣町・鹿島、夜は福富と決められていた。塩田川は鹿島のものであるので、福富の人が水田のために水を引くことは決してできず、鹿島の人が管理、掃除を行っている。
水利権に関する問題は大変難しい。例えば、大雨や台風が起こると土地の低い方に水が溜まり作物がだめになってしまう。そのとめ、村の中でも、村と村の間でも道や田を作る時はその高さなどが争点になった。水の分配のルールは古くから申し送りをして代々伝えてきているが、皆が平等になることは難しく、また法で裁くことも難しい。昔は殺人にまで至る争いもあったという。「水利っちゅうもんは本当に難しい。」と繰り返す椛島さん。生きるために必要不可欠である水の大切さを改めて痛感した。この水問題は現在は配水ポンプが充実し、かなり解消されたようだ。

旱魃
平成六年の大旱魃の事を聞いてみたが、意外な答えが返ってきた。
「その年は大豊作だったんじゃよ!」
配水ポンプのおかげで水には困らず、今までにない位の大豊作だったらしい。
「日照りがある位が米にはいい。」
白浜さんが笑って言った。

耕地
福富の耕地は全て水田。しかし、昔は川の水を引き、田に入れるために土地を低くする際に掘った土を田の真ん中に集め、細長い畑にして利用するという工夫がなされていた(図・参照)。肥料は戦前では主に下肥(腐らせて乾燥させたもの)を鹿島から買って使用していた。その他魚(特に鰯・アジは捨てる程とれていた。)を干したもの(干鰯)、珍しいものでは床下の土も肥料になったという。しかし、なぜ床下の土が肥料になるのかは本人達も分からないと話していた。下肥は、大人が余裕で入れる程大きな甕・肥溜めがあり、それを「たんぼ」となぜか呼んでいた。これも由来は分からないらしい。子どもの頃は肥溜めを飛び越えようとしてジャンプし、距離が足りず肥溜めに落下、足がつかないほど深いので、バタバタと中で泳いだというエピソードもある。現在使われている肥料は全て化学肥料である。便利ではあるが化学物質による害もある。昔は田の水などはそのまま飲めていたそうだが、今は飲めないらしい。しかし、昔は化学的な害は一切なかったものの、お腹には回虫がいるのは当たり前だったそうだ。「普通はお尻から出てくるけんど、私は多すぎて口からも虫が出よったもんなー、じゃけど回虫は害はなかとよ、長か虫の出てくるだけ」と今では考えられないような白浜さんの体験談。この回虫、今では副作用のないダイエットとして自ら入れる人もいるというから驚きだ。

村の発達
村に電気がきたのは、およそ大正十四年頃である。電気がくるまでは主にランプやろうそくが照明の役割をし、小学校ではよくランプの掃除をさせられた思い出があるそうだ。プロパンガスはおおよそ三十年前頃で、それ以前は炊事、風呂などは薪で火をおこして使っていた。

米の保存
米は、現在では農協に出荷し、もみ、乾燥、流通を任せることになっている。以前も大体今と同じで農家から米商人へ出荷し、それを米商人が売るという形で売買を行っていた。直接売買はなかったそうだ。地主・小作人の関係は、やはり上下関係がはっきりしていて小作人ではどんなに働いてもほとんどの米を地主に取り上げられ、貧しい生活を強いられた。米が足りない時は、粟、芋などで食べつないでいた。福富は、実は戦後は闇米で栄えた地域だという話もうかがった。

村の動物
一般的に、牛が一家に一頭、耕作用に飼っており、馬は使ってなかったそうだ。

祭り
昔は、村ごとに一年に何回も祭りを行っていた。例えば次のようなものなどがある。
雷祭(4月)
天神祭(11月・知能の神 天神宮を祭る)
井手祭・吉田祭
ベンザイテン祭(12月・五穀豊穣 病魔退散を願う)
しかし、だんだんと何度もよるのが大変になり、まとめてしようという動きが出てきた。それから戦争になり戦後しばらくは祭りができなかった。昭和三十二年から祭りを春と秋の2回しよういうことになり、それが現在も続いている。8月31日〜9月1日にかけては風の神様に台風がこないように祈願し、五町田の吉浦神社までお参りに行くのだそうだ。村に伝わる資料に二十三夜の神・猿田彦大明神という名も出ていたが詳しいことは分からなかった。

子どもの遊び
子どもの頃の遊びは、ペチャ(メンコ)、竹馬、竹とんぼ、水鉄砲、杉の実鉄砲、侍ごっこなど、想像通りのものだった。しかし、農業を手伝うのは当たり前。小学校を出たくらいからは経済的にも学校に行けず、毎日働いていた若者が多かった。

昔の若者(生活)
十代後半になると、男の人は昼間は働き、夜は「青年クラブ」という組織に所属した。「青年クラブ」とは、公民館に布団を持ち寄り共同生活を行う場で、青年頭というリーダーを頭とする上下関係を重んじる集団である。ここは集団生活でのルールを厳しく教えられる場であり、伝えてゆく場でもあった。ルールを守らない者には、殴るなどの厳しい指導があったが、その分可愛がってもらうこともあり、絆が深まったという。また、青年クラブでは“盗み”もしていた。「○○の柿が熟れてるぞ」「○○のスイカが大きいぞ」という時は、先輩に命令されると、後輩は夜盗みに行かなければならない。そこで、土地の人の罠などにかからないように昼間に安全かどうか、こっそり確認し、夜中盗んできた。しかし、後輩が盗んできてもおいしい所を食べるのは先輩で、おいしくなかった時には「食っていいぞ」と言って分けてもらえたそうだ。食べカスは捨てると盗んだことがバレるので公民館の床下に捨てていたというのが面白い。今では、上下関係というとマイナスイメージが強いが、話をうかがった方達の表情からは懐かしさとその思い出の大切さが伝わり、うらやましいとさえ感じた。一方、女の人は夜は殆ど家にいて、家事の手伝いを中心に花嫁修業のようなことをしていたらしい。

昔の若者(恋愛)
昔は風紀が厳しく、男女が手をつないで歩くとは考えられなかったそうだ。では、どうやって男女が出会ったかというと、当時村には共同風呂というものがあり(昭和二十年頃まで)、男女の別なく共同に使っていたらしい。そこでは村のニュースがたくさん入った。男の人は目をつけた女の人に、風呂で夜会いに行く、つまり夜這いの約束をし、家の一個所鍵を開けといてもらい、夜中こっそり家に忍び込み、そこで話をし回数を重ねる内に深い仲になっていくというものだった。初めて行く時は女の人に受け入れてもらえるか分からず、ドキドキしたという。女の人は気に入らなかったら、わざと大きな音を立てたりして家族を起こそうとした。夜這いについて面白い話をうかがった。青年クラブの先輩が夜這いに行く時は、後輩は「げたもち」としてついて行かなければならない。「げたもち」とはげたを脱いで家に入った先輩が家族が起きた時逃げ帰る際にげたが残っているとバレるため、あらかじめげたを持ち帰る人のことである。ところが、この「げたもち」が夜這いのスリルがおかしくて吹き出してしまうこともあり、それが一層おかしくなって、大変だったらしい。この話をしながら、話をして下さった方々は、ずっと懐かしそうに笑い続けていた。この夜這いは、村の仲だけではなく、他の村にも青年クラブの頭に話を通し、許可を得れば行けたそうだ。