歩いて歴史を考えるレポ−ト 服部教官
1LA00091K 小久保 圭太郎
1LA00098G 近藤 正和


今回僕たちは牛坂地区について調べました。                   
調査に協力してくださった方々です。

糸山 辰雄     昭和9年10月24日生まれ  (生産組合長)
糸山 春一     大正14年3月31日生まれ
糸山 秀雄     大正11年8月11日生まれ
中島 哲太郎    大正15年1月31日生まれ
中島 秀昭     大正15年8月31日生まれ
長谷川 弥彦    昭和3年1月1日生まれ
山口 広一     昭和9年4月23日生まれ      (50音順

1、「牛坂」の地名の由来
 「牛坂」の地名は城山に砦があった頃、物資の運搬に牛を使った補給路からといわれている

2、しこ名 
 カタカナ一覧 
イチホンマツ (一本松)
ニホンマツ (二本松)
サンボンマツ (三本松)
ヨンホンマツ (四本松)
ゴホンマツ  (五本松)
ロクホンマツ (六本松)
シチホンマツ (七本松)
ゴンゲノヤマ (権現山)
カッチャマチ (鍛冶屋町)
イチガタン (一ノ谷)
ウメダン (梅谷)
ウマガタン (馬乗谷)
アライダシ (洗い出し)
コウシンガワ (庚申川)
タンガシラ (谷頭)
シイビャ−ジイ (椎林)
オナガヤ(あなぐら)

どこの田にどのしこ名があるなど細かい区分はしづらいとのことでした。

3、水利と水利慣行
 牛坂の田には、梅谷の堤と丹生のため池から水を引いている。これらの用水は牛坂が単独で使用している。1994年にこの地方を大旱魃が襲った。しかし、牛坂ではこの年、例年にないくらいの米の大豊作であったそうだ。確かに水は少なくなったそうだが、「まわし水」によってこの危機をしのいだそうである。今までで最も大変であった旱魃は昭和14年の旱魃だったそうだ。この年の旱魃がきっかけで梅谷の堤をつくったのだそうだ。当時、雨が降らず非常に困ったため雨乞いをしたらしい。この村では「面浮立(めんぶりゅう)」と呼ばれる雨乞いを行ったらしい。これは男性が鬼の面をかぶり、女性が鐘を鳴らすというもので雨が降るまで続けられたらしいが、やはりそう簡単に雨は降ってくれなかったらしい。また水路を作る際には、「ちょうちん測量」と呼ばれる方法が取られた。水路というのは高いところから低いところに流れるものである。昼間に水路がきちんと斜めというか、坂になっているか、水は上手に流れそうかどうかを見極めるのは難しかった。そこで、夜に火をつけたちょうちんをつくっている水路の横に並べてそれを確認したそうである。牛坂は2つの用水を単独で使用しているため、また政府の減反政策により米を作る量を3割減らされているために水が不足するということはほとんど考えられないそうである。

4、村の耕地
 戦前には牛坂にも乾田と湿田があったそうだが現在では乾田がほとんどだそうだ。戦前は大豆をつぶして粉状にしたものやたい肥(牛の糞)、山から取ってきた草を牛に踏ませたものを肥料として使用していた。現在ではもっぱら化学肥料を使っているそうだ。

5、耕作にともなう慣行
 以前はあぜに大豆や小豆を植えることがあった。これはあぜも利用しようという考えから生まれたものでした。あぜで大豆や小豆がこれまたよく育ったそうです。また、農薬のない時代には水田に石油をまいてそれを足で蹴って広げるという防虫策がとられたそうです。

6、村の発達
 牛坂に電気が通ったのは大正13年のことでした。また、プロパンガスは昭和30〜40年頃に入ってきたそうです。それまでは、山から集めてきた薪などを使ってご飯を炊いたり、風呂を焚いたりしていたそうです。

7、米の保存
 戦前は米を農協にまわしたりすることはありませんでした。戦前には米買いの商人がいたからです。当時は地主の力が強く、小作人はなかなか苦しい立場にあったようです。ねずみからの害を防ぐ対策としてネコを飼う、生け捕りのためにかごを設置する、トタン板でドラム缶のようなものを作り、それに米を入れて保存するということなどが行われたそうです。また、「ネコいらず」という毒薬も使用されました。なお、福岡における「兵浪米」に当たるような呼び名はなく、飯米と呼ばれていたそうです。50年前、食事における米と麦の割合は7:3ぐらいだったようです。この麦は主にはだか麦というもので米に混ぜて食べていたそうです。

8、村の動物
 大体1家族に牛1頭、馬が1頭いるというのが普通でした。家庭の動物はメスが多かったようです。オスは「土引き」といって、山から材木を運ばされる仕事に借り出されたためです。博労「(ばくろう)さん」と呼ばれる牛や馬を売り買いする人がおり、やはり実際口がうまかったそうです。だまされるといったこともしばしばあったそうです。

9、村の道
 牛坂へは南は有明海から、北は玄海灘から魚が入ってきていました。魚を運んでくる人のことは「まいもんうりさん」と呼んでいました。有明海からより、玄界灘から入ってくる魚の方が上等だったそうです。米との物々交換によって魚を得ていたそうです。戦時中、塩は大村や佐世保から塩水を汲んできて、それを釜で焚いて手に入れていました。村にはイノシシやサル、タヌキなどの自然の動物がいます。最近、イノシシが畑を荒らすことが多くて困っているのだそうです。

10、まつり
 村には八幡宮という神社があります。これは、800年前に源頼朝が自身の勢力を示すために全国各地につくらせたものの1つです。9月15日と11月3日にまつりがあるそうです。神輿による「おのぼり」や「おくだり」が行われ、獅子舞いや鬼の面をかぶっての面浮立(めんぶりゅう)が登場します。なお、この面浮立には約50人が参加します。女の人は鐘打ちをするのだそうです。村のほぼ全員が参加をします。

11、昔の若者
 牛坂の若者は「牛坂青年団」というグル−プに所属していろいろな活動を行っていました。この青年団には、階級のようなものがあり、階級の上のほうから、うわっかもん、ちゅうわっかもん、しもわっかもんという具合に呼ばれ、別れていました。下の方の階級の人はうわっかもんに指導を受け、修養させられていたのだそうです。夏は浮立の稽古が行われました。上の方の人は厳しかったそうです。若い者たちはそのうち兵隊に入らなければならない身であったため、厳しいしつけを施していたのだそうです。また、女子青年団というものもあり、女性は裁縫などを学んでいました。青年団に所属している若者の遊びは塩田劇場で芝居を観ることだったそうです。他には、金浮立に用いる棒を両手で持ち上げて力を競い合うという遊びもあったそうです(金浮立の棒は5種類の大きさがあり、より重い棒を持ち上げようとして遊んだのです)。また、スイカ泥棒はよくしたそうです。よその村の若者たちとも仲良くしていたそうです。昔の若者に恋愛の自由はありませんでした。隠れてのヨバイもあったそうです。結婚するにあたって、事前に嫁になる人が10日から1ヶ月、婿側の家に行って同棲のような暮らしをして、その様子を見て姑が嫁にふさわしい人間であるかをチェックする「足入れ婚」の習慣がありました。

12、村のこれからについて
 これから不安に思っていることはやはり後継者についてのことでした。現在、土日になっても子供たちが畑仕事や農業を手伝うことがないのだそうです。そのような現実を見ていると将来がとても不安なのだそうです。また、政府に対しては30%の減反は苦しいということだそうです。それ以上に政府に願う事はもっと環境保全に力を入れて欲しいということでした。牛坂は緑が多く残っていますが、田の荒れてしまった土地などを見るとやり切れない気持ちになるそうです。政府がもっと農業のことに真剣に取り組んでくれさえすれば、農村の復活のメドも立つそうです。牛坂がより発展することを祈っているのです。

13、感想
 しこ名をあまり集められなかった。というか、「五本松」や「六本松」、「七本松」は昔からそのように呼ばれており、しこ名も小字も同じである、と言われたのであまり数が集まらなかったのである。しかし、村のことについてのお話はいろいろと聞くことができ、なかなか充実していたのではないかと思う。今回の僕たちの調査にあたって生産組合長の糸山辰雄さんが村のことに詳しい方を多くご紹介してくださったおかげだと思っています。糸山さんをはじめ、調査にご協力くださったみなさんには非常に感謝しております。猛暑の中での調査でとても大変でしたがとても意義のある時間であったと思います。