調査した村:堤ノ上
調査した学生
斉藤 圭太  学生番号1LA00100Y
神田 健介      1LA00071G
大浦 翔平      1LT00030M
お話をしていただいた方々
平野 稔 大正15年9月29日生
田中 寛太 昭和8年12月7日生
田中 和幸 昭和13年4月30日生

<しこ名一覧>
イシワリダン(石割谷)・カネワリダン(金割谷)・(耕地畦)・マエダ(前田)・ヒラバル(平
原)・ハジヤマ・コバンタ・ナカミチ(中通)・スガタン(須ガ谷)・コクンゾサン(虚空蔵
山)

田畑:小字丹生野のうちに マエダ(前田)・ナカミチ(中通)
  この他にそれぞれの小字の範囲の田の事を「**の田んなか」(**は小字の
名前)と呼んでいた。
山林:小字桜谷のうちに(耕地畦)・カネワリダン(金割谷)
小字山ノ神のうちにイシワリダン(石割谷)・コバンタ
小字道徳のうちにハジヤマ
山:小字丹生野のうちにコクンゾサン(虚空蔵山)
ため池:小字道徳と丹生野の間にヒラバル(平原)
小字道徳のうちにスガタン(須ガ谷)
小字丹生野のうちにミョウガタン

しこ名についての感想
尋ね方が悪かったのかご存知なかったのかあまり多くは集める事ができなかった。しかし自分達が川や橋のしこ名を聞かなかったのでもっと多く集める事はできただろう。少々残念ではある。人に物を聞くというのは難しい、いっそのことマニュアルを丸読みすれば良かったのかとも思ったが、それでは自分達のためにならない。

[村の水利について]
堤の成り立ちと歴史
 堤ノ上の水田は桜谷堤、平原堤、須ガ谷堤、ミョウガ谷堤から引水している。平原堤は戦時中、学徒動員でこの地にやってきた青年たちが作ったもの。また須ガ谷は個人の所有物である。これらのため池は堤ノ上のみが使用している。
 堤ノ上は中通り、牛坂とともに上久間区という地域を形成しており、この地域最大の堤である丹生野大堤を共同で管理している。堤ノ上は丹生野大堤の上に位置しており、丹生野大堤の恩恵を受けることができず共同管理には問題もあったが、共同体である上久間地区の一員として堤ノ上も役割を果たしてきた。
 丹生野大堤は約300年前に作られその歴史は長い。大堤が作られた頃民衆は守り神としてコクンゾサン(虚空蔵山)をまつった。コクンゾサンをまつる仕事だけは何があってもきちんとするそうだ。丹生野大堤が作られた当時は現在堤ノ上と呼ばれる地域にはほとんど人が住んでおらず、大堤は人が住んでいた牛坂、中通りといった地域のために作られたため、後になって堤ノ上に人が住むようになって少々問題もあるようだ(大堤は平坦な良い土地に作られている)。
 丹生野大堤は現在も100町(ha )水田を支えている。大堤の豊富な水は近隣の山々からの雨水が全て大堤に集まるように設計されているからだ。平野さんが強調するように先人たちの知恵はすばらしいものだ。

堤の管理
これらの堤では冬にため池の底に溜まった土を出す必要がある。その方法は時代と共に変化してきた。江戸時代には「もっこ」と呼ばれる道具を使い、明治以降にはトロッコを用い土を運び出していたが、戦後はショベルカーなどの機械を用いるようになった。堤から土を運び出す作業一つ取っても歴史が、人の知恵がある。それがこの授業の面白さである。
大堤の水番役は上久間区の役員がした。昔は松の木の栓をうちつけて、何日毎に栓を抜いて水を流していくと話し合いで決めていた。この辺りは土地に勾配があるのでそれを利用して水を流していて、とくに器具は使わなかったそうだ。

[災害とそれに対する人々]
旱魃
1994年(平成6年)、つまり今から6年前に大旱魃がこの地方を襲った。
堤ノ上が引水している桜谷堤は枯れなかったが、丹生野大堤は枯渇して大きな被害を出した。大きさとしては桜谷堤の方が小さいにもかかわらずいったいこの差はどこから来たのだろうか。
水を供給する田畑の範囲の違いもあるだろうが、実は面積の上では桜谷堤の方が小さいが、深さという面では桜谷堤は丹生野大堤の2倍以上、約70mの深さがあったのだ。(大堤は約30m)。桜谷堤は大正10年に作られたが大堤は江戸時代に作られた。この200余年の間での道具の進歩か地形の違いか、ともかくも大正期に江戸時代より優れたため池を作ったのだった。
またそれだけではなく堤ノ上の人々は桜谷堤から引水した貴重な水を丹生野堤に流れ込んでしまわないように石で栓をして流れる量を調節していた。この話を平野さんは「下の村には気の毒だけんどもまず自分の村の事を考えにゃあ。」と言っていた。当然である。

雨乞い
民衆は旱魃の時には雨乞いもした。彼らはコクンゾサン(虚空蔵山)に大きな太鼓を担いで登り頂上で太鼓にあわせてフーリュウ(浮立)と呼ばれる踊りを踊った。私達も実際に太鼓を見せてもらったが、かなり大きな太鼓で二人がかりでも楽には持てそうになかった。
雨乞いは堤ノ上、中通、牛坂の3部落の交替で行われていた。今ではお彼岸に神主さんに頼んで部落の繁栄などをお願いしている。

大水
平成3,4年に大水があり、平野さんの言うところでは「ナイアガラの滝じゃないが、もう田ん中のあぜというあぜからどばーっと水が流れ落ちてもう道路も畑も水浸しになった。」という。 塩田町の34〜35の被害のうち20以上が堤ノ上であった。
堤ノ上が中通や牛坂に比べてより被害を受けた理由はその地形にあった。旱魃の時にはいくつもの堤から水が集まるという非常に助かる地形が大水の時にこのような被害を招いてしまったのである。
また、このような災害に対する国の姿勢にも言及してもらった。平原から堤ノ上にかけて流れている川は土地より高い位置を流れており、災害前から少し崩れていたのだが、国はそのような補修工事にはなかなかお金を出してくれないので大水などで決壊するまでそのままだと言った。そしてこの大水でやっと国の負担で修繕することができたと笑いながらおっしゃっていた。
それを聞いて国の無駄遣いはこんなところにもあるんだなあと複雑だった。

台風
最近の台風の被害は半分が堤ノ上で半分が中通であったそうだ。堤ノ上が植林した50年もののヒノキがバタバタ倒れてしまったので、ヒノキを売ってそのお金で新しい公民館でも建てようかという話もおじゃんになってしまったそうです。
「谷が風の通り道になってビュウビュウ吹きよってからに、苗植えて草刈って間引いて、50年かけて育てたヒノキがみんな倒れてまってかなわんわ。」と平野さん談。自然を相手にする仕事って大変だなあ、このあたりが林業や農業が廃れていってる原因なのかなとも思った。
また、800年続く八幡さんがあり、季節になると台風が来ないようにと昔は部落ごとに交代で一晩中そこで鐘を鳴らしていたという。そこには話を伺いに行く途中で班のみんなで偶然立ち寄って鐘を鳴らしてきた。

[村の生活と習慣]
牛について
牛はどの家も1頭くらいは飼っていた。バクリュウと呼ばれる仲買人がよそから子供の牛を買ってきて、農家で農作業に使う。大きくなったらまたバクリュウが売りにいくのだそうだ。「バクリュウは口が上手いって?そりゃあそうじゃろうなぁ。」と平野さん。

あぜに豆を植える
あぜには大豆、小豆を植える(あぜ豆という)。
田ん中をならした後で泥をあぜに上げて、あぜをならしてから指で穴をあけて種を入れる。
土が柔らかいので簡単に穴が空くそうだ。あぜが丈夫になるし豆が取れて一石二鳥。

農薬
現在で言う農薬の代わりとして石油や廃油を田ん中に撒いたそうだ(菜種油なんてもったいないと笑われてしまった、しかし菜種油の廃油ならばOKか?)。油を撒いた後足で蹴って稲にかける。そうすると稲についた虫を殺すことができる。

米の保存の仕方
保存用の米は60キロを一俵として、ドジャと呼ばれる、こうぞで編んだ障子紙の厚いものに入れて保存する。ドジャは丈夫で虫が入ってこられないそうだ。保存は乾燥した所で。
種籾はとても大事なのでねずみに食べられないようにドジャの袋に入れて梁からぶらさげておくのだそうだ。
他で聞いた話に、一俵の米を一人で馬の背中に上げられて初めて一人前の男として認められるとあったが、自分にはとてもじゃないが無理だ。平野さん達も昔はそうやっていたんだろうか。

村の発達
村にプロパンガスが来たのは昭和30年〜40年代で、その前は薪を使った生活をしていた。テレビが来たのはちょうど東京オリンピックの頃。

昔の若者
テレビのない時代も若者は仕事ばかりしていたわけではなかった。
まず仕事についてだが、若者の仕事は基本的には農業の手伝いでありそれは男女とも変わらないが、女は子守りをすることも多かった。余談だが農繁期に学校を休んで手伝いをするのは当たり前だったそうだ。
若者達は夕食後クラブに集まって話をしたり、石上げで力比べをしたりしていた。そこは昔はわっかもん宿と呼ばれていて、その中では組に分かれて話をしていた。そこによその村の人が来ることはなく、村の中だけで楽しむ場所だった。
恋愛についてはやはりほとんどがお見合いで、相手は村の外の人だった。この時代は親の権限は絶対であり、親が決めたお見合い相手とは必ずお見合いしなくてはならなかった。
一部だが駈け落ちもあった(らしい)。

祭り
昔は村の祭りは一年に2度にわか祭りがあった(今ではのど自慢大会が行われている)。
今では昔のように太鼓をたたきながらコクンゾサンにのぼったりすることはないが、今でも行事があるとコクンゾサンの社へ行く。今年は夏にくんちがあり、その時も行くことになっているようだ。

[村の発展とこれから]
圃場整備について
古くは大正10年に4〜5町くらいの山や畑を田ん中にした(地図でいうと耕地畦の辺り)。しかしその場所は山の斜面で稲作には向かない土地だったので次第に田ん中として機能しなくなり、今では畑や果樹園になっている。
本格的な圃場整備は1956年に始まり、32〜35ヘクタールの水田のうち20ヘクタールくらいが対象となった。残りの10数ヘクタールはなぜ対象から外されたかというと、1反(10アール)当たり200万円ものお金がかかり、その7割が国の負担となるのでそれ以上かかる場所は許可が下りないのだそうだ。圃場整備がされた水田は米がよく取れるようになったが、そうでない場所は収量が低く将来的には全て放棄されるだろうとおっしゃっていた。しかし圃場整備がされたと言っても問題は山積みであるそうだ。

現在の農業の実際
昔は裸足で田ん中に入っていたので足の裏に枝が刺さったりしてとても痛かったそうだ。現在はトラクターやコンバインを使って農業をしており昔よりずっと楽になったが、その分購入費や肥料、農薬代などがかさみ、赤字になってしまうそうである。その原因の一端として肥料の内外価格差もあげていらした。


最後にこの調査に協力してくださった平野稔さん、田中寛太さん、田中和幸さんに深くお礼を申し上げます。