塩田町北下久間の昔

1LT00005T 生住昌大
1LT00022M 岩根修一
1LT00027G 内村大作

お話を聞かせてくれた人:下田夘八郎夫妻(現在67歳、60歳)

1.下久間周辺
・塩田町は元々久間村という村だった。
・東の山際は蓮池藩だった。
地名に「赤坂」「首塚」「胴坂」などがある。これらの不気味な(?)地名は、「鬼熊さん」というものすごく強いお侍さんに由来しているという。「赤坂」の赤は血の色を表したもので、昔はストレートに「血の坂」としていたが、やはり縁起が悪いということで「赤坂」にしたということだ。病人やけが人などもう助かりそうにない人も「赤坂」で首を斬り、今の「首塚」に首を、首から下を「胴坂」に埋めた。これらの地名は、現在の主要地方道、武雄・鹿島線沿いにある。
・中久間は昔、調練場という、馬を訓練するところであった。ここで豚なども飼っていたらしい。梨などを青年学校の人々が植えるなどの光景もあった。終戦後、光武炭鉱があったらしいが、今は住宅地となっている。ここの住宅は元々炭鉱で働く人々の居住地であったが、今はもう一般の人が住んでいる。
・治福寺の前に「たちゅさん」という供養塔がある。鍋島家の姫が他藩のものと恋に落ち、連れ戻され、自害したのち埋められたところである。この辺りでは、楽しい行事があったりすると決まって雨が降るという。この雨は殺された姫の涙だ、という悲しい話も聞いた。
・冬野部落には蓮池藩の飛び地があり、蓮池氏と鍋島氏は不仲であった。この不仲が「矢内」という地名を生む。両氏が対峙し矢を打ち合い、その矢の突き刺さっていた場所が「矢内」となったのだ。
・白いわ山では、貝殻が採れた。終戦後、椎の実を採りに行ったとき見つけたらしいが、このことから、この地域は大昔海であったのではないかと下田夫妻は語っていた。
 
※しこ名
・耕地整備が行われたのは昭和15年から。この時からそれぞれの田を「一本谷の○○番地」と呼ぶようになった。この頃、下田さんは6歳前後。耕地整備前にしこ名が存在したかどうかという情報は入手できなかった。

2.村の名前(シュウジの名前)
・中渡(ナカワタシ)、久保(クボ)、北谷(キタダン)、炭住(タンジュウ)、田畑(タバタ)、西山(ニシヤマ)、籠原(カゴワラ)、のぞえ、新御道(シミドウ)

3.村の水利
・光武(ミッタケ)に大きな堤がある。正式名は新堤だったらしいが、殆どの人は九十九曲(クジュクマガイ)と呼ぶ。これは昔、殿様が下久間地区に水を供給するためにつくった。ちょうちん測量ではかった。
・九十九曲堤から一本谷に続く水路のうち、山の斜面にあるものを山溝という。そして、その山溝を掃除することを「山溝さらえ」といい、村人全員が参加するように義務づけられている。
・志田原堤の水利権は一本谷が主にもっている。大草場なども。
・水利権をめぐっての争いを「水ゲンカ」という。村と村との争いではなく、村内での争いだったらしい。特に昭和20年代の大渇水の時は激しかったらしい。この話題のとき、「ホント水んことになると凄かですモン。」としきりに言っていた。
・ここでは「たかゆびはめ」という会議がある。これは田植え水路調整、配分を決めるもので、昔から続いていて今でも毎年6月10日前後の日曜日に行われている。ちなみに今年は11日にあった。
・水を田に引くとき、一日を四つに分けて水を配分する。
〜10:00まで〜12:00まで〜14:00まで〜17:00まで
一小分(ヒトコブ)二小分三小分四小分
という具合。
・渇水のときは水を田に入れ、見張りをたてて、黒くなったら次の田に入れるというふうにしていた。土のうを積んで水をせき止めていたりした。犠牲田をつくることはなかった。有明にある海童神社で雨乞いをした後、さらに「氏神さん」のところで祈った。
・逆に水害も頻繁におこる。昭和38年7月8日、「塩田暴れ」という水害があった。水害の後にはいつもヘビ(マムシ)が大量発生し、村人は困っていた。そこで「維盛さん」という人物が登場する。下田さん曰く「眼力の強か人」であり、久保に住んでいたという。「維盛さんの目の届くところは、マムシがおらんちゅうて言っとったですもん。」ということだが、維盛さんは年をとり、その得意な眼力も衰えてしまって近頃では再びマムシが増えてきてるという。こんな笑い話も聞けた。
・水害を防ぐために北上に堤を作ったが、昔水害を受けていた地域にかわって久保(維盛さんとこ)あたりが水害に遭っている。

4.村の耕地
・ここら辺の田は全て湿田である。その理由として、機械が導入され、コンバインを使うようになったので、その重量によって土を固めてしまい、水はけが悪くなり、田が乾かなくなってしまったことを挙げていた。
・他の場所から田を作りにきた人もいた。その人を「入人(イリュウド)」という。
・米の収穫量は、どの田もだいたい同じ。この周辺は地味がよいようで、(ある人の話によれば、新潟県の魚沼とよく似ているとのこと)おいしい米がとれる。
・戦前は肥料として、堆肥や下肥が使われた。堆肥は切り返し(何度も積みなおす作業)が難しく、苦労したようだ。下肥は、排泄物をかめに入れておいて発酵させて使った。
・草きり場はなかった。

5.耕作にともなう慣行
・虫除けとして「ステ」(菜種油のかす)を田に撒いて、靴の先で蹴って広げていた。また、「虫びえ」といって、夜たいまつをつけて「むしやんよー!」と言って田畑をまわることもしたらしい。昔は授業の一環として虫取りをしていたそうだ。

6.村の発達
・電気:昭和30年くらいに大戸山にきた。
・電話:昭和42年、農村集落電話。昭和47年 NTT電話回線。
・水道:およそ15年位前。足りない人は、湧水を(種まき祭のある場所まで)取りにいったり、各家庭の井戸を利用した。しかし、鉄分が多かったようだ。
・プロパンガス:昭和47年。しかし、昭和54年くらいまでゴエモン風呂に入っていたそうだ。

7.村の生活に必要な土地
・入り会い山はなく、燃料の薪は、自分の山を持っている人はその山の薪を使い、山を持たない人は製材所から分けてもらっていた。

8.米の保存
・米は米缶々(コメカンカン)というブリキの容器に入れて保存していた。
・家族で食べる飯米は、「はんみゃー」と言った。
・飯米には麦を入れていたが、麦のほうが割合が大きかった。
・粟や黍は、粟もち・黍もちにして食べていた。稗は食べていなかった。
・かぼちゃも米と同じくらいの主食であった。昔はヘチマのような細長い形で、「ボンタン」と呼ばれていた。これを紐でつるして保存し、米と混ぜて炊いて食べた。芋は土に埋めて保存し、これも米と混ぜて食べた。

9.村の動物
・牛か馬を各家に一匹ずつ。牛がいなければ馬を、馬がいなければ牛を飼っているといった具合。雄牛(馬)のことを「オンチョ」、雌牛(馬)のことを「メンチョ」と呼び、「メンチョ」のほうが多かったようだ。
・牛や馬を扱う商人を「ばくりゅう」と呼んだ。同様に、山を扱う人は山師(ヤマシ)といった。取り引きで値段を決めるときは、ばくりゅう(またはヤマシ)がタオルを持っていて、買う人がタオルの中で値段を指の本数で示し、本数の多い(値段の高い)人が購入権を得た。これらの人は口がうまく、人をひきつける力があったと言う。「今のマルチ商法みたいなモンで・・・。」とおっしゃっていた。「心はきれいはない。」(心がきれいではない)とも。
・馬や牛を洗うときは、北目川に連れて行って洗った。また、馬や牛が死んだときは山に埋めていた。

10.祭り
・2月11日:紀元節
・5月1日:種蒔祭 種もみは蒔く前に冷たい池の中に10日くらい入れておいた。
・8月6日か7日:四万六千日(シマンロクセンニチ) 長い珠玉を各々持って回し、「南無阿弥陀仏」と唱える。病気の魔よけとして行われた。
・8月31日:氏神祭 台風よけのためで、5つの部落で「ふうりゅう」(太鼓?)を競ってたたいた。また、まめぢょうちんを持って歩いたり、横笛を吹いたりした。
・夏:地蔵さん祭り
・12月14日:八天神社祭り (台所の)火の神様であり、九州一円で行われているのではないかとおっしゃっていた。
・毎月17日:観音様祭り
・祭りはシュウジ単位で行うのが基本であり、全員参加。家の形をモチーフにした箱が作られ、その中に祭りの記録を残した紙が収納されていた。この箱は順にシュウジの家々をまわり、まわってきた家が祭りの係りを受け持つ。祭りの時は、他の村からも人が訪れた。その他のときの往来はあまりなかったようである。

11.昔の若者
・青年クラブに所属し、その集団で寝泊りしていた。普段は、氏神祭に備え「ふうりゅう」を練習したり、踊りの稽古をしてそのまま寝るといった感じ。2ヶ月に一回くらい巡回映画や芝居がきた。また、「ドブロク」という闇酒を造った。山の中に甕を埋め、その中で米を発酵させ、こうじを混ぜて作る。当時はアルコール類の規制が厳しく手に入りにくかった。
・女の人は週に一回「夜学」があり、短歌、俳句をつくったり、洋裁、和裁、編物の稽古などをした。
・年に一度「お日待ち」というのが11月14日の夜から15日にかけてあり、この時期には青年クラブの若い人の家から順にとまって回った。この日には泥棒のようなことが許され、若い者(10歳くらい)から順に持ち、みかん、酒などを取ってきては皆で分けて飲み食いしていた。

12.古道について
・北谷(キタダン)というシュウジから大戸山に上る山道を北谷道(キタダミチ)といった。
・高畑というシュウジ辺りから大戸山を越え、小学校を通ってさらに西山部落へと続く古道があった。
・昭和2年ごろまでは、現在の地方主要道路武雄・鹿島線に武雄から鹿島まで続く馬鉄がはしっていた。その線路を汽道といった。久間郵便局の向かいに駅があった。郵便局の北にカーブになっているところでは、事故が多かったという。

13. 村のこれから
・塩田町としては人口が減ってはいるが、久間地区だけでみると増えている状態。高速道路に割合近いせいかも。今では住宅地も増えている。
・今は農業が非常にしにくい時代。農業に明るい未来が来るように、若い人たちによろしくお願いしたい、とおっしゃっていた。