塩田町 南下久間 1EC00250N 馬渡慎也 1EC00258Y 山下大輔 荒木司さん宅に到着すると笑顔で迎えられ、中の座敷へと案内された。座敷には荒木さんのお友達の諸井光男さんもいらっしゃった。私たちが来るということで、呼んでいただいたらしい。早速本題に入ったわけだが、まずはしこ名の聞き取りをした。調査したしこ名は小字ごとに並べると次のとおりである。 (1)しこ名 小字古子のうちに−ロクブバカ(六府墓) 小字西ノ前のうちに−ムカイコガ(向古賀) ウラコガ(浦古賀) シュクコガ(宿古賀) ヒヤドコ(火矢床) ミナミコガ(南古賀) ミナミゴエ(南越) マエコガ(前古賀) ハタケダ(畑田) ナシモト(梨元) シュクノウラ(宿の浦) ムゾノ トントン オニツカ 小字松籠のうちに−ツットイ(土取) 小字大道のうちに−シモコガ(下古賀) 小字一本谷のうちに−トオボシダ 小字椿のうちに−ガネクラ 小字南のうちに−ケンヅシ(剣突) 小字一本黒木のうちに−イワサキ(岩崎) シンマチ(新町) ホイキイ(堀切) ショウジマ(小島) サクラマチ(桜町) 小字二本黒木のうちに−ハチノカク(八の角) ミヤダ(宮田) フクロダ(袋田) ジョウヨビ ビワンクビ 小字三本松のうちに−スギデイ(杉堤) ヨビデイ ヒヤドコの由来は山の上から大砲のようなものを打っていたことからついた名だという。トオボシダとはその土地は米のとれる量が乏しかったから。ガネクラとは水田にカニ(ガネ)が多くいて、穴を掘って巣を作っていたことからだという。ケンヅシとは道の名前。イワサキとは川の向こう側に小さなお宮があって石の階段があったから。また、ホイキイは堤防の一部を切ったことからついた。このように、由来まで教えていただいたので、これだけのしこ名を調査するのにかなりの時間がかかってしまったが、なかなか興味深く、楽しみながら聞くことができた。しこ名を聞く間にお二方ともわからないことがあって、もう一人、知り合いの方を呼んでいただいた。江口良一さんがやってきてからはさらに話が盛り上がってきた。 (2)水利について Q1.水田に必要な水はどこから引水されるのか?また、どこへ排水されるのか? A. 丹生野(にぶの)、九十九曲(くじゅうくまがり)、大六(おおろく)、志田原(しだばる)などの溜め池から用水路を通って水田へと引水される。下久間地区の水田には梨元井堰やジョウヨビ井堰などから取水される。そして、すべて塩田川へと排水される。丹生野溜め池は毎日水を落とし、九十九曲溜め池は日を決めて(年3−4回)水を落としているらしい。 Q2.隣村との水の取り合いなどはなかったのか? A. 取り合いはないけれども、後山(うしろやま)地区には絶対にとらせない。山の上にある九十九曲溜め池は南下久間地区のもので、昔の殿様の権力が強く、南下久間の殿様が後山地区につくらせたという。水が必要な時期には溜め池の周りに番人を置いておき、勝手にとられないようにしているらしい。後山地区とは半分ずつ負担金を支払っているので、そうすることができるらしい。丹生野溜め池は集水面積が大きく、ここの水で、120f分(牛坂地区と中通地区で60f分、町分地区と下久間地区で60f分うち、南下久間地区の灌漑面積は41f分)の水田をまかなっている。雨が降ればすぐに水がたまるので、毎日水を落としてもかまわないらしい。一方、九十九曲溜め池は集水面積が小さく30f分をまかなっている。雨が降ってもなかなか水がたまらないので、ある一定期間だけ水を落とすのだという。 Q3.昔、干ばつが起こったときにはどうしていたのか?今ではどうなのか? A. 昭和7年ごろに干ばつが起きたときは技術がなかったからどうしようもなかった。そのときには水田が枯れていくのをただただ見ているだけしかなかったという。昭和57年、平成6年の干ばつのときには塩田川からポンプで水を汲み上げたらしい。干ばつは約10年に一度の割合で起きているとの話。 Q4.干ばつが起きたときには雨乞いなどはしていたのか? A. 雨乞いは海童神社や八幡神社などでおこなわれていた。 Q5.反対に、水害などが起きたときにはどう対処していたのか? A. 今は河川の整備が行われて堤防などができているが、昔(昭和47年頃)は入江川が氾濫して水田はすべて浸かってしまって、どうしようもなく、苗が腐ってしまっていたらしい。入江川はくねくねと曲がって流れているから、大雨が降ると、とたんに増水して、洪水が起きていたらしい。しかし近年、国の費用により、排水ポンプが5機設置されて、現在では4機が、稼働している。 (3)村の境界 Q1.村の境界はどこなのか、何が境になっているのか? A. 村の境界は川や舗装された道路、部落の境はあぜ道などでつくられている。 (4)耕作について Q1.稲しかできない田(湿田)や麦しかできない田(乾田)があったのかどうか? A. 麦しか作れない田はなく、稲作の後に裏作として麦を耕作していた。全員がしていたわけではなく、労力に余裕のある人がつくっていた。しかし、今となってはほとんどの人は麦を作っている人はいない。また、麦を作っても割に合わないので、意味がない。 Q2.化学肥料を使う以前は一反あたりどれくらいの米がとれていたのか? A. 昔は一反あたり5俵くらいとれていた。 Q3.良い田と悪い田とではどれくらいの差があるのか? A. その差は2−3俵の差。 Q4.化学肥料を使うとどのように変わったのか? A. 化学肥料を使うと今までよりも2俵くらい多くとれるようになった。豊作の年には1反あたりに10俵くらいの収穫があった。 昔の肥料としては、人糞・牛の堆肥・りんこう(鳥の糞)・いをごう(鰯などの魚を腐らせたもの)・草を腐らせてつくった堆肥・大豆かすなどが使用されていた。 (5)耕作に伴う慣行 Q1.村人が共同で行う作業はあったのか? A. 区役という作業を行っていた。 区役とは村人全員で行う作業で、今と昔では内容が変化したらしい。 (昔) ・災害箇所の復旧工事(水路、道路、その他) ・区画整理(S13年) 区民が手作業で行う。 ・昔は区役を行って給料を得ていたが、今は業者へ発注して工事をするため工事負担金を出す一方で農家は経済的に苦しくなった。 ・農家は昔は米、麦をシャーリキで街へ運び、その帰りに品物を運んで農家へ配った。 (現在) ・水路、道路の草刈などの維持管理をしている。 Q2.田んぼのあぜに何か植えたりしたのか? A. 昔は大豆、あずきなどを植えていた。今は圃場整備により15cmから20cmくらいコンクリートで固めている。 Q3.農薬に変わって良かった点と悪かった点。 A. 農薬の開発によって多く作れるようになったのに減反だから悪いことばかり。 Q4.農作業をしていて楽しいこと、苦痛なこと。 A. 今は仕方なく仕事している。今は米の需要が低くなり、価値が下がったことによって1反で4万の稼ぎがあればいい方だという。 (6)村の生活 Q1.飲み水や火を起こす薪はどこから調達したのか? A. 昔は水は井戸から。薪は1年分を2ヶ月かけて山から取ってきた。昭和34年から昭和35年くらいにガスがやってきた。 Q2.水や薪を買ったりしていたのか? A. 買ってない。 Q3.農作業のあまりない冬は何か仕事をしていたのか? A. 農作業は冬が最も忙しいといわれた。麦つくりによる、田畑の耕し、麦ふみなど。その他諸々。夏から秋にかけてが最も忙しいのかと思っていたらそうではないらしい。 Q4.牛や馬はいたのか?餌は? A. 馬はいない。牛の餌は麦、稲わら、あぜに生えている草など。馬は戦争に使われていなくなったが戦前までは馬がいた。 Q5.牛洗い場や馬洗い場はあったのか? A. 馬や牛は川で洗っていた。普通は一家に1頭持っていた。裕福な家は二頭以上飼っていたようだ Q6.米の保存は?売ることはあったのか? A. かまぎ(わらで作った袋)の中にどじゃ(紙で作った袋)を入れてその中に米を入れて、虫がつかないようにしていた。戦後、米の値段が上がったが、今とあまり変わらない売れ行き。昔は米の価格は物価指数で決まっていたが、今は輸入してくる米の値段で決まる。 Q7.不作のときはどうしていたか? A. 米が取れないときは塩田川の救済事業をしていた。昔は事業に参加する事で賃金を得ていたが、機械が発達したせいで今は業者がするから不作のときはなお苦しい。 Q8.隣村との交流はあったのか? A. 北下久間と南下久間で行事があった。といっても堤防関係の話など。 Q9.隣町への道は何か? A. 道は町、県道がほとんどらしい。 (7)村の祭り、行事 Q1.どんな祭りや行事があったのか? A. くんち(八幡さん)。夏祭りと秋のくんちは輪班制で部落全員でする。お礼と来 年の豊作祈願が目的。水を取るときも田植えをして2,3日後お礼に行く。 “さなぼい”(田植え後に各個人でお祝いをする)をしたりする。加勢人などにさなぼい饅頭などをごちそうしたりする。 (8)昔の若者の様子 Q1.恋愛について A. 青年クラブがあって、公民館(若っかもん宿)で芝居や相撲の話し合い、稽古などさまざまな催しがあり寝泊りをしていた。結婚祝などは隣町まで行っていた。昔は連帯意識や上下関係が非常に強かった。 (9)村のこれから Q1.これからどうなるのか? A. 老齢化が進んでいくのは間違いない。米の危機がやってきたときに対応できるように、農家は専業農家として残し発展させていかなければならないと荒木さんはいう。農家は食糧基地だからなくなることはないが、何とか自分たちの次の世代につないでいきたいという。 |