冬野
小玉 圭吾 1TE99024K 首藤 尚美 1EC99072M
お聞きした人 山口 良平さん 1931年生まれ
しこ名一覧 ジャノス(邪のす) ユノシリ(湯の尻)
*ヤニャー(矢流) アンノトウゲ(庵の峠)
ウウヒカリ *キイダ(杭田)
サンポ(三歩) ホンガヤ(本川)
ヤボノウチ(藪のうち) ヒヤケ(干焼け)
マエダ(前田)
* ヤニャ−;二つの高台の間に挟まれたところでお互いに矢を射あっ
たことからつけられた。
* キイダ ;みぞが泥でできているために杭を打たなくてはならない
ことからつけられた。
古賀一覧 イズミダイ(泉台) ナカ(中)
キタ(北) シエゴ
マルヤマ(丸山) カミ
キタビラキ シモ
アンノシタ
ため池の通称 モリシタ(森下)=冬野堤
シエゴ =神水川堤
ウータニ =大谷堤
橋の通称 小字・一本松のうちにフユノ
二本松のうちにナカバイ
黒木 のうちにホンガワ
井樋の通称 小字・椿のうちにジョウエビ
小字の由来 堂徳:堂徳坊という修玄者の坊さんに由来する。
黒木:黒木紫という神様に供える葉っぱが繁っていたことからつけ
られた。
水利と水利慣行について
村の水利 使用している用水 用水源
・シエゴ川 ・シエゴ(神水川堤)
・ウータニ川 ・ウータニ(大谷堤)
・入江川* ・モリシタ(冬野堤)
* 入江川はホンガヤの途中までが冬野の用水として使われているが
ここから下流は現在も隣の村の用水となっている。
冬野はため池が多いので水利は良い方である。また、モリシタは塩田町で
3〜4番目に大きいため池である。
旱魃 1994年の大旱魃について
7月8,9日の寄合の際、「今年は異常気象のようなので気を付けなくては
ならない。」と言っていたのだが、実際に大旱魃になってしまった。そこで
役人13人とため池に1人ずついる専番(年間4〜5千円の手当てがつく)
で対策を考え、耕作者55,6人から成る総会を開いた。
対策:シエゴとウータニは専番の責任とした。モリシタは専番もいたが、区長が
責任を持つことになった。入江川流域は平坦な田なので、常時3,4台のエ
ンジンポンプで水を高い所へ流した。この作業は、班を作って3交代で行
った。山口さんは当時区長だったので、朝3時半に起き、エンジンポンプ
の準備、整備をし、朝5時半から早い時で夜10時まで(深夜1時、2時
になることもしばしばだった)ぶっ通しで水をあげていた。ゴム草履をは
いて、真っ黒になるまで日に焼けて、2,3回皮がむけたという。とても大
変な作業で、「よく倒れなかったものだ」と当時を振り返られていた。
この旱魃の時、ホンガヤで用水をせき止めていたのだが、よその部落から
文句がきて結局開けることになった。この際、口論ではあったが、つかみ
かからんばかりの喧嘩となった。
しかしこの年の収穫高はよかったという。また、雨年はとれないという。
犠牲田はなかった。田への執着心が強いからである。
もし、50年前だったらどうなっていたのだろうか?
ポンプなどの機械力もなく、また昔はため池整備も悪かったので、3分の
2は枯れてしまっていただろう。
雨乞いは平成6年時、作業に追われて気力も時間もなかったためにし
なかったという。
昭和20年代から30年代初めには行われていた。鐘をたたいてお宮にお
参りをした。結果は、そうこうする内に9月になり時期的に雨が降ってき
たそうだ。
水害 昭和37年7月7,8日がひどかったという。入江川一帯が特にひどかった。
しかし、災害復旧によりここ十数年はない。
泥をかぶってしまった稲はだめになってしまったが、昔の稲は今の稲とは
違い、質より量重視であり生命力が強かったので、水浸しになってもまた
新しく生えてきた。
村の耕地 圃場整備以前、冬野の水田には湿田と乾田が入り混じっていた。
湿田と乾田の差は激しかった。湿田は機械が入れられないほどで、乾田は
砂が混じっていた。
・ 湿田:ウウヒカリの辺り一帯
・ 乾田:山のふもと一帯
米が良く取れる田は椿、黒木など入江川流域で9俵前後取れていた。
山に近づくにつれて土が肥えていないから良い田ではなかった。5,6俵。
この差は土壌・土質による地力の差。
化学肥料が入る前は6,7俵くらいだった。
昔は堆肥や人糞、ガタドロなどを肥料にしていた。
耕作にともなう慣行
あぜ あぜは泥だった。足でこねて作った。30〜40cm幅に足で踏んで大豆
をまき、もみがらをかぶせた。
大豆は食糧にするためだった。
農薬 菜種油の廃油や。石油発動機の油の廃油を使っていた。
竹の筒の下に穴をあけ、逆さにして油を垂らし足で油を蹴って広げて葉に
かけていた。
他に大豆かすやイオウゴという魚の腐れたものも使っていた。
昔は水がきれいだったので、田は臭くなどならなかった。
昔の暮らしについて
村の発達
電気 電気がなかったという記憶はないそうだ。照明はぼんやりと明るかった。
終戦放送はラジオのガーガ−いう音の中で聞いたそうだ。
ガス 昭和40年代半ばから普及した。それまではかまどでたきものばかりだっ
た。
正月の10日過ぎから、国有林の伐採が申請でき、樫の木(生木)を木の
そりにのせ牛に引かせたり、背負ったりして持ち帰った。
水 水は川の水・井戸の水を使った。水道がきたのは昭和50年代からである。
米の保存
米 山口さんの父親は米穀商でそれを仲買人に売っていた。牛車で米を
引っ張っていき、帰りが遅くなるので母親とちょうちんを持って迎えに行
っていた。
農協も昔からあったけれど、統制が厳しくなったのは、太平洋戦争中から。
(昭和16年くらいから。)それまでは自由だった。
小作人 昔は小作人ばかりだった。小作人と地主の仲は険悪だった。強制的な関係
だった。地主は小作人を見下げていた。
自作田がないと発言力もなく、よい意見を言っても取り合ってもらえなか
った。
今でも小作人根性・地主根性というのは残っているという。
地主にはプライドがある。お祭りの時や、お酒を飲む時などに、昔の名残
がでるという。
青田売り 終戦くらいまであったらしい。
家族米 ハンミャ−と呼ばれていた。
保存のためにもみぐらが家にひとつあった。この中には米が入った丸や四
角のわらの袋が入っていた。
種籾もハンミャ−と同じところに保存していた。
ネズミ対策 どこの家でもだいたい猫を飼っていた。
50年前 食事における米・麦の割合は10:1だった。
米だけになったのは、生活レベルの向上してきた昭和40年代から。
雑穀 粟は作っていなかった。
稗は田んぼに雑草として生えてきていたものを刈り取り、川に捨てたりし
ていた。そのため翌年また田んぼに流れ込んできてそれが芽を出すのであ
る。それの繰り返しだったようだ。
稗、芋のような雑穀、特に芋は戦争前後(〜40年まで)主食だった。
村の動物
家畜 牛や馬は冬野60戸で50頭の牛、2頭の馬がいた。
牛は雌牛ばかりだった。
雄牛はドウビキ(道引)といって、山のたき木などをかつがせていた。
馬洗い場はホンガヤやサンポの近くにあった。牛の腹がつかるくらいの
深さでたわしでこすってやっていた。
牛は水洗いが好きだそうだ。
牛が病死したらジャノスの横辺りの区有地にすてていた。
博労 ばくりゅうはいた。口がうまかったらしい。
今でも自動車のセールスの人など口がうまい人を
「ばくりゅうのごたん。」
というそうだ。
村の道 隣の村に行く道は三つの道だけであった。
この道は人力車がようやく通れるくらいの狭い道であった。
塩や魚は商店街で買っていた。
狸やイノシシが堂徳辺りまで下ってきていた。
まつり ・水神祭 8月上旬 :男の子だけの祭
・七神祭 88夜 5月1日
・天神祭
・山神祭 1月9日
・風火祭 2月10日のあたり :風よけの祭
・カス神祭 12月1日
お祭は部落(古賀)単位で行われていた。男と女は別々にお祭に参加する。
まだ男尊女卑の風習が残っているらしく女の人は年寄りしか参加できない。
昔の若者 テレビも映画もなかった時代、特に夜、若者は集会所(青年クラブ)でフ
ウリュウをたたいて談義していた。
なすび泥棒、すいか泥棒というのもいたがそれくらいは許されていたよう
だ。
規律は厳しかった。特に復員軍人の人は木刀などを持ってスパルタ的指導
を行っていた。
若者は村の中で付き合う人はおらず、祭や運動会などで出会って恋に落ち
た。
村の変化 麦わら屋根が瓦屋根にかわったくらいで、あまり戦前と変わっていない。
</font>
</td></tr>
</table>
</center>
</body>
</html>