五町田における現地調査 1LT00025S 内田 耕一 1LT00137T 藤原 史彦 情報提供者:蒲原 武さん(昭和5年生) 1) 五町田において調査したしこ名 a)一覧(五十音順) ・小字今川:カワタ/川田、クボ/窪、タカダ/高田、タケンウチ/竹ん内、フチノウエ/渕ノ上、ホウデンジ(田のしこ名) ・小字平山:コウラキデイ、サナツボ、シオタイリウチ/塩滞流内、ジゾウマエ/地蔵前、シチジュウ/七十、ジッチョウ、タカマゴジャア/高まごじゃあ、ハカウエ/墓上、ハッテンメイ、ワダンタン/和田谷(田のしこ名) アブラヤマ/油山、ジゾウヤマ/地蔵山(山のしこ名) イチノカワチ/一ノ河内、ゴンゲンダニ/権現谷、ネズミダニ/鼠谷、マエノタニ/前ノ谷、ミロクタニ/弥勒谷(谷のしこ名) ・小字辺田:イチノタニ/一ノ谷、ナメシ、コノ、ヤージャ(谷のしこ名)、 カツガシラ、タチバンゴウシ/立番格子?(山のしこ名) ・小字流海:アカダ/赤田、イチノタニ/一ノ谷、ウゴンモリ、ウマンジュウ/馬十or馬集、スミヤキマエ/炭焼前、タカマゴジャア/高まごじゃあ、ツカハラ/塚原、 トウノモト/塔ノ本、ヒャクダ、マゴジャア(田のしこ名) ハナタテミゾ/花立溝(用水路のしこ名) ・小字谷 :ヤシキ/屋敷、ミセ/店(住宅地のしこ名) ※番外編:塩田川にかかる唐泉橋は、「どうしょう橋」と呼ばれていたそうだ。 b)調査内容 ・小字今川: カワタ…川に隣接している場所で、昔は生産力の低い湿田だったそうだ。 クボ …やはり川沿いの、低地部分をこう呼んだらしい。 タカダ…流海・塩田川の州の中で高台の部分をこう呼んでいたそうだ。 タケンウチ…漢字の通りの意味で、昔この地域には竹が植えられて いたそうだ。 フチノウエ…川の曲渕に隣接するためこの名が付いたようだ。 ホウデンジ…ほうでん寺という寺の所領に由来するそうだ。 ・小字平山: コウラキデイ…残念ながら由来・意味は判らない。 サナツボ…上に同じ。 シオタイリウチ…流海川の丁度淀みの部分に隣接する地域で、水害のおりにはここで水が渦を巻いていたそうだ。 ジゾウマエ…地蔵山の麓に位置するためこの名が付けられたようだ。 シチジュウ…残念ながら由来・意味は判らない。 ジッチョウ…上に同じ。 高マゴジャア…流海・平山の両域にまたがる中々広い田。流海地区のマゴジャアよりも一段高い位置にあるためこの名が付いたようだ。 ハカウエ…墓地の前にあったらしい。 ハッテンメイ…残念ながら由来・意味は判らない。 ワダンタン…残念ながら由来・意味は判らない。 ・小字辺田: 辺田に属するしこ名(山・谷)は全て由来・意味が判らない。 ・小字流海: アカダ…赤土を多く含む土壌だったようだ。 イチノタニ…一ノ谷(谷)の前にあるため。 ウゴンモリ…残念ながら由来・意味は判らない。 ウマンジュウ…残念ながら由来・意味は判らない。ただ、この名称は現在も使われているらしく、昔この田があったと思われる場所には、馬集橋がかかっている。(写真参照) スミヤキマエ…炭焼小屋が道を挟んだ所にあったそうだ。 高マゴジャア…平山を参照のこと。 ツカハラ…残念ながら由来・意味は判らない。しかし、昔から取水口が設けられ、塚原井手として利用されていたため、重要な地域ではあったようだ。馬集と同様、この田があったと思われる場所には塚原橋がかかっている。(写真参照) トウノモト…詳しくは判らないが、このトウは塔のことで、卒塔婆か仏閣の塔を指していると思われる。 ヒャクダ…恐らくは「百田」の漢字をあてるのだろう。小さな田が集まっていたらしい。 マゴジャア…残念ながら由来・意味は判らない。 ・小字谷 : ヤシキ…そのまま「屋敷」である。元々は庄屋などの富裕な村民が住んでいた土地であったため、この名となっているようだ。 ミセ …そのまま「店」である。元々は職人の店元などがあった場所あるようだ。 2)調査地一帯の風俗 a)五町田の由来 伝承によると、和泉式部の親が授かった五町の領地がこの名の由来であるらし い。 b)言語 藤津郡は杵島郡や武雄市とは元の藩が違うため、方言やアクセントが異なるようだ。 例えば、小路をシュウジと言うのは杵島郡や武雄市の方で、藤津郡、特に塩田町の周辺では使わないそうだ。 c)災害 ・ 水害:この地域は塩田・流海両河川の流域であり、度々水害に見舞われてきた。しかし、堰の改良などに伴い頻度は減少し、昭和37年7月8日の大水害を最後に大きな水害は起こっていない。 ・旱魃:前述の通りこの地域は非常に水源に富んでおり、過去の大旱魃においてもさして大きな被害は無かった。例えば、平成6年7月の旱魃においても、平野部は勿論、通常は水不足に悩まされる山間部にも多くの水が供給されている。 d)村政 昔から、村政は基本的には一月の一度の部落常会で決められてきたようだ。この中では、水役・栓役の決定なども行われたそうだ。 ※水役…毎朝用水路や川の様子を見て回る仕事。水路の管理者といえる。 ※栓役…雨の日などに溜め池や堰の水門を調節して氾濫を防ぐ仕事。ちなみにこの地域の水源は第一・第二立山溜池である。 ※この地域においては、流海川を挟んで平山字側の人々が水役に、辺田字の人々が栓役に従事することが多かったそうだ。お話を伺った蒲原さんも水役に就いたことがあるそうだ。 e)発展 ・鉄道…嬉野〜塩田を結ぶ鉄道が、大正4年に敷設された。これは昭和7年に廃止になった。 ・電気…大正元年には電灯が導入されるなど、電力の普及は早かった。 ・ガス…不明。 ・水道…不明。 f)農業 ・牛耕…コンバインやトラクターの導入以前は、各農家が牛1・2頭を所持し牛耕を行っていたそうだ。 ・ 収穫した米…昔は仲買人が来て各農家から買い取っていたのでほぼ現金払い であったのに対し、現在は農協ライスセンターに納入する為売却金が清算されるのに2年もかかるそうだ。 ※一俵当たりの値段:最高額は昭和59〜61年の1万8668円で、現在は1万6500円まで低下している。 ※昔は米種だけで40種近く作付していたが、現在は8種に減少している。 また、品種も昔は早稲が無く収穫時期も10月下旬頃だったが、現在は 大半が早稲であり、その収穫時期も10月初旬にまで早まっている。 ・専業と兼業…170戸ほどある農家の内、専業農家は1〜2戸で、あとは兼業である。兼業の職種としては公務員などがあるが、この地域では昔から兼業として大工などの職人業を営む者が多かったそうだ。しかし現在は20戸ほどに減少している。 ・ 行事…特徴的な行事は余りないが、田植え後の草取りを三度行い、それぞれ一番草(田植え後)、二番草、三番草(盆前に行う)と呼ぶそうだ。 g)昔の若者 ・ 農期は一日のほとんどを農業の手伝いに費やし、また農閑期も薪拾いなどに従事することが多かったそうだ。 ・ 遊びといえば、川などの自然の中で遊ぶことが多かったらしい。 ・学校は数が少なく、長距離を歩いて通うことが多かったそうで、平山や流海に住む子供も、畦川内をまたいで東側に位置する五町田小学校まで歩いて通ったそうだ。 3)レポートの感想 ・しこ名の調査ということで、現地調査はある程度難航するかと思われたが、現地でお話を伺った蒲原さんは大変話しがうまく、またしこ名について詳しく知っておられたので、予想以上に調査ははかどった。心残りなのは、折角大量の情報を教えて頂いたのにその全てを生かしきれなかったことである。次回このような調査があれば、より良いレポートが作成できるようにしたい。 (藤原 史彦) ・蒲原さんのお話を聞いた後、抜けるような青空の下で実際に現地に向かって写真を撮った折、光の関係でうまく撮れなかったものがあったのが心残りではある。が、自分の生まれる前の日本に触れるという今回の体験は非常に勉強になった。時間があれば私の住む土地のしこ名を調べてみたいと思う。 (内田 耕一) 最後に、貴重な時間を割いてお話を聞かせてくださった蒲原武さん、及び蒲原さんの紹介にあたって多大なご迷惑をおかけしてしまった緒方義美さん、大変ありがとうございました。 |