熊野現地調査レポート
7月22日土曜日実施

九州大学経済学部 
1EC99150E  宮嵜 幸之進
   1EC99151K  宮本 幸児 

聞き取った通称地名
橋山峠 うらんたに うらんやま しんざと(しんじゃこ)さぎの つつみんした はしやま まえどう ていしゃば(元電車の停車場) かくだ

私たちは、佐賀県藤津郡塩田町の熊野地区の現地調査を行った。4人の方からお話を聞いたり、資料をいただいたりした。以下にそれを列挙していく。熊野は、その周辺地域の谷、辺田、南とあわせ、通称「美野・ミノ」と呼んでいる。現在、行政上は塩田町大字五町田乙である。
江戸時代は、美野村、美濃とも書いてある。塩田川の右岸、篠岳の麓にある村である。鍋島の蓮池藩であり、山地は鍋島の本藩領である。南大草野村から「長崎街道」が通っている。塩田川は美野渡しで徒わたりしていたという。美野渡しは「広十二間、深丹二、三尺、小石川陸渡、但し山川故俄水出、半日程渡不成事有」といわれた難所で川止めもあった。それで間宿としての役割も果たし「もぐら宿」ともよばれたそうだ。
 熊野は、塩田川が流れており、水田にかかる水はすべてそこから引水されていた。同時に熊野は山の麓にも位置しているため、山麓にはため池もあった。塩田川は現在では整備されているが、むかしは大雨が降るたびに氾濫を起こし水害が起きていたそうである。現在もため池は存在し、1994年に起こった大旱魃の時はため池の水はなくなってしまったが、消防車をかりだして塩田川の水を汲み上げ、それをため池や田に放水し、このように近くに塩田川があったおかげでそれほど大きな被害を受けたということはなかったそうだ。
 取水は、塩田川の「千石井堰」から行い、谷、辺田、南とあわせて四集落で共有していた。各集落には区長がおり、さらにそれを統括する大区長がおり、話し合いの上で何事も行われていたので争いが起こるといった事はなかったということだ。
村の耕地は、圃場整備以前は、ほとんどの田で麦が作られ乾田であった。現在ではもう作られていないとのことであった。減反政策のために大豆や小豆が作られるようにもなったとのことだ。耕耘機が導入される以前は各家庭に1頭またはそれ以上牛または馬を所持していたとのことだ。ばくりゅうが存在し、やせた牛馬を連れてきては各家庭で太らせた牛馬と交換していたそうだ。口はそうとう達者であったらしい。現在では畜産を営んでる所しか所持していないということだ。
 村の発達をみてみると、電気は昭和初期にはすでに通っていたもようである。プロパンガス昭和30年ごろ入ってきて、それまでは薪を使って済ませていた。ご飯を炊くにも風呂を沸かすにも薪であった。薪は購入する必要はなく、山に取りに行けば多量にあったので、不自由はしなかったという。
 村の発達として付け加えておきたいのが電車開通についてである。大正4年12月19日に県内初の電車が嬉野・塩田間を走った。この電車は、明治44年嬉野町有志により、資本金百万円で肥前電気鉄道株式会社が創立され、これを経営した。電車は塩田から宮の元、美野、橋山、大草野式浪、今寺、下宿を通って嬉野へと通じていた。この電車は単線で延長6マイル、客車4両、貨車2両で運転し、昭和2年の乗客数は延べ23万2700人に達した。旧制鹿島中学校、鹿島高等女学校の生徒も下宿せず自宅から通学できるようになった。朝や下校時の電車は中学生、女学生で満員になった。
 第二期工事として嬉野・彼杵間、第三期工事として嬉野・武雄間の路線が計画されていたが、会社の不振により東邦電力に買収され、東邦が鉄道運営に重点をおかず電燈供給に重点をおいたのと、昭和6年、祐徳門前―武雄間の祐徳軌道が廃止され、電車との連絡が切れてしまい、その上バス、トラックの発達にともない採算が取れず、昭和7年、会社が台風で被害を受けたのを機に廃止され、電車は18年の歴史を閉じた。電車廃止後電車が通っていた所が、人が行き交いする道となり呼び名も「電車道」と呼ばれ、停車場(電車が止まる駅)は現在でも「ていしゃば」と呼ばれている。
 以上が、4にんの方々の話を大まかにまとめたものである。川が整備される以前、水害が頻繁に起こっていたことを除けば、いたってのどかな村であったと感じられた。
 
次にお話を聞いた方の一人の方とのやりとりについて記す。乱雑な列挙の形になるがご容赦いただきたい。
大正11年生まれの現在78歳になられた方の今の生活、若いころ、昔と今を比べて思うことなどお話いただいたことを記していく。
熊野では水道がきてから20年くらい経過したが、水道料が大変高くつくという。そこで水道料金が高いので思いきってそのお宅では3年前にボーリングして井戸を掘ったそのとき、日本一水道料の高い町として、清水国明がレポーターのテレビの取材が来た。取材が来たときにちょうどボーリングが終了して、「東京から清水(国明)が来たけん、家では清水が噴き出したー、ちゅうてからはしゃぎよった。」とのことだ。そのお宅には、トロフィーがいくつか置かれていたので聞くと、ゲートボール大会で優勝したのだと教えていただいた。町内大会で優勝し、郡の選抜チームにも選ばれ、「そいぎ町から10人の1人にいれられてさ、鳥栖のグラウンドまで行ったさ。」と楽しそうに話してくださった。若いころの話をうかがうと、あまり遊ぶといった状況ではなかったと言われた。18歳の1月には海軍に召集され、戦争一色という感じであったと言われた。天皇が絶対の時代であり、今とは思想が違い、時代劇の世界だと言われた。
 そういう時代ではあったが、少しは遊びも存在したと言われた。若い人たちは青年団を作り、若いもののたまり場として青年クラブというものが存在した。
 今でいう公民館のようなものらしい。夜はそこへ行って泊まったりしていたそうだ。青年団の中には30歳くらいの頭がいて、1つでも年が下であれば、絶対服従であったそうだ。今の軍隊のような感じだとも言われたが、「今のわっかもんにはわからん。」とも言われた。厳しくはあったが青年団で花見をして1週間飲み続けたりしたと言われ、絆の深さも相当なものであったことが垣間見られた。
 よその村の人との交流はほとんどなく、男女が一緒にいることも今のようにはなかったという。「男女が昼間に一緒に歩くこととかそぎゃんことは絶対でけんばい。」祭りの日約束しておいて、待ち合わせて、しかしながら極力人に見つからないように注意しながら会っていたということだ。
 戦争時くらい、すいか(なし、柿、みかんなど)泥棒が若者の中ではやっていたという。下駄を手に持って、裸足で青年クラブに逃げ込んでいたということだ。昔は、今のように商業用に栽培されているわけではなかったので、そういうことは、若者の仕事として大目に見られていたそうだ。
 村のこれからについては、昔は5軒くらいで40人ほどいた子供が、現在は45軒くらいで4〜6人しかいない小学生のことにふれて、「子供のおらんごとなってしまいよるわけたいね、それが1番おどんはねぇ心配にゃーて思よったい。」と言って顔をしかめられた。子供がいなくなっていくことが切実な問題だということがわかった。子供ができたとしても女の子ばかりだと、養子を迎えない限り、自分の姓がなくなっていくことも、心配なのかなと感じた。「あんたたちも25,6までにかかあば持たんば!40ぐらいまでかかあ持たんば子供のできんけん。」と言われ、皆で笑ったが、確かに考えなければならない問題ではある。
 そして、昔と今を比べておっしゃられることには、昔は人が和やかで親切心があった。夏は近所と声をかけあって外に出て涼んだりしていた、と。しかし、今はどの家も戸でも何でも閉めきっていて、叫んでも隣にさえ聞こえるかどうかわからない、と。よそのことはどうでもいい、自分たちさえよければそれでいいという風潮があるとおっしゃられた。寂しい時代になりつつあると感じた。時代が変われば、そのような人情も変化するものなのかなと思うと寂しく感じた。
 以上が古老の方との話をまとめたものである。
 最後に、熊野を訪れて、私たちは緑のきれいさに感動した。塩吹のバス停付近でバスを下車し、熊野へ向かう途中の付近に見える山と空との美しい景色を見て思わず写真を撮ってしまった。熊野の現地調査を通して、自然、人などとの交わりを再考することができた。これからの生活に何らかの形で役立てていきたい。