「歩いて歴史を考える」 塩田町 袋近辺 実地調査レポート L2-12 1EC99140R 松吉 信明 L2-12 1EC99158G 山嵜 洋平 今回私達がお世話になった方は本人自ら水利や圃場整備に関する記録をなさっていた方だったので水利や昔に起こった水害などに関すことは詳しく知る事ができたと思う。まず、水利について述べる事にする。 水利権を持つということは、何よりもまず、管理をする義務を負わせられることになる。管理をしていたという記録は、享保16年約268年前から残っているようである。鍋島氏がこの水利を監督するようになって異常な発展を遂げ、また、前田伸右衛門という塩田出身の人が私財を投じて更なる発展を遂げるに至ったということである。しかし、これは文書の記録に残っているものでもっと昔から圃場整備や灌漑用水があった可能性はあるようである。水利関係においては、享保、天明、天保時代は大飢饉が起こっており、平成6年も圃場整備と塩田川の改修がなければ飢饉になっていただろうということで、これが明治、大正初期であれば間違いなく大惨事になっていただろう。しかし、人力、人工によって飢饉を免れたことは平成6年のことは貴重な体験になったそうである。この方は、この体験を今後起こったときの為に対処法など細かく文章として残していらっしゃる。 話を聞いていて松尾さんもおっしゃっていたことだが、奇妙というか何か神懸かり的なものを感じたことがある。というのも、昭和14年にも干ばつがきているということであるが、これが救われたのが8月27日に雨が降ったことであり平成6年もこの日に雨が降っているというのである。ただ、昭和14年においては松尾さんは軍隊にいたため定かではないそうであるが…。このように同じ日に恵みの雨とでも言うべきか、雨が降ったのであるから何かこの日に神秘的なものを感じてならない。そして、因縁を感じるとおっしゃるのが籾岳観音寺である。松尾さんがこの寺の伝説をまとめた資料をいただいたので一緒に提出する。だから、水利に関して周囲にあるような宗教感を無視する事はできないのかもしれない。 水利関係においてまとめておくと、蓮池の鍋島直純公による最善の努力、また、その後を継ぐようにでてきた前田伸右衛門によって大いなる発展と塩田地区の繁栄がなされたということである。そして、前田伸右衛門の後の重松勘兵衛(漢字があっているか分からないが)が当時の用水路の地図を作っているようである。しかも、現在とほぼ変わっていないということである。(ここで、その地図を見せていただきましたが、200年近くも前のものとは思えないほどきれいで精巧なものでした。)水路の地図を見ると明らかに自然なものではなく、人工的な水の流れになっていた。塩田地区の人は昔から水という資源に対する感心が非常に高かったのが、松尾さんの話や資料などから見受けられる。それで、あまりにも水利に関する感心が高かった為に、「この地方では、昔から干ばつが多かったのか?」という質問をしたところ、松尾さん宅の近辺は比較的に上流に位置する為、干ばつによる直接的な影響はなかったようであるが、下流域の人は被害が大きかった事が予想できる。それから、塩田川の周辺に位置する人々は、昭和30年頃まで飲料水、また生活用水だった。だから、この地区の人は川を大切にし、汚物、生活廃水を決して川には流さなかったようで、飲料水には事欠くことはない、という状態はなく川周辺に住んでいなかった人は、涌き水を汲んだり、谷川から汲んだりした。また、近くにそのような水がなかった人は家の周りに濠を作り、雨水をためて生活をしていたということである。今では考えられない生活である。以上にあげたことがこの地方の水利、水に関連した生活の一部である。 しこ名に関しては私達の尋ね方が悪かった為にちゃんと調べる事ができなかった。その代わりと言っては何であるが、町の名前の由来を聞いたり調べたりした。これは、このレポートには書かず、地図に書き記してある。 話は圃場整備に戻るが、「圃場整備をしてから何か大きく変わったことは?」という質問には、結局、農家の出費負担が多くなった、とのことだ。人間の労力は減るけれども、とにかく出費が増大する。また、「その影響で、農家として成り立ちにくくなってしまったのでは?」と質問すると、負担金に見合っただけの収益をあげなければならなくなる。それが、米価の低下に伴い収益が落ちると共に、自分の有する土地の耕作であれば自分自身の労力で補えるのであるが、他人に対する出費、例えば、水利関係の補修費、水をポンプでくみ上げる為の労賃、圃場整備を担当した場合の元金などで出費がかさむ。労力に対する負担は減るが、農家の生活に直接的にお金という形で与える影響は大きいようである。一般の人は政府に対して農家に対して過保護すぎると批判するが、実際には負担は同じなのである。しかし、今の段階でこのような措置をとっておかないと、農業従事者が減ってきている今日においては、労力が不足する為に農業ができないという事態に及んでしまうという可能性がある、とのことである。次に、「圃場整備をする前には乾田と湿田が入り混じっていたのか?」と質問するとだいたい排水関係でこういった乾田や湿田といった現象が起きていたようである。圃場整備をする前は川の水面が高く、雨が降ったら治水をしてという状況であったが、圃場整備によって水路の幅が広がり、直線化したので、潅水してもすぐに水がはける。よって今、圃場整備した所は完全に二毛作ができるような状態になっている。 「今後、農業をする人の人手が足りなくなる事に対する対処法などは?」との質問には、松尾さんの世代で農業をすることは良い事ばかりであったが、しかし、今現在農産物については外国産の安価なものと比較し、国内に積極的に輸入しようとするならば、農業に従事する人はどんどん農業では生計を立てられなくなってしまう。これに対し、給料取り(サラリーマン)はかえって収入は上がっている。これでは、農業を離れていくことは当然の結果なのかもしれない。それに、外国の安価ではあるが安全性にかける農作物が入ってくるようになれば、日本産の少々高価ではあるが、安全性においては外国産のものとは比べられないくらい良いものは売れなくなってしまう。そうなれば、農業の他に仕事を持ったり(いわゆる兼業農家)、農業を仕方なくやめなければならなくなる。だから、根本的に政府の考える農作物の自給率は間違っているのかもしれない。外国の作物を大量に輸入してしまう事は、農業従事者の首をしめていることになるし、一般に外国産の作物を摂取することは安全性の面において非常に欠けるのかもしれない。松尾さんの話を聞いていると非常に納得する部分多く、また、感心する部分が多かった。余談ではあるが、松尾さんは戦争体験記なるものを自分で書き残しておられます。こちらの話もなさってくれたのだが、今回は、このことについては触れないでおこうと思います。かなり几帳面に書いてあるので戦争を一般的な解釈とはまた違った形でとらえられるものであると思います。機会があれば目を通してもらうのもいいかと思います。 以上のことは、松尾さんの話をそのままの順番で書き記したものである。 次に私達が個人的に歴史資料館で調べた事を書こうと思う。 「農業の移り変わり」 昭和20年代までの農業は、鍬や鋤を使い手で耕したり、牛や馬を利用したが、昭和30年代に入ると、耕作機械の発達と共に、機械化農業へと大きく変化して きた。また、米や麦中心から鍛治や園芸作物、畜産を取りいれるなど幅広い農 業へと変わってきた。 「農地の移り変わり」 昔の水田は作業に困難が多かった為に、明治時代から小規模の耕地整理を行 った。昭和40年代からは、水田の大部分を対象とする圃場整備が始まり、その 90%以上が完成した。現在では農業に機械化に便利で、灌漑、排水に優れた 水田となった。 「農家の副業」 塩田の農家では米や麦を作る傍ら、いろいろな仕事をした。多くの家では機 が織られ、その他ムシロ織りや米俵作り、縄綯い簑編みや養蚕などで収入の増 加をはかった。また山間部では、炭焼きや木材の切り出しの合間に農業を営む 家もあった。 「人々の暮らし」 経済の成長に伴い、人々の暮らしは大きく変化し、モノは豊かになり生活は 便利になったが、伝統行事やならわしが廃れてきた。しかし、近年地域ぐるみ の村おこし運動が起こり、伝統が見直されたり様々な活動が広まりつつある。 「塩田のみなと」 塩田の町は、昔から塩田川を利用した港町として、また、長崎街道の宿場町 としてこの地方の交通、商業の中心地であった。御蔵の米は主に大阪に積み出 し、天草陶石等を荷あげされた。昭和5年に鹿島に鉄道が開通するまでは、物 資の集散地としてにぎわった。 塩田町の歴史は水害との戦いであった。塩田川は県下有数の多雨地帯である 多良山系に源を発し、吉田、嬉野の急流を下り、大草野から蛇行し、塩田町裏 まで流れる。そこで上潮に阻まれて洪水を引き起こす。7・8水害以降、全町民 の水害追放の願いが高まり、川の流れを変え、川幅を広げる河川改修が強力に 進められ、水害のない住み良い町に変わりつつある。 水害の歴史
これが、私達2人が調べた全てである。 |