塩田町下野辺田町の水利について
Q:水田にかかる水はどこから引いているのか。
A:下野辺田より上流の塩田川から引水する。

Q:何という井堰から取り入れているのか。
A:カントウイデ(関東井手)と呼ばれる堰から取水している。

Q:その用水の水は下野辺田だけで使っているのか。
A:関東井手から下野辺田までにはいくつかのムラを用水が通っている・よって下野辺田だけでその用水を用いることはできない。もちろん、他のムラとの共同利用である。下野辺田以外でその用水の恩恵を受けて、宮ノ本にも、用水は通っていたが宮ノ本は関東井出のさらに上流の塩吹から取水していた。

Q:水の配分に関して特別なルールはあったのか。
A:あったが、普段は自然の流れにまかせている。今は小さな井手を細細と作るのではなく大きな井手一つから取水をするようになった。

Q:水争いはあったのか。
A:なかった。ただ、昔、早魅があったとき下流の町から水をまわすように言われたことはあった。そのときは排水を塩田川に流して下流の田に水を回すようにした・

Q:水利に関する慣行にはどのようなものがあるのか。A:”みぞさあらえ”と言って少なくとも一年に一回は溝の掃除をする。ごみや草を取ったりする。生活排水の水路は年に二回、農業用水路は土用干しで水路をせき止めるときに”かまざあらえ”といってみんなで掃除する。かまば鎌のことである。

早魅について
Q:1994年の早魅のときはどのようにして水をまかなったのか。
A:”回し水”と言って区長が田の様子を見て今日はどこ、今日はどこという風に水の主流を流すところを決めて水をまかなった。

Q:もし、1994年のような早魅が50年前に起こったらどうなっていたのか。
A:想像もつかないが、今より耕作面積は過去の方が広いうえに、今のようにポンプで取水すると言うことができていないので1994年の早魅よりひどい被害が出ていたのではないか。

Q:雨乞いはあったか、
A:戦時中くらいEひどい早魅があり、雨乞いを太鼓をたたきながらどこかのお宮をめざし歩いた記憶がある。今では防災の日を風日として厄日のようにとらえて、前夜は太鼓や笛を吹いたりする風習がある。浄土真宗が多くて浄土真宗はまじないや迷信を嫌うためあまりこの集落では宗教じみた風習はあまりない。

Q:水害はあったか。
A:塩田川の堤防が決壊したことは何回もある。特に昭和37年の水害はひどかった・

村の耕地について
Q:湿田と乾田はどこか。
A:下入田、上人田は湿田でその他は乾田である。

Q:裏作としてはなにを作っているか。
A:麦が主。しかし、いくら乾田といっても昔は裏作の作業はやりにくかった。

Q:よく米のとれる田はどこか。
A:今小路、清水川、畑田はよくとれる。塩田川がそばにあるからだろうか、水がよく引く。そして土地もなにか砂がかっている。そのせいかはしらないがよくこのあたりはよく取れる。

Q:科学肥料が入ってから収穫高は変わったか。
A:今と昔で収穫高というものはさして変わらない。というのは現在は機械を使う関係で稲の植え方が昔よりも雑である。そして、同じ面積あたりに植える稲の数は現在の方が断然少ない。しかし、その状態で変わらないと言うことはやはり、今の方が効率がよくなったのであろう。

Q:あぜに大豆や小豆を植えることはあったか。
A:あった。そしてそれらは自家用のものとして育てていた。

村の発達について
Q:村に電気とプロパンガスはいつ頃きたのか。
A:電気は大正10年前後。ガスは昭和27年頃であった。電気といっても電灯にしか用いられていなかった。その前はランプを用いていた。ガスが来るまえは薪等を用いていた。

村の生活に必要な土地について
Q:入り合い地はあったのか。
A:なかった。薪は雑木山でとる。稲藁や麦藁を風呂を炊いたりする時に用いて、薪は米を炊くときに用いた。

米の保存について
Q:農協がある前米はどうやって売り買いしていたか。
A:俵単位で小さい農家司±で余剰分を売り買いしていた

。Q:青田売りはあったか。
A:なかったが、家庭菜園のレベルではあったと思う。

Q:家族で食べるお米を何と言ったか。
A:”はんみゃあ”(飯米)といった

Q:どのようにして米を保存したか。
A:玄米の状態にして俵につめた。そしてコメビツと呼ばれる板張りの部屋を作ってそこに俵を保管した。種籾は一反あたり15キログラムほどの割合で袋につめてコメビツの天井からぶら下げる形で保存した。

Q:お米以外にどのような穀物を食していたか。
A:麦、サツマイモがおも。他にもきび、こきび、粟がある。さらにこれらの穀物をもちにして食していた。正月から4月くらいまで、様々な穀物でもちをついて食した。米以外の穀物をそれだけで食べると言うことはあまりなくお米と混ぜる形で食べていた。

村の動物について
Q:牛や馬はいたか。
A:牛はいたが馬はあまりいなかった。大体大きな農家がもっていた。下野辺田では10卓刊こ2軒の割合でもっている家があった。そして小さな農家は大きな農家に頼んで牛を使わせてもらった。そして、もちろん手間返しといった習慣もあった。農作業はだいたい集団で行われ、結を結成していた。みんなで次は誰の家、次は誰の家というふうに田をまわって田植えをしていた

。Q:馬洗い場は何処にあったか。
A:タマガワで馬を洗っていた。

Q:博労さんはいたか。
A:いた。彼らは牛馬の売買の仲介を行っていた。”ばくりゅうからだまさるんなよ”と言われていたそうだ。それほど商売に浸けた人がやっていた。

村の道について
Q:昔の隣の村へ行く道はどれか。
A:下野辺田には長崎街道が通っている。また、県道も割合昔から通っていた。それらを利用していた。また、特別に学校道と言うものはなかった。

Q:魚や塩は何処から運ばれてきたのか。
A:塩田町は内陸だが、天草陶土を運ぶために塩田橋のあたりに港をもっていた。そこに海産物を運んできていた。

まつりについて
Q:村の祭りは一年を通してどのようなものがあるのか。
A:春祭りと、秋祭りがある。丹生神社の氏子の10集落が持ち回りで祭りを主催する。受け持った集落は全員参加。他の集落は区長さんといった、立場のある人が参加する。

昔の若者について
Q:昔の若者はどのようにして日々を過ごしていたのか。
A:おにごっこや竹馬、戦争ごっこなどをしてあそんだ。そのほかにもトマト、キュウリ、すいをこ、うりを盗んだりもした。そのようなことは若気のいたりとして許された。あと、ラソオも聞いた。ニュースを聞いたり、連続放送(現在のドラマ)を聞いたり時間帯によってラジオを聞いていた。他にも、相撲や、中等野球大会もきいた。子供の仕事としては風呂沸かしや掃除、農繁期は親と一緒に農事に従事した。また、青年倶楽部といって青年の集まるところがあった。ここには夕食後青年たちが話をしたりするのに集まった。また、時代が下れぱよばいもあった。男女の恋愛については、祭りのときなどに出会いの機会はあったが、見合い結婚が主であった。さらに仲人をかってでる世話好きのおいさんがいてその人の仲介で周りがお膳立てをして結婚をしていた。

むらのこれから
Q:今までで変わったところはなにか。
A:農作業が機械化や用水の整備などで昔に比べると雲泥の差で楽になった。また20代や30代の人が働ける場所が塩田にはない。大学から上はどうしても他所に出て行き、他所で就職してしまう。また塩田小学校の児童数も昭和15年前後は8学年で六百人ほどいたのが今では三百人ほどに減ってしまっている。塩田町で高齢化が進んでいるのは否めない。昔は70歳で働くことはなかったが現在は珍しくない。また昔に比べ、’現在はゆとりがなくなったのでは。大人でも祭りの日や正月、盆、節句の日はずっと遊んでいた。ところが今は盆と正月くらいしか遊べない。昔より機械化などで楽になった筈なのに昔より忙しくなっている。

お話し:筒井文男さん(昭和五年生まれ)
調査:高濱良有(1LT00088N) 宮本茂治(1LT00154M)
一日の行動
11:30到着11:30から12130昼食及び現地の下見。
12:30から15:30筒井さんにお話しをうかがう。
15:30から16:00筒井さんの話を基に現地を歩いてみる。
16:00から16:10集合場所へ移動。16110バスに乗り込む。

最後に(感想)今回の調査で率直にかんじたことは我々が日本史の教科書で文字や単語として知っている世界を実感できてなんともいえない思いをしたということである。我々が日本史の塾科書で出てきた単語(例えば結、もやい)が実際に筒井さんの口から実感のこもった語として発せられるとなにか言葉.で睦言い表せないが感慨深いものがあった。今回の授業のタイトルが’歩いて歴史を考える’であったが本当に筒井さんのお話を聞くことで歴史に思いをはせることができた。自分たちにも身近なところに古老のかたがたはいる。そのかたがたからも昔の日本の姿を聞いてみるのも面白いのではないかと私たちは思っている。今回の実地調査をきっかけに得るものがあったことは我々にとっておおきな喜びである。

しこ名一覧表
村名・下野辺田

しこ名

田畑:カミイリタ(上人田)シモイリタ(下入田)イマコウジ(今小路)ハタケダ(畑田)ウラダ(浦田)シミズゴウ(清水川)ニホンマツ(二本松)サンボンマツ(三本松)キタシホンマツ(北四本松)シホンマツ(四本松)ナカタ(永田)テンシンダ(天神田)

ほか:ノベタ(野辺田)マルハヤシ(丸林)シシカトウ(獅子ヶ塔)イケノタニ(池ノ谷)

使用している用水の名前水源:塩田川

井手:関東井手

用水路:ナカミゾ(中溝)タマガワ