歩いて歴史を考える〜塩田町 宮ノ元の現地調査〜

坂口 直子
城井 えりな

私たちは、失われつつある通称名称や昔の村の姿・慣習を記録して後世に残すために塩田町について詳しい森 敏治さんく大正11年 3月30日生まれ)にお話を伺うことにしました。

○村の水利について
・水田にかかる水はどこから引水され何という井堰から取り入れるのか?
塩田町の中心を通り、有明港に注ぐ塩田川から引水しています。地図を見てもらうとわかるように、馬場下ちや−ぱる(平原)一帯は豊富な塩田川の水を開発井堰から取り入れています。また馬場下ちゃーばるの田んなかから脇の溝に流れでた水は花立水路を通り、水のあまり豊富でない北鹿島へむけて柳瀬井堰を通して流れていきます。花立水路の管理・清掃については、北鹿島の人が行っています。

・用水を受益する村、また配分に関して直接受溢する村は、馬場下ちやーばる一帯の馬場下村く宮の元・布手・本谷・下野辺田)でした。配分に関しては、馬場下の区長さんが、何日に水を井堰から落とすか、といった特別な権限を持って管理していたため、特にルールといりたものはなかったです。また、それぞれの区長さんが平等に取り仕切っていたので水利が特別に強い柑もありませんでした。ただ、個人的には他の人の田んなかの水を抜いたりするといった争いはたまにあったようです。

・水利に辞する慣行について
関東井堰の水門を開ける水落しがそれにあてはまると思います。普は水落しと田植えの開始日は区長さんによって決められていましたが、現在では、水落しの日のみ共通で、田植えの開始日に関しては、それぞれの農家に決定権があります。

・1994年(平成¢年)大早姓について
各々の田んなかの水を花立水路を通して塩田川に落して、水資源の乏しい北鹿島に送ったこともありました。またこの塩田町では時間給水のことを回し水といって、今日はここの田んなか、明日はあの田んなか、とほんの一都の田んなかに集中的に1日間水をいれて、次の日には水を扱いてその水を他の田に移すといった習珠があり、このやり方で旱魃をしのいでいました。

・水害、又それを和らげるための堤防はどのようであったか?
馬場下ちやぱるでは、すぐ側を塩田川が流れているため、水資源が鼻音な反面、洪水の危険にさらされています。だから田んなかの共ん中に二重堤防が築かれています。(図1参考)堤防の縦を横土手くよこでい)、磯を以前に堤防の代わりに結えてあった木々にちなんではぜの木土手(でい)などと呼んでいます。これは、昭和初期にできたもので、その前までは江戸中期以降、前田 伸右衝門によって造られた図2のような二重堤防がつかわれていました。川の近くの堤防を低く、もう一方を満くし、その間の田んなかを蛾牲田として、ダムとして使えるようにし、田んなかの被害を最小限におさえようとしました。塩田川の水はひくのにそう時間がかからないため、犠牲田となった田んなかもある程度の収穫を得ることができたようです。

○耕作にともなう慣行
・あぜに大豆や小豆をうえることはあったか?
馬場下ちや一ばるでは、あぜに大豆を植えることが多かったです。実を収鑽することを目的とするのでなく、茎や兼の部分を青草として土に踏み込んで艦料としていました。また、小豆は実をとるために栽培されていました。

・雨乞について
特に、雨乞だけを目的にしているのではないのですが、馬場下ちや−ばるには、かざぴ(風水)といって、水神である丹生神社くたんしょうじんしや)に参る行事があります。(集りの絹参照)。塩田町で雨乞がさかんに行われていたのは、次の3集落でした。鶴野では、五万塔山の山頂で塩田町独自の神に奉げる踊り浮立くふりゆう)を曇をPPきながら捕ったり、堤上でも虚空蔵山で人々は浄立を捕りながら、雨の降るのを祈りました。また牛坂では、塩田川を下り有明海の中央の岩、尾島まで船の上で浄立をしながら参りにいきました。昔は、今の様に娯楽が無かったために、人々のたのしみの一つでもありました。

・農薬のない時代に、虫除けにどんなことをしていたのか?
私の覚えている限りでは、虫の駆除に3つほど手段があったようにおもいます。1つめは、筒に菜種油や鯨油をいれ、ひとりがそれを持って田んなかの中をいきます。その2〜3メートル後ろから、もうひとりが油の溜まった水面を蹴って、稲についた虫を水中に落とします。落ちた虫は水面に浄かんだ油に阻まれて水中で死んでしまうというしくみになっ います.2つめは、夜に松明を燃やして虫をよび、一カ所に集めて燃やすものです。3つめは、誘蛾灯といってブリキの缶に油を入れ火をともし、その明かりに集まった虫をそこから出れなくさせるというものです。科学技術が進歩し姉めたころ、技術のみを優先してしまって、毒性の強いものが多く、なかには死んでしまう人もいて、そのころは前記のような昔ながらの技術を見直す人が多くいました。

○村の動物
・牛や鳥、それらを交換してもうけていた博労はいたか?
牛や馬は農家には欠かせない生き物でした。牛や馬の糞を肥料にしたり、田をおこすための耕作用としても重宝されました。また港へはこぶ肥料や、港から水車へとはこぶ陶石(有田焼きの原料となる、粉状の陶土になる前の石の状態のもの。塩田町でほとんど作られていた。)のために運搬用の車をひかせる牛や馬もいました。く馬は4台、牛は2台車をひいていた。)そのような事を職業とした人のことを馬方と呼んでいました。次に博労についてですが、ここらへんでは、ぱくりゆうと呼んでいました。やはり交渉によって売り買いする値段が変わってくるので、口がうまい人が多かったでしょう。

○村の道
・古い道をどんなものが運ばれてきたのか?
塩田は江戸時代長崎街道の宿、塩田宿として栄えていました。また有明海とも速く、港町としても塩田建津とも呼ばれていました。とりわけ水路で運ばれてくるものが多く、満潮に乗って船がやってきました。有田焼の原料となる陶土の生産は盤田、特に宮ノ元で最も盛んに行われていて、天草で採れる陶土くあまくさいし)がこの水路にのりて運ばれてきました。

・塩や魚はどこからきたのか、♯が産んできたのか?
魚は近くの有明海から魚屋や行商がかごに入れて売りにきていました。塩田の人々は有明海を‘まえんもん’とか、‘まえのうみ’などと呼んでいます。塩については、通常はほとんどといっていいほど入りてこず、おくんち く祭りの絹参照)の時に市で売られている塩魚ぐらいが、唯一塩物として手に入れられるものでした。

・峠を越えてくる動物はいたか?
塩田町には峠があります。鍋野には千浦(ちゆうら)峠、塩吹には唐土峠、辺田には三社峠などがあります。今でも時々話になっていますが、いのししが民家の家付近にやってきていました。