調査場所:佐賀県塩田町馬場下について

話者;松尾喬 大正12年5月27日生まれ

しこ名について
小字しこ名
関東一おにし、 関東井堰
今川もとじろ
関東二上古賀
関東三中古賀
宮の下下古賀
宮の上原じゃあ、宮の谷

祭りについて

 丹生神社のくんち 旧暦9月7日
 しめもと注連元(しめ七五三)が注連縄を作る。馬場下では10の部落があり、10年に1回当番が回ってくる。1年に1回行列を作ってみこしを下の宮まで送る
にょうはち鐃鉢 のぼりさし、はおり、はかき
僧衣
鑓十本・・・村人ではなく組合の人
昔は笛吹きがいた、部落によって出し物がある
宮司坊
大宮寺

二十日恵比寿

二月
花入り十五日
今はあまりやってない

四月
春酒盛
農作業前の元気付け

六月
さなぼり
田植えが無事終わったことを祝う

七月
抵園
疫病や害虫などの災害の除去を祈願

九月
二百十夜

十月
くんち

十一月
お日待ち
餅を作る お日様に感謝

十二月
神祭り
神待ち祭り 出雲の神が帰ってくる

鳥の羽重ね

 河川の洪水、堤防の決壊による被害を最小限に食い止めるため、塩田川本流の堤防を切断して、狂ったような濁流を川の湾曲内側の二重堤防の中の導き、その激流を和らげる遊水地のことである。遊水地は平らな水田であるため、上流から流れてきた泥流は水が引くとともに肥料分を含んだ微細泥土を砂礫土の水田に沈殿させて置き土産としたため、肥沃な良田となった。その遺構は河川改修、耕地整理などの土木工事によってだんだん減少しつつあるが、現在でも大草野万才、塩吹、美野、畦川内部落にその姿を見ることができる。
 昔の堤防は現在道路となっているところが多く、二重堤防の遺構は、美野熊野地区がもっとも明瞭である。
肥前電気鉄道      第一号
 佐賀県西端、長崎県に隣接する嬉野温泉へ通じる小電鉄である。明治37年、当時の九州鉄道現国鉄佐世保線高橋より武雄を経て、日本三大稲荷のひとつである祐徳稲荷へ達する馬車起動、後に内燃動力となった3フィート軌間の有徳軌道が開通した。
大正4年、その途中駅塩田から前期嬉野温泉へ約10qの電車が開通したのがこの肥前電気軌道→肥前電気鉄道で、俗に嬉野電車と称されていた。石油発動車に牽引された小さい客車に稲荷詣での客や嬉野入湯の客は、塩田で下車、少し離れた嬉野電車に乗り場から6インチ軌間の広い電車に乗り換え塩田川沿いの山間部を約30分で温泉へ向かったわけである。
 この小電鉄の寿命も短く、昭和5年国鉄肥前山口より肥前浜まで有明海沿いの国鉄有明線、後に諫早まで全通して長崎本線となる新線が開通した。そのためにほぼ平行する前期有徳軌道は同6年4月29日補償を受けて廃止した。ところがこの肥前電気鉄道の起点、塩田が祐徳軌道の廃止で連絡がなくなり宙に浮いた格好となり、バス事業の発達など影響して同年12月25日付で営業を廃止した。  肥前電気鉄道は開業時に2両、鉄道になった時点で4両の在籍があり、開業時の2両では両数不足と、さらに2両増備した。当初の2両はブリル21E台車、増備の2両はブラッシュ製のラジアル台車を使用していたようである。廃止後は4両とも小倉電気軌道→西鉄北方線へ売却された。
 電気鉄道1型はありふれたオープンデッキ、段落屋根のチンチン電車であり、車体巾は1829mmと2‘−6“軌間用並の車体巾である。恐らく搬入のため前記祐徳軌道を経由するので、その車両定規に合わせたのも一つの理由であろう。全線専用軌道であり、もう少し巾の広い車体でも然るべきである。貨車を連絡するため中央緩衝式の連結器を備えている。制動機、制御機、電動機は奥村製とあるが、明治、大正年間京都にあった電機メーカー奥村製作所の製品が装備されているのが珍しい。

農業について

 農薬を使い始めたのは、戦後から。また、ブリキの缶に菜種油や鯨油を入れて少しづつ落としていき、蛾を飛べなくするという方法も取られていた。
 水利官公は取り決めが特に厳しく、何日の何時から何時までとはっきり決められる場合もあった
 水車が当時は多く、水車をまわして石を砕いて粘土を取り出して有田などにもっていた。 米を砕く水車もあった。
 天草からとう石を船で塩田に持ってきていた。
 馬車や牛車を使っていた。
 また、電気やガスがないころは、まきを他人の山からも取ってきたりしていた。特に小枝を束ねたものを「びゃーら」と呼び、それを売ってお金にしている人もいた。
 松のたたら木をかまどに使っていた。

水路

 塩田川の川辺に、水神がまつられている。その総本社が宮の元丹生神社である。
 和銅二年(709)1291年前右大臣藤原不比等勅命を奉じ当社を創建したと伝えられている。また承和2年(835)場場主殿守が水神罔象女命を大和国丹生神社から御分神をおうつし申し上げ爾来馬場家は丹生神社に仕えられ現宮司馬場正典氏は代を重ねて46代目の宮司として神に仕えられています。
 塩田の開発を考えると、縄文弥生時代と人々が山麓部にすんでいたことが石器等の出土から考えられる。その後、米作りが始まった。昔、潮高満川と呼ばれていた塩田川流域も開発され、人が住みつき集落ができた。このように奈良時代丹生神社が創建され、川の平安を念じ五穀豊穣を神に念じていたという説がある。
 塩田川の開発に伴い、嬉野町丹生川を川上丹生神社として、平野、湯野田、井出川内、大草野とまつられ宮の元をその総本社とされました。塩田川は有明海に流れ込みますが、その満潮と重なると、しばしば大水害をもたらしました。水害追放は町の大きな願いでした。歴代町長さんは、治水工事に取り組まれその成果が着々とできています。
 干ばつの時には、回し水といって、地域を限定して水を入れていっていた。

感想

 昔の町について調べてみると、昔の人達の知恵や努力がよく伝わってきた。しこ名を思ったよりも全然集めきれなかったので、残念だった。そこで。今度機会があったら私たちの町のしこ名を近所の人や家の人に聞いてみたいと思います。後、塩田の人達には、非常にお世話になりました。こちら側としては、迷惑しか掛けていないのに、それにもかかわらず、塩田の人達のあたたかいもてなしに感謝と申し訳なさの気持ちがあります。
 今回、調べたことはこれで終わりにするのではなくて、これらを教訓にして自分たちの町の昔からの伝統や産物、しこ名を含めて保存し未来に残していかなければいけないと思うのが率直な意見です。

調査者  甲斐 健太郎、田代 康晴、森崎 美友