【神埼郡東脊振村横田・永田ヶ里】

歩き、み、ふれる歴史学 現地調査レポート

1LA99053 緒方哲也

1LA99021 石村信幸

 

<東脊振村横田>

東脊振村に着くと、横田調査部隊である石村・緒方組は、先日の突然の電話にもかかわらず依頼を引き受けてくださった井手征悌さん(昭和5年生・69歳)宅を訪ねた。「先日お電話を差し上げた九州大学の者ですが」と声をかけると、快く家の中に入れてくださり、お話をお聞きすることになった。早速、古くからの地名や田の名前を聞いてそれを地図に落とすという作業から開始することにした。まず、以下ではその地区にある地名やそれに関連することを記す。

 

《しこ名一覧》

1.松の内

・サンダンガク(三段角)、イチノツボ(一ノ坪)、タケノコ、ハヤマ(速馬)

「タケノコ」はそこにある田の形が山に生えるあのタケノコに似ているということか  らつけられた名前なのだそうだ。

また、ハヤマには天神様の祭られる社があり、井手さん宅へ向かう途中、自分たちも通りがかった。祭りも催されていたそうだが、それについては後述する。

2.八幡の下

・カモイデバシ(鴨井手橋)、ユウセン、ハチマンクルマ、カワラバシ(河原橋)

  「カモイデバシ」は古くからの橋の名であるが、現在でも地図上に残っている。

「カワラバシ」は、話の中によると上記の通りだが、地図上では「川原橋」と記されている。しかし国語辞典によれば、二つの字は同義であるので、問題は特にないであろう。

「ハチマンクルマ」は、正式には「ハチマンノクルマ」であるが、それを言いやすくしたものである。これに関しては「永田ヶ里編」を参照のこと。

3.松原

・マキノサカ

漢字でどう表記するかははっきりしないようである。ただ井手さんによれば、「巻」  である可能性が高いのではないか、とのことである。また、この名前は地形に由来する。横田付近をたとえるなら、前川を馬の鬣として水田がその首のように広がっている。そのため、「マキノサカ」付近はちょうど坂になっている。

4.瀬ノ尾

・ユノサカ(湯ノ坂)、ハサゴ、ジゾウノ(地蔵野)

  「温泉とはいかんばってん、あったかい湯が湧き出ていたけんユノサカちいうごたあ  るね」との言葉が由来を説明しているが、少し首を傾げ、言い伝えで聞いた、と言うような顔でおっしゃったのを聞くと、どうやらその湯はもう枯れてしまっている可能性が高い。

「ジゾウノ」は昔その一帯は山で、そのあたりをまとめて呼んでいたそうであるが、現在は住宅地となっている。

5.瀬尾ヶ里

・ナカゼノ(中瀬尾)、シモゼノ(下瀬尾)、ニンブダ

  地元の人は瀬尾ヶ里の北半分をナカゼノ、南半分をシモゼノといっているそうだ。  ただし、「カミゼノちいうのはなかね」とのこと。

6東外

・ヒガシヤマ(東山)、ゴウノマチ(郷ノ町)

  「ヒガシヤマ」は昔、山だったが、今は切り開かれているそうだ。また、永田ヶ里のほうにはこれと対になるかのように「ニシヤマ(西山)」が存在している。

 

《村の水利》

 横田の地形は先はどの馬の鬣の例えのようになっているため、土地の低い田手川から水を引くことをせずに、一旦、田手川をせき止め、その水を前川に流し込んで利用するというのを基本としている。ほり(クリーク)は無く、代わりにいぜきを利用している。いぜきにも名前がついており、「ホシマタ(干又)いぜき」と「ザイガワ(在川)いぜき」とがある。どちらも昭和14年以前に作られたそうで、この昭和14年というのは、この地方に旱魃が起こった年である。この年に「横田溜池」が朝鮮人の手作業によって作られた。現在は旱魃が起こってもポンプによって水をくみ上げることができるそうだ。また、旱魃の折には「センバタキ(千束焚き)」という雨乞いの儀式が行われた。麦わらなどを燃やすこの儀式は、燃やすことによって発生する蒸気によって雲を呼び雨を降らそうとする意味を持っている。

 

《村の発達》

 横田に電気がきたのは昭和初期のことで、周りの村よりも早い。これは東脊振村にある山の中に、川を利用した発電所があるため。プロパンガスは昭和50年代にきた。以前はランプ、炊飯には薪をかまどにくべて行っていたそうだ。

 

《村の生活に必要な土地》

 東脊振村は山に近い村だが、横田周辺には入会他のようなものは無いそうである。自分の山の木を20年に一回くらいの割合で切ったり、また収穫の後に出たわらを燃やしたりして利用していたそうだ。それに関連して、魚などの海産物はどこから運び込まれたかを聞いたところ、魚売りが自転車で売りにきていたという話である。しかし、どこから売りにきていたかということまでは不明である。

 

《米の保存》

 農協に出す前は、米は仲買人に売っていたそうである。肥料は肥料屋から手に入れたり、馬糞など家畜からのものを使ったりしたそうだが、仲買人はこの肥料屋をかねていた。そのため米の代金と肥料代を差し引くという形で取引をしていた。また、今も地主と小作人の関係はあるらしい。青田売りはこの付近ではなかった。家族で食べる飯米は保有米と呼び、俵で保存したり、終戦頃にはブリキの缶で保存したりした。

 

《村の動物》

 昔は各家庭に一頭は牛馬がいたそうである。農耕、その糞は肥料として利用していた。餌は主に田からでた草。

 

《祭り》

 上述したとおり「ハヤマ(速馬)」には天神様の祭られる社がある。ここを井手さんは親しみを込めた様子で「速馬の天神さん」と呼んでいらっしゃった。自分の田を持つ人の中には速馬の天神に田を奉納する人もいた。納めた田は共有地となり、そこに神主を呼んで神事を行っていたそうである。人数は制限され、しかも男性のみが参加を許されていた。しかし、「戦後はだんだん廃れてきたねえ」と語る井手さんの面持ちはやはり寂しそうだった。

 

《昔の若者》

 まず村の人々の娯楽について。芝居座が村までやってきて、竹の垣根で囲まれた芝居小屋で一週間ほどの興行をしていたそうである。村の若者は「青年会場」と呼ばれるところでほかの村の若者とも交流していた。「青年会場」とは、今でいう公民館のようなものであったらしい。柔道、囲碁、将棋、また博打のようなことをして楽しんでいた。しかし、そこに集まるのは男のみであった。結婚相手は同じ村の人とは限らなかったそうだ。

 

《村のこれから》

 横田には昔50戸ぐらいあり、ほとんどが農家だったが、今では370戸中25戸という割合にまで減少した。しかも農家といっても専業農家から兼業農家への移行は進んでいるようである。深刻な、また残念そうな顔で井手さんはこのようなことを話してくださった。

 

 

<東脊振村永田ヶ里>

横田の調査が終わった。次は永田ヶ里の調査であるが、訪ねる当てがない。困った。調査前に依頼した方はもともと永田ヶ里の方ではなく、昔のことは分からないそうである。紹介をお願いしたが、これも無理だった。どうにかなるだろうと思っていたが…やはり困った。

仕方ないのでとにかく歩くことにした。すると農作業中のおじさんがいた。周りに人はあまりいない。このおじさんにとりあえず聞こう。大声で呼んでみた。迫ってくる。ちょっと怖そう。昔のことはよく知らないので、97歳の斎藤さんという人がいるから聞いてみろ、とおいしい情報を提供してくれた。根は優しいようである。「記念僑」という橋を渡るが、はっきり斎藤さん宅が分からない。もう一度民家の人に尋ねると、すぐ近くの家がその97歳の斎藤さん宅のようだ。この人もまた親切であった。そして、どうやら長老の斎藤さんはこのあたりではかなり有名人のようだ。97歳には見えないが、ある程度昔のことを知っていそうな老人を、斎藤さん宅と思われる家の庭で発見。話を聞くことにした。そしてこの方こそが斎藤さん。もうすぐ98歳になるという。とても元気そうである。一世紀近く生きてここまで動ける人はそういない。まず、それに感動であった。そして息子さん(この方もまたある程度の年齢)と、2人で調査に協力していただいた。

 

《しこ名》

ナマズゴ(鯰後)、メンデイ(免樋)、サクラノキノシタ(桜の木下)、シェゴウ(神水河)、オバル(小原)、クエキシ

 

《シュウジ》

カワラキタ(河原北)、カワラミナミ(河原南)、キタアゲ、ミナミアゲ、カワニシ、ナカノハラ(中ノ原)

 

《村の水利》

このあたりの川には多くの水車がかかっていたそうだ。さらに水車の一つ一つにも名前がついていた。

ナカンクルマ(中の車)、シモンクルマ(下の車)、ハチマンクルマ(八幡の車)、タケシタサンノクルマ(竹下さんの車)

今では水車は使われず、タービンで水をくみ上げているそうだ。竹下さんの車は竹下という人が持っていたことからつけられた。また、「あれが一番の水害じゃったなあ」という大きな水害が昭和28年にあったそうだ。その水害で神崎橋というのが流されてしまったそうだ。この水害を「ニジュウハッスイ」と呼んでおられた。

 

《村の発達》

電気がいつ頃きたかは、「子供ん時からきとったよ」(98歳になられる斎藤さん)、「うちのじいさんが子供ちゅうたら、もう九十年ちかく前じゃ(笑)」(息子の斎藤さん)の会話から導ける。つまり1900年代初頭。というと日露戦争前後か。すごい昔だ。しかし、この話は横田の場合とかなりのずれがある。二つの地域は目と鼻の先だが、時期にずれがあったのか、その疑問についての質問は残念ながら時間が許さなかった。ただ、近くに発電所があるから、という理由でほかより早いということは一致していた。プロパンガスは息子の斎藤さんの奥さんが「私がここに来た頃、昭和36年にはもうあったけんねえ」とおっしゃっていたことを聞くと、それ以前にはあったということになる。それより深いことは不明。

 

《米の保存》

米は、農協に出す前の時代は業者に売っていたようだ。中には貯蔵しておいて、みんなが売って少なくなってから値が高くなって売るという商売上手の人もいたようである。地主と小作人の関係は、「そらあったなあ。3軒くらい地主がおった」らしい。家族で食べる飯米は保有米と言うそうだ。また、もみで保存していた。かます(わらの袋)や、ブリキの缶に入れての保存だったようだ。また、青田売りということは「なか」。

 

《村の動物》

農耕用にはじめは馬を利用していた。それから牛に変わったという。「昔は馬ばかりじゃった」しかし馬は高いので、大きくなって売ってもたいした儲けにならない。それに比べて牛は、小さい仔牛は買うとき安く、大きくなって売るときは高くなる。「農耕だけじゃのうて、そういう利益もあったわな」なるほど、感心である。草、わら、麦、米ぬか、麦かす、干草がえさだったそうだ。それと「馬洗い場ゆうほどじゃないけど、みんな川で洗いよったなあ」

 

《まつり》

最近はあまりしないらしい。昔は太鼓をたたいたり、男は酒を持ち寄って杯を酌み交わし、女は炊事をしたりしていた。それは「男も女も、子供も大人も」全員参加だったようだ。しかし、時代を経るとともに行われなくなってきたらしい。少し残念そうな顔に見えた。

 

《昔の若者》

青年宿、青年クラブと呼ばれるところで話をしたり、酒を飲んだり、若者同士で騒いでいたようだ。また寝たりもしていたそうだ。これはうれしそうに話してくださった。

 

このあたりまで聞いたところで、長老斎藤さんは「わしはこのへんで」と言って場を去ろうとした。確かに疲れる。僕達は立ったまま長々と話を聞かせてもらっていたのだ。まだ聞きたいことはあったのだが、これは仕方がない。斎藤さん親子と息子さんの奥さんの3人にお礼を言って帰ることにした。最後に息子さんが「ここにおってつらかったことはなんもない。殺人なんかゆうのはずっとない。ほんとにつらいことはなか」うれしそうに話してくださった。疑うことはなかった。この村で数人しか会っていないが、どの人も親切だった。特に何の連絡もなく突然訪れた人に、本当に親切に調査の協力をしていただいた斎藤さん親子には感謝の気持ちでいっぱいだった。