【東脊振村辛上・松葉】※松葉は時間不足のため未調査
歩き、見、ふれる歴史学 現地調査レポート
1LA99012 天野 豪
1LA99039 梅 雄介
聞き取りした相手:伊東 勇氏(昭和8年生まれ)
《しこ名》
マエダ、ハッタン、ダンジャーダ、ベンジャサン、ノーシロ(苗代)、ハギワラ、カブトヤマ
辛上は「1の坪」、「2の坪」から成り立っていることになっているが、それは役場が勝手に決めた名前や土地の区分であり、現地の人が実際に辛上として認めている生活空間は「1の坪」だけであった。しこ名を聞こうとすると、伊東さんは「2の坪は関係ない」とおっしゃった。伊東さんは、しこ名についてあまりわからないとのことだった。それは、伊東さんは若い頃に田畑の保有が少なかったため出稼ぎに行っていたからである。そのため、詳しい話を知っているだろうと、大野商店の川上さんという方を紹介していただいた。しかし、あいにく留守のためお話を聞くことはできなかった。そこで、辛上で最年長で70歳の志岐正巳さんという方を紹介していただいた。志岐さんによると、しこ名はいくつか残っているが、はっきりとした境界はわからないとおっしゃられた。辛上の人達は誰かを探すとき、「××(しこ名)の方で働いている」などというふうに話されているとのことだった。
現住、「1の坪」の土地は県や国が買収しているらしい。吉野ヶ里遺跡の発掘に伴って、辛上あたりに記念公園をつくる計画があるらしい。今では、登記上の問題で買収されていない土地と民家の付近に小さな田畑がわずかに残っているだけであった。「1の坪」の土地がなくなり記念公園ができるので、辛上地区の民家を囲む外周道路をつくり境界線をつくろうとしていた。辛上の人達は土地を売り、「2の坪」のほうに新しい土地をもらうか、それとも金銭を受け取り生計を立てている。土地をもらった人は農業を営んでいけるが、金銭補償を受けた人はそれが底をつくまでは生活が成り立つが、それ以後はどうなるかわからないとおっしゃった。農業を営めなくなった家の若者は、最近では、近くの工業団地に高校卒業後行っているそうだ。この土地の買収は今後の辛上に変化を与えそうだと話されていた。
「1の坪」を歩いてまわると、田畑は荒れており、水路には完全に水は流れていなかった。また、工事用に道が切りひらかれており、土砂がためられ、ショベルカーが入り込んでいた。さらに、小さな木が植えられているところも一部でみられた。
《井手について》
ヨシノ井出、イシ井出
両方の井出はタデ(田手)川につくられていた。ドウシ(導師)川の近くには水をくみ上げるポンプがあった。
《昔の暮らしについて》
現住の道と昔の道とは変わっていないということである。昭和8年生まれの伊東さんの記憶の限りでは、電気は生まれたときからあったそうだ。ほとんどの人は農業に従事していたが、土地をあまり持っていなかった伊東さんは出仕事に行っていたそうだ。
《祭りについて》
辛上地区と吉野ヶ里地区でヒヨシサン(神社)に年1回集まって酒盛をするらしい。
《昔の若者について》
夜は家にじっとしていることが多いらしい。たまに外に出歩くが、人にはあまりあわない。時々、誰かの家に行き話しこんでいたそうだ。皆、家でひっそりとしていたと話された。
《村に必要な土地について》
ガスの普及以前は、風呂を焚く燃料を隣の森から切ってきたそうだ。それをヤキモンと呼ぶらしい。現在、公民館があるところに共同風呂があったそうだ。
《辛上を調査してみての感想》
この地区は最高齢者が70歳、今回調査に協力していただいた方が66歳とあって、村の昔のことについて聞き出すことが多少困難であった。そのこともあって、田畑についたしこ名もよくわからないとのことであった。そこで、一番詳しいと思われる方を紹介していただいたが、あいにく留守で、しこ名調査はあまりうまくいかなかった。実際に現地を歩いてみたが、ほとんどが荒れ地になっていて昔の田畑の姿がうまくつかめなかった。
《当日の行動》
09:00 集合・出発
10:30 到着・調査範囲確認
12:30 昼食
13:30 調査開始
16:30 調査終了
《松葉地区について》
今回、調査日を1月9日に予定していたが、成人式に参加する人が数名おり、急遽12月27日に変更になりました。そのため、わからなかった松葉の代表の方の電話番号を調べることができませんでした。当日に直接訪ねようとしましたが、予想以上に辛上で時間がかかり、距離も離れていることもあって訪ねて話を聞くことができませんでした。