【東脊振村上石動・西石動】
現地調査レポート
※西石動は時間不足のため未調査
1LA99033 上野 晃
1LA99020 石村 毅
<上石動>(しこ名の後の括弧は意味または範囲を表わす)
話者:西牟田 賢さん(昭和5年)
・小字一本杉のうちに
マルオ、タテイシ、テラヤマ、ウウヘラ、ウランタイ、ヤマンカミ、ヤマダ、カヤクラ、 ヤシロヤマ、テンジンヤマ、ウウイデ、ムラサキ、ロクタダ、ノダバヤシ、ヤノウラ、ウチキリバ(薪などを取りに行った場所)、ミカンヤマ
・小字二本杉のうちに
ホシマタ、ヤマグチ、シタダ、ハッタダ、ナカダエ、ミズヒキジドウ、トーリングラ、ゴンジャーグルマ(大坪ごんじゃーさんの家の水車)、ナカゴガワ、コウジゴモリ、クマンタエ、ツカンマエ、カンタンマエ、サブロウジャー、ニタダ、マツリダ
・小字三本杉のうちに
クロジュツカ、セキヤンマエ、マルヤマキタ
・小字四本杉のうちに
ジョウヤマ、オタチンタイ、ウエフジオシュウジ、ナカフジオシュウジ、キャーネ(垣根)、ニシタチシュウジ、ヒガシタチシュウジ、クマシュウジ、ウラダ、ショーブダイ、ジョーイン、ラントウ(墓地)、ヤクシジドウ、マエダ、クルマンウエ、アカサカ、カンタ、ハイシュウジ、ババシュウジ、ハルバタケ、ゴガンジョ
・小字五木杉のうちに
サクラダニ、ヒガシンタイ、ツツミ、ハッタ、カミハッタ、シモハッタ、ハバサキ
《シュウジ(小路)》
ウエフジオシュウジ、ナカフジオシュウジ、ニシタチシュウジ、ヒガシタチシュウジ、クマシュウジ、ババシュウジ
《広い地域を指し示すもの》
ウチメ(マエガワより東の田)、ホカメ(マエガワより西の田)
カワニシ(ウエフジオシュウジ、ナカフジオシュウジ、クマシュウジ)、
カワヒガシ(ニシタチシュウジ、ヒガシタチシュウジ、ババシュウジ)
ニシゴ(ホカメの南半分の水田地帯)
マエガワ(上石動のほぼ中央を南北に流れる水路。横田の方まで続いている)
上石動において、田は大きく分けてホカメとウチメに分けることができる。ホカメはマエガワより西の田、ウチメは東の田である。ホカメはマエガワから水を引いてきており、ウチメは東側の谷川の水を利用している。ちなみに、5年前(現在6年前)の大旱魃では、それほどの被害はなかったらしい。それはマエガワのおかげらしいが、下の方の地区は問題が起きたらしい。では、田の良し悪しはどうかというと、それには高低差が関係してくる。高い所にある田は良くない田であるが、しかし低すぎても湿田となり裏作ができなかったらしい。(特にマエガワぞい)
また、戦前の肥料は、各家に馬が一頭いて、その馬に藁を踏ませて堆肥を作っていたらしいが、藁=干した青草であるから、青草が必要である。そこで、毎日約50kgもの青草を山に取りに行っていたらしい。馬には米ぬかや麦などを混ぜたものを食べさせていたそうだが、昭和30年以降は牛にその地位を奪われ、牛もまた耕運機の出現とともに数を減らしていったらしい。(馬洗い場はマエガワに2ヶ所あった)
では肝心の米や麦はどうしていたのだろうか?戦前、ほとんどの田で米か麦を作っていた。昭和13年くらいから国が管理するまでは、自分達で売買するか、または業者や産業組合(後の農協)に任せていたらしい。また、10aほどの祭田というものを設けて、毎年各ショウジ〔シュウジヵ:入力者注〕(小路)が持ち回りで耕作し、その祭田でとれた米を売って祭りの経費にしていたらしい。
また、今年は400年以上も続いている25年祭というものが行われるらしく、西牟田さんも嬉しそうに話しておられた。その他の地区の集まりとしては、マエガワざらいというものがあり、昔はマエガワを塞き止めて土砂をよけていたらしいが、今は川沿いの地区だけで草刈りをするだけらしい。
現在、専業農家は一軒もないらしい。農業に携わっている方の平均年齢は70歳ぐらいらしい。昔はほとんどが専業農家で、冬は出稼ぎに行っていたらしい。その当時を懐かしく思ったのか、西牟田さんは少し寂しそうな表情を浮かべた。
《当日の行動》
09:00 集合・出発
10:30 到着・調査範囲確認
12:30 昼食
13:30 調査開始
16:30 調査終了