別府知美
松元恵美
快晴というよりは蒸し暑い夏の日、私達は
そうこうするうちに、平倉伝さん、平倉正次さんがいらっしゃった。お二方とも大正うまれで龍宿浦のことならなんでもわかっていらっしゃる古老の方々だ。お互いに自己紹介をすませ、私達はしこ名を収集すべく、まずはダイレクトに「しこ名といって何か呼び方があると思うのですが、そのしこ名を教えていただけませんか。」と尋ねた。しかしやはり、しこ名についてはピンときていないご様子。いきなり出鼻をくじかれたような気分だったが、授業中の教授の言葉を思いだし、気を取り直して「田んぼ一枚一枚に呼び名はないですか。住所の番地ではなくて、例えばマツモトとか・・・今日はどこの田んぼに水をはるとか、どこの畑を耕すという時に何か呼び名はないですか。」という具合にしこ名をききだした。一瞬、中村さんも平倉伝さんも平倉正次さんも戸惑った様子だったが、中村さんが「あーそのことねー!例えば搦のコモイダという呼び名のことねー!?」とぱぁーっと表情を明るくしながら「それじゃったらたくさんあるよー!このへんがコモイダで、あっちらへんが・・・」という風に次々としこ名を教えてくださった。「あのそのようなしこ名をすべて地図と照らしあわせて教えていただけないでしょうか。」とお願いすると「よかばい。」とおっしゃって地図と照らしあわせながら次々と教えてくださった。
そして、しこ名・しこ名の範囲は以下のようになる。
(しこ名一覧)コモイダ・コザキ(小崎)・ホンダ(本田)・ユビノウエ・ウザキ(大崎)・オノウエ(尾上)・ムカエ(向家)・シモヤマ(下山)・イセンナ・ゴクデン(御供田)・ミチノシタ(道ノ下)・ナキイリ(泣入)・ナコノハナ・コゴチ・オヨンサカ・ビシャゴンス(ビシャゴン巣)・ナカントゲ・タヌキダニ(タヌキ谷)・サシヨセ・ナカシマ(中島)・ホトコマチ・センシダ(洗水田)・クダリザカ(下坂)・ウシロミチ(後道)・コザカンマツ(コザカン松)・ウシゴロ(牛殺)・バサシバ(馬差場)・カキノウチ(柿の内)・シモヤマミド(下山見道)・ヒワタシ(日渡)・マエダ(前田)・イワシタ(岩下)・カタミネ(片峰)・ニホンマツ(二本松)・ニシノタニ(西谷)・ササバヤシ(笹林)・ショウチヤマ(庄地山)・サンシャク(三尺)・カミヤマミド(上山見道)・カミノコウラ(上の小浦)・ヨコマクラ(横枕)・オオツカ(大塚)・ヒラライシ(平ら石)・ウズゴシ・マエブキノトウゲ(前吹きの峠)・マエブキ(前吹)・ヒラノシタ(平の下)・ムタ(牟田) 以上48個
(しこ名の範囲)
小字 搦のうちに→コモイダ・コザキ(小崎)・ホンダ(本田)
小字 一本松一角のうちに→ユビノウエ・オノウエ(尾上)・ムカエ(向家)・シモヤマ(下山)・イセンナ・ゴクデン(御供田)・ミチノシタ(道ノ下)・ナキイリ(泣入)
小字 一本松二角のうちに→ナコノハナ・コゴチ・オヨンサカ・ビシャゴンス(ビシャゴン巣)・ナカントゲ・タヌキダニ(タヌキ谷)・サシヨセ・ナカシマ(中島)・ナキイリ(泣入)
小字 一本松三角のうちに→ホトコマチ・センシダ(洗水田)・クダリザカ(下坂)・ウシロミチ(後道)・コザカンマツ(コザカン松)・ウシゴロ(牛殺)・バサシバ(馬差場)・カキノウチ(柿の内)・シモヤマミド(下山見道)・ヒワタシ(日渡)・マエダ(前田)・ホンダ(本田)・イワシタ(岩下)・カタミネ(片峰)
小字 一本松四角のうちに→コザカンマツ(コザカン松)・ニホンマツ(二本松)・ニシノタニ(西谷)・ササバヤシ(笹林)・ショウチヤマ(庄地山)・サンシャク(三尺)・カミヤマミド(上山見道)・カミノコウラ(上の小浦)
小字 一本松六角のうちに→ヨコマクラ(横枕)・オオツカ(大塚)・ヒラライシ(平ら石)・ウズゴシ・マエブキノトウゲ(前吹峠)・マエブキ(前吹)・ヒラノシタ(平ノ下)・ムタ(牟田)
龍宿浦の正式な範囲外に →ウザキ(大崎)
しこ名を教えてもらいながら思ったことは、それぞれ何らかの由来を持っている場合が
多いということである。例えばウシゴロ(牛殺)、バサシバ(馬差場)についてだ。この
二つは読んで字の如く、昔それぞれ牛・馬を殺す場所であったそうだ。この由来について
もしかして殺す場所だったからなのですか?と驚きながら聞くと、照れて笑っているのか、
それとも私達の驚きようがおかしくて笑っているのか、それとも苦笑いなのか、何ともい
えない笑い方をしていた。しかし、この2つのしこ名のお陰でかなり場がなごんだことは
間違いない。しかし、上に挙げた2つのしこ名とは逆に漢字・由来が今となってはわから
いところもあった。また地籍図上の龍宿浦の範囲と実際の龍宿浦の範囲はちがうというこ
とも教えてくださった。例えばウザキ(大崎)。地図上は龍宿浦の範囲ではないが、実際
龍宿浦の範囲であるそうだし、一本松二角・三角のサシヨセに近い範囲は地主が龍宿浦の
人々ではないということも教えてくださった。実際の地主は違うということを教えてくだ
さった時少しひそひそ声になったのがなんとなくおもしろかった。
しこ名について一通り聞き終えたので、次は昔の田んぼのことについてうかがった。ま
ずは引水について。すると「龍宿浦は水田一枚一枚に湧き水がでとうばい。溜池などはな
か。水が豊富なのは河上神社に淀姫を祭っているからぞ。」と何となく誇り気に教えてく
ださった。つまり自分の水田は自分で管理していたそうだ。湧き水がないところはイゼキ
を作って水田へ配分していたらしい。そこで私達は「そうしたら雨乞いなどをする慣習は
なかったのですか。」と尋ねた。すると「昔は古面を河上神社に奉納して雨乞いの舞をした
と聞いているが・・・」とおっしゃいながら昔から龍宿浦に伝わる古面をみせてくださっ
た。なるほど、かなり前から伝わる古面とあって時代を感じる、塗料は剥げ落ち、それが
いい雰囲気を醸し出している。私達は一瞬その古面にみとれてしまった。中村さん、平倉
伝さん、平倉正次さんの表情をみていると、この古面を龍宿浦の誇りとして大切に思って
いる気持ちが手にとるように伝わってきた。部屋の中は一気に荘厳な雰囲気になった。そ
の荘厳な雰囲気のまま、私達は1994年の大旱魃のことについて尋ねた。「あーもうそん
時はできんかったよ。市から井戸をほれば補助はあったけど井戸を掘った人は確かいなか
ったはず。」と答えてくださった。そして顔を曇らせて「龍宿浦は水がたりんことより、水
害にあうことの方が多かよ。龍宿浦は谷にあるけんねぇー。」と平成11年の水害時の写
真をとりだしながら話をきりだしてくださった。龍宿浦は昭和37年・昭和51年・平成
11年6月29日・昭和24年・大正3年・昭和4年・あと台風による昭和13年に水害
にあってきたとのこと。その中でも大正3年が最もすさまじかったそうだ。しかし、なん
とこの水害の原因は鹿児島県の桜島の噴火による津波であり、村が水につかったというの
だから驚きだ。鹿児島県出身の私松元は鹿児島県と
っているだけに自然のスケールの壮大さに一瞬圧倒されてしまった。ちなみに、桜島の噴
火のために飛んできた軽石を龍宿浦の人々はたわし代わりにつかったそうだ。水害のこと
を話す中村さん、平倉伝さん、平倉正次さんの顔は終始眉間にしわがよるくらいの険しい
顔をしてらっしゃったが、桜島の軽石をたわし代わりにつかったというエピソードを話す
時は顔が少しばかりゆるんでおられた。次に堤防のことについてうかがった。堤防は今ま
で二回くらいきれてしまって、潮が2メートルくらいふきあげてきたそうだ。身振り手振
りをまじえながら説明してくださって「満ち潮の時に大雨がふってくると話にならんねぇ
ー」と苦笑いしておられた。また大雨が降ったときは水をどの地域に多く流すかで話し合
いがあったり、もめごとがおこったりしたそうだ。龍宿浦は谷なので水があるが、それと
同時に水害になりやすい。龍宿浦周辺の水をすべて龍宿浦に流されたら大変なことになる
そうだ。ここでサシヨセという地域が重要な役割を果たしていたそうである。サシヨセに
は家があって大水の時はそこで水をとめて隣部落へいくようにしてくれていたらしい。サ
シヨセというしこ名の由来はここにあるそうである。水害にならないように、さしよせた
水を他の部落へわけてもらうという由来である。サシヨセのことを話す様子をみていかに
サシヨセが重要な役割を果たしていて、さしよせという地域に感謝しているかが伝わって
きた。しかし、今はきちんと整備されて大水に関するもめごとはなくなったそうである。
中村さん、平倉伝さん、平倉正次さんの話を真剣に聞いているうちに大水のこわさなどを
自分も感じるようになっていた。
さて、農業のことに話は戻り、龍宿浦の地域の中でも米がよくとれるところととれな
いところはあるのですか?と尋ねた。すると、「昔はヒワタシ(日渡)からマエダ(前田)
にかけてがよく米が取れる地域やったよー、あのへんは水が冷たかからのう。けど平成4
年の地場整備以降は搦が一番よく米がとれるねー、ものすごい湿田が改善されたからのう。
」と搦に住む中村松男さんは嬉しそうにおっしゃった。また「逆にビシャゴンス(ビシャ
ゴン巣)はとれないんよー。だけん、みかんや豆を栽培する畑作やったねぇー。」とも教え
てくださった。戦前は水田一枚で米が八俵とれたら申し分のないできだったそうだ。また
化学肥料が世に出回ってからも、昔はお金がなく化学肥料を買えずに、ニシンのしめかす
をほしたものやガタ(ヘドロ)をほして馬の堆肥と混ぜたものや、ジメキ(フジツボのよ
うなもの)や、大豆の脱穀のあとを腐らせたものや、米の精米後のものなどをつかってい
たらしい。また、さらにシキシマ肥料という肥料が流行っていたなぁーと感慨深げに教え
てくださった。私達は、中村さん、平倉伝さん、平倉正次さんの表情をみて農業に対して
のなみなみならぬ「愛情」みたいなとても暖かいものを感じた。
そして私達は「龍宿浦は海に面していますが、漁業も盛んだったんですか?」と尋ねる
と「いや、魚をとるのは自分の家のおかず用ばい。夏はハゼ・海老・サザエがとれたけど
最近はどうも有明海の調子がよくなか。諫早湾の干拓の影響をうけよるのう。」と悔しそう
におっしゃった。その時実際に直接影響をうけている方々にお会いして有明海の問題が急
に身近に、また深刻に感じられた。今まではニュースや新聞などで間接的に接していた「こ
と」だったのに。今はしっかりと私たちに迫っている問題として認識している。有明海の
話題で一瞬沈黙がはしったが、そのあと有明海のことや仕掛け漁法についてしばらく教え
てもらった。有明海は一日と十五日に大潮をむかえる。こしきわ・こしかという大潮でも
あまりつからない岩があり、この岩で潮の流れをきくそうだ。また、竹を使ったタケハジ
という漁法や、潮のひいた時にカキをとるカキウチという漁法も教えてくださった。また
塩の満ち干を管理する門をゆびというのだがそれの満ち潮の時に止まるという性質が逆に
水害の時に困ったそうだ。「漁業はそれで生計をたてるほど盛んではないけど、七浦地区(龍
宿浦を含めた大きな地域)は養蚕が盛んやったとよー。」と教えてくださった。昔は養蚕と
農業で生計をたてていたそうだ。もともと畑ではさつまいもを栽培していたのだが、昭和
37,8年頃からタバコを栽培するようになった。しかしここで問題がおこった。たばこ
とかいこは同時に育てられないのである。次第に養蚕は衰退していった。また昭和39年
には山をひらいたので、それから昭和42年にかけてタバコからみかんに栽培する作物が
かわっていったそうだ。こうして、龍宿浦地区においてさつまいも→たばこ→みかんと栽
培する作物は変遷をとげていった。ちなみに現在龍宿浦地区においてビニルハウスは一つ
しか残っていないそうだ。
次に龍宿浦地区において大きな木とかはないですか?と尋ねた。すると中村さんは窓の
方を指差して河上神社の大きなむくの木を教えてくださった。大正生まれの平倉伝さんと
平倉正次さんの幼い頃すでに大きかったので樹齢はわからないそうだ。また特に呼び方は
なく神社のむくの木と皆よんでいるそうだ。実際私達も帰る時に神社のむくの木をみにい
ったがなみなみならぬ迫力を感じ、畏怖の念すら感じた。また草きり場や焼畑の存在につ
いて尋ねたが、龍宿浦地区においてどちらも存在しないようだ。あと道路の呼び名につい
ても教えてもらった。中島線・小浦線・大塚線・パイロット線・川東線などがあるようだ。
これらは地図に示しておいた。また龍宿浦地区には墓が3つあり、本田墓・小浦墓と後一
つは特に呼び名がないそうだ。和やかな雰囲気の中そのようなことをきいて、時計をみる
のを少し忘れていた。ふと時計をみると、バスが迎えに来る時間が迫っていた。私達は昔
の若者の過ごし方について尋ねていなかったことを思いだし、最後に昔の若者のすごし方
について尋ねた。昔の若い人はつくらがり(田植え)を境におしまさんが身投げして祭っ
てあるおきのしままいりのかねぐりゅうの練習をしていたそうだ。おきのしままいりは、
旧暦の6月19日に行われ、今年は8月8日に行われるそうだ。このおきのしままいりの
ことを話す中村さん、平倉伝さん、平倉正次さんの目は本当に嬉しそうに輝いていてまる
で少年の目みたいだった。
そしてまたふと時計をみるともうそろそろ出発の時間であった。いま振り返っても、中村
松男さん夫婦、平倉伝さん、平倉正次さんのおかげで今回の調査はかなりうまくいった。
田畑のしこ名を50近く収集できたのは本当に協力してくださったおかげである。また地
図や資料など事前の準備をしてくださったことに心から感謝の気持ちを述べたい。心より
感謝しています。またお忙しい中時間をさいてくださり、またおいしい食事までいただき
本当にありがとうございました。この場をかりてお礼をのべさせていただきます。ありが
とうございました。