「歴史と認識」現地調査レポート
松本静、水上徹郎、矢野貴子、矢野亮介、吉田弘美
私たちのグループは二つの家を訪ねる予定でしたが、相手先の都合が付かず、また、今回訪ねた方が二つの地域についてお話くださるということで、その方のお宅に伺うことにしました。
まず、お話を伺ったのは松本さんです。松本さんは鹿島の地域について詳しいとのことで岩永さんの紹介でした。初めての土地ということもあって、道に少し迷ってしまいました。早めに出発していたので何とか到着できました。松本さん宅は本当の山奥に位置しており、付近を流れる川の水がきれいだったのがとても印象的でした。松本さん宅に到着するなり、ご本人が玄関まで出て来られ、車の駐車位置をわざわざ教えて下さいました。それから家にお邪魔しました。案内された部屋はとても広く、置かれていたこたつも普通の倍の大きさはあったと思います。松本さん宅には、松本さん、岩永さん、松本さんの娘さんがおられ、事前に私たちの訪問の趣旨を伝えていたこともあって、松本さんはいろいろ準備して下さっていました。途中でもう一方加わりました。そしてお話が始まりました。まず、何故私のところに連絡がきたのか、ということに疑問を持っておられていました。こちらがどのように連絡先を知ったかなどを説明すると、なるほどねーとおっしゃっていました。岩永さんは鹿島で生まれ育ったのではなかったので、松本さんを紹介されたようでした。松本さんはパンフレットを私たち一人一人に用意してくださっていたので、いきなりいい人だなっと感じました。私たちが訪ねたのは大字山浦の山浦という地域で、能古見という地域は大字山浦と大字三河内という二つからなっており、能古見は鹿島市の半分の広さをもっているそうです。山浦、三河内、白鳥尾というのは集落の名前だそうです。昔はこの地域には、この三つしかなかったが、食糧不足などの影響で、終戦後(昭和21年頃)は周辺地域が開拓地域になっていったようです。この開拓というのは国規模の政策で、補助金を出す代わりに開拓するといった状況だったようです。しかし、食料が十分にある現在では採算が取れないらしく、私たちの知っている典型的な農村問題が浮き彫りになっていました。今では二割残っているかといった状態とおっしゃっておられました。明治30年代には山浦地域に85戸あった農家が、昭和10年には75戸に減り、現在では68戸になってしまっているようです。農業中心から工業中心へと移行した世の流れに沿って、この地域も大きく変わっていったようです。特に工業化に伴う都市への人口流出は、農家にとって後継者不足をまねくなど、大きな影響を及ぼしたようです。人口も昭和11年当時は男性210人、女性211人だったのが、現在で男性136人、女性131人と明らかに過疎化が進んでいるのがわかった。
ここでお聞きした小字名を記していきます。位置は地図を参照してください。昔は海であり、そのため千石船がついていたことから名づけられた「千石(センゴク)」、昔庵があった「聖生庵(ショウショウバン)」、「浄土」、「長谷(ナガタン)」、「浄土岩」、「野口」、「山方(ヤマカタ)」、「井出原(イデンハル)」、「宇土口(ウドグチ)」、「東辺田(ヒガシベタ)」、「松山坂(マツヤマンサカ)」、「しい食坂(シイキイザカ)」、「宿坂(シュクザカ)」、「中通(ナカドイ)」、「念仏橋(ナンブツバシ)」、「番在(バンジャ)」、「八十八屋敷(ヤソヤシキ)」、「ホコソギ」、「小川内(オゴウチ)」、「東川内(トンコウチ)」、「開花(カイカ)」、開拓者のほとんどが入植した「十願寺(ジュウガンジ)」、「ナベフタイシ」、「鬼とぎ石」。テープを聞きながら、レポートにしているのですが、時折方言が混じり、聞き取りにくいところが多々ありました。松本さんと岩永さんが話しをしている時は、外国語かと思わせる時もありました。他にもこの土地独特の地名がありました。浄山(浄土山のてっぺん。鹿島藩がもらったもの。)、しずく石(殿様が夕立にあって雨宿りした石)、猿返松(サルガエマツ。二又になっていて、人5〜6人で手がまわる位の大きさ。昔は陸軍省との境だった。現在は台風の影響でなくなった。)、岩屋山(寺がある。岩屋山に行くための参拝道)。他にもどのようなきっかけで名づけられたのか分からないような地名がいくつも存在しているようでした。
地名についての質問が一段落したところで、マニュアルにある質問をいくつかしてみました。
Q.過去に他の部落と水争いをしたことはありますか?
→争いというような争いはない。みんなで協力して水を使っていた。単独
の用水路がないので、協力の必要があった。まわし水で何とか切り抜け
ていた。パイロット(蜜柑の消毒用)を作る時でも、水利権(水を流す
ように)条件をつけていた。逆にこの時代には大水が起きると、石垣の
修復などが非常に大変であった。今では整備のおかげで大丈夫であるそうだ。
昔は田一つ一つにも名前があったらしく、全部を知ろうとするととんでもない量になるよとおっしゃっていられました。
Q.祭りはあっていましたか?
→まず、昔は今のように土曜日、日曜日が休みというわけではなく、農休日は祭りをすることで取っていた。8月25日 天満宮でお祭り、11月3日 琴路神社の祭り、1月 えびす祭り(フナを焼いてまく)、2月 やぶ入り、5月 春なぐさみ(農業をはじめる前、奉公人が実家に帰るための休み)、さなぼり(田植えの終わり)、おひまち、かわまつい(餅つき)、12月1日 かんまち。
話の最後に、農業は楽しいですかとお聞きしましたが、松本さんわにとって、農業は食べていくの義務のようなものであるとおっしゃいました。利潤はないけど、収穫の喜びのためにやってますと言われたのが印象的でした。採算が取れないから、農業から離れる人が多いとですよとおっしゃる松本さんは、やはり寂しそうな顔をされていました。帰りには、松本さんが作られた蜜柑をたくさん頂き、帰りの車の中はちょっぴり蜜柑臭かったです。