私達は
割り当てられて地図で探したとき、他の皆が調査する地域からずっと離れた、ずいぶん山の中だったのでとても驚いた。しかもバスで行く最後の地域だという。どんな山の中なのか?果たしてバスは入れるのか?もしや山の中を歩く羽目になるのでは?不安は広がるばかりだった。
当日。
バスに乗った皆が次々と降りていく中、結局バスの中には私達二人と七曲に調査に行く友達だけが残った。バスはどんどん山の中に入ってゆく。窓からは山に広がるみかん畑が見える。その向こうには満ち潮の有明海。絶景・・・。
私達はこれから先の調査の不安をしばし忘れた。山には少し霧がかかって神秘的な雰囲気さえかもし出している。私達四人と、先生と運転手さんだけを乗せたガランとしたバスはどんどん細い道へ入っていく。一体矢答ってどんな所なんだろう?図書館で調べた住宅地図を見つめながら、不安とともに期待の入り混じった想像が膨らんでいった。
七曲の友達が先に降りたあと、私達二人と先生だけになったバスは細い道をまっすぐ進んでいった。その時には、歩く覚悟はできていた。道は既にバスが通れるギリギリの広さだったからだ。するとその時、開拓記念の碑という新しい感じの石碑が窓の外に見えた。確か、これは住宅地図にのっていなかったか?
見てみると、確かにあった。しかも、今回伺う三ヶ島さんのお宅のすぐ近くである。結局、バスはその近くの少し幅の広い道路で止まった。
先生は、その道のずっと先にある
三ヶ島さんのお宅はバスの止まった場所より少し下った所にある、小さな道を少し入った所にあった。家の前にはキウイ畑が広がっていた。こんな広いキウイ畑を初めて見た私達はちょっと興奮してしまった。
呼び鈴を押してみると、どうやらやはりお留守のようである。手紙で連絡した時間が一時半。着いたのが十一時半・・・。二時間も早く着いてしまったのだから、いらっしゃらないのは当たり前とあきらめ、一旦バスのところへ戻ろうと歩いてる途中に、向こうから偶然三ヶ島さんの奥さんが畑から戻っていらっしゃったのに出くわした。
「三ヶ島さんですか?」とうかがうと、驚いた表情で
「一時半に来んしゃると思っとったもんですから・・・」と慌てたご様子だった。
結局、バスでお昼を食べてから十二時半ごろに伺うという約束をして、バスに戻った。
バスではご飯を食べながら、運転手さんといろいろな話で盛り上がった。
時間がきて、再び三ヶ島さんのお宅を伺った。
玄関を開けると、人間の背丈以上もある大きな鷹の木の彫刻が目に入った。その他、様々な立派な置物で玄関を埋め尽くされていて、一目でこのお宅が普通の農家ではないことが分かった。
これまた立派なお座敷に通され、三ヶ島さんと、三ヶ島さんのお兄さんで、本家のご主人である三ヶ島弘治さんにご挨拶をした。手紙で、「矢答の昔のことに詳しい古老の方をご紹介いただければ幸いです。」とあったのを考慮して、この矢答で一番古い家柄の本家の方を呼んでくださったようだ。感謝の限りである。
まず、お話してくださったのは矢答の西を通る古い街道のことだ。この道は、長崎街道と言って、昔の古い大通りなのだそうである。参勤交代などでも、この道を使ったそうである。
「諫早の殿様が、東京に上るときこい道ば行きよったですねー」とお話して下さった。
次に、お話してくださったのは、矢答と三ヶ島家のゆかりについてである。矢答の由来は相当古く、時代でいえば江戸時代よりもっと昔にさかのぼるそうだ。
三ヶ島家のご先祖である、三ヶ島丹波守茂康という人がこの矢答に来て、この山間部で悪さをする「人の命ばとるごたる不良んごた人」を取り締まったのがはじまりだそうだ。そして、その系統の竜道寺隆信が佐賀と長崎の71万3千石を治めていたのだが、島原の乱で隆信が天草側について討ち死し、家老であった鍋島が佐賀を治めるようになったのだそうである。
「あくまでも家老ですよ!竜道寺の家老は鍋島!本当は!」
「本当いうとですね、寝返りを討たれたという事で思うとりますね!」
強調して言われた姿が、由緒ある家柄に誇りを持っていらっしゃるという感じで印象的だった。
この辺りで一番古いにはこの矢答の集落で、七開の辺りは終戦後昭和23,4年ごろ開拓により誕生した部落なのだそうだ。開拓するまでは、「ふっとか松ノ木がたくさんあった」というお話をしてくださった。
その他に昔は道が狭く、牛や馬が通るような道しかなかったこと、みかんを作る前はたばこ・いもなどを作っていたこと、電気が昭和24,5年にくる前には石油ランプを使っていたこと、松ヤニをその燃料として使っていたことなどを話してくださった。
「みかん畑の田んぼはないのですか?」と聞いたところ、
「たくさんあるよ。」という事だったので、
「田んぼの名前・しこ名はないですか?」と聞いたところ、
「しこ名はいっぱいあって、ほとんど分かっちょるばってんね、そこに行かんば思い出さんごた」ということらしく、なかなか教えてもらえない。やはり、しこ名というものはあまりに日常に使うものなので、そんなに価値のあるものとは思っていらっしゃらないらしい。とりあえず、三ヶ島さんの田んぼのある場所を教えてもらい、そこを何と呼んでいらっしゃるのか聞いてみた。
三ヶ島さんの持っている田んぼは太良の方にあり(地図に載っていなかったため、見当だけつけてもらい、地図上に位置を示した)だいたいは、その地名で呼んでいるそうだ。
宇坂(ウサカ) 流矢(ナガレヤ) 多木道(タキミチ)
また、多木道の水田の中でも
ウエノセマチ(上瀬町)
シタノセマチ(下瀬町)
ミチウエ(道上)
ゴセーマチ(ゴセーゼマチ)
ナガセマチ(長瀬町)
ニマイツヅキ(田が二枚続いている)と呼んでいるそうである。
その他、長崎街道は
ハマオカン(浜岡)
フナゴエセン(鮒越線)
矢答の中には、
トーリー(鳥居)この辺りに鳥居があったからだそうである。
チャヤンシタ(茶屋ん下)
アンタンニキ
シタンニキ
ヤシキ
また、矢答の近辺には、
イイダセン(飯田線)
ユリノセン(百合線)
エフクセン(江副線)
アシカタマチ(足方町)
シャイコベ(斜古部)
ヒラバル(平原)
ナキリ(名切)
セトサカ(瀬戸坂)
ヒッチョンマツ(七本松)
ナナウラダ二(七浦谷)
また、矢立(ヤタテ)−矢答(ヤゴタエ)−流矢(ナガレヤ)という矢に関係のあるこの3つの名前は、源為朝(平安時代の武将で弓の名手)が放った矢が矢立から「立って」矢答で「答えて」通過して流矢に「流れた」という伝説からきているのだそうだ。
みかんを作っている畑には、あざな(しこ名)はないそうである。
やはり、みかん畑は水田と違い新しく開墾された畑だからだろうか。
「矢答の集落の範囲はどこからどこまでですか?」と聞いたところ、
「それで困っとっとですよ」と言って、国への直接支払額が傾斜がかかっている所と平坦な所では違いがあり、傾斜のある方(つまり矢答の辺り)の方がいくらか高いこと、三ヶ島さんの所では太良にも畑があるので、
「他の地域(太良と七開)に押しやられてしまって、矢答部落としてはちょっとしかない」
実際、地図上に示していただいた矢答の範囲は長崎街道沿いの家の周辺で少ない領域だった。
また、飯田部落に支給される国からの補助金は何と1700万円!しかし、矢答の配分はこれまた何と40万円!家は13軒あるにもかかわらずである。納得いかないという御様子だった。
「吉野ヶ里などには遺跡という形で歴史が残っとるが、矢答は古い集落といっても現代に残っとるのは何もなかでしょうが・・・」とおっしゃったので、
「遺跡だけが歴史とは限らないですよ、そこに長い間住んでいらっしゃる方がみえるんだし・・・」
と答えたところ、
「そいやけん、歴史を新しう作ろうってやりかけたんが多良岳パイロットであり、みかん作りですね。」
とおっしゃって、終戦以降からの矢答の歩みについて話してくださった。
「初めは、
「その夢の実現のために、多良岳パイロットやったとですね!」
懐かしそうな、しかし生き生きとした目でおっしゃった。
戦後の片山内閣の時、農地法で自分の耕作している土地は自分のものになった。
その前は、三ヶ島さんには自分の土地がなく、人の土地を借りて耕作していた、つまり小作人だったそうである。
そして、その農地改革の時徹底した所、七浦海岸辺りでは3段(反)百姓といって、3反以上の土地を持った人はいなかったそうである。土地が自分のものになったといっても少ない水田では、生活が苦しく食事も芋や粟を食べて米はすべて販売にまわしていたそうである。
そのような生活をよくしようと始めたのが多良岳パイロットだそうである。その結果、今では道は整備され車も通れるようになり、生活の状態も三ヶ島さんの家を見れば、一目瞭然である。(座敷の横の廊下には何と山下清の絵が!)二時になったところで、他の古老の方を紹介していただこうとしたが、この三ヶ島さんより長生きされている方は
しこ名の調査も一段落したので、次にしこ名以外の矢答の昔のことを聞くことにした。
水利について
水の配分には水道は使っておらず、水道を使っているのは太良の方だけだそうである。また、七曲堤も古くからあったものを太良岳パイロットのために拡大したのだとか。パイロット前の水の利用についても、水田自体が水の流れに沿って自然に水が配分されるように作られているのだそうである。それで、特に水に関しては決まりごとはないのだとか。
平成6年の時の旱ばつの時のことを聞いてみると、「矢答の飲料水の井戸がじぇんぶあがった時じゃろ?」と言って話して下さった。その時も三ヶ島家系統は山にあるわき水の場所を先祖代々から知っていて、そこからパイプをひいてきて田に水をひいたのだそうである。パイプのない昔は、竹を半分に割って節を外して作って手作りのパイプ「樋(テイ)」で水を引いたらしい。
雨ごいについて
「あまり長い間かんばつが続くようなら神社(じんしゃ)に集まってやります」
「どういう風にやるんですか?」
「どうゆうって・・・(笑)」ここで恥ずかしそうに笑われた。
「わいわいいいよって、酒ば持ち寄って飲みながら、雨ば降るようにお祈りする」
のだそうである。どうやら深刻な暗い感じではなく、お祭りのような感じでやったようである。
また、山の頂上で火をたくということもあったそうである。そしてそれは夜に行われたそうだ。
実際に雨が降ったのかどうか聞いてみると、
「たいして降らんかったね〜(大笑い)」
冗談まじりで「10回に1回ぐらいは降ったろ?(大笑い)祈りに答えたんじゃろ?」 とおっしゃっていた。
三ヶ島さんも実際に雨ごいを見たのは4,5歳の時にご両親がやってらっしゃるのを見たことがあるぐらい。最後に見たのは小学生のころだそうである。
「サナブリ(田植えが終わるとやったお祭り)の時、天気の続いた、そいから雨ばっかりやった時、天満宮にお参りして、干ばつの時には雨をくださいとお参りして、お酒を上げて、自分たちでどんどん飲んで帰ると、次の日には妙に雨の降っとですよ。雨の多か年には雨のやむとですね〜」
と不思議そうに、なつかしそうにおっしゃっていた。
入会山について
入会山は太良の方にある山を入会山として利用していたそうである。監視役は三ヶ島さんのおじいさんがしていたとか。
薪は自分の山や水田や畑の横から取ってくる外に、山に材木を切ってたわんで置いてあるのを勝手にもらいに行ったりしていたそうである。
山の主からすると「どろぼう」になるのだが、取りに行く側からは「もらいに行く」という感覚で、「あそこんだ取って行こばい」と言って取ってきていたそうである。
そういう風に上の人、つまり矢答の人は、薪をお金を出してもらったということはないが、下、つまり七開あたりの人はお金を出さないと手に入らなかったそうである。
馬や牛について
馬や牛は昭和40年ぐらいまで各世帯が所有し、「トラック代わり」に使って大切にしていたそうだ。
馬洗い場については、決まった場所はなく、各家でオケに水をくんで毎日馬を洗ったそうである。
七にまつわる地名について
地図を見て調べた時に感じた、七という地名の多さについて、なぜかという質問をしてみると、
「さぁ〜なぜじゃろね〜」
とわからない様子であったが、
「七はえんぎが良かけんさ、六はダメ、『ろくなことがない』ちゅうて」
と答えて下さった。
大学は「六本松」。ろくなことがないのか?
「結」について
・結(イー)
・結する(イース)=共同でやる
・結しよう(イーシュイ)=共同でやろう!
炭やき、田植え、稲刈り、屋根のかやぶきなどを「結」でやり、これらのことは必ず部落で共同でやったそうである。
あと、この地域ではしいたけ作りを共同でやり、矢答で組合も作っていたそうだ。
農作業にまつわる楽しみは?と聞いたところ、
「そうですね、共同作業は面白かですね」と意外な答えが返ってきた。共同作業はいやいや決まりだからやるものではなく、それ自体が楽しみであり、皆が進んで行うものだったらしい。町内の掃除をイヤイヤ仕方なくやっていた私たちの常識とは全然違う。
「楽しかったね、昔は」
なんだかうらやましい気がした。
お祭り
お祭りは「せんとろう」というものが毎年8月24日にあるそうだ。
昔の若者について
昔の矢答の若者は、夜食事が終わって8時、9時ごろに公民館に行って寝泊りし、部落に火災や盗難があった時にそこにいる若者がまとまってかけつけて消防団のような役割を果たしていたらしい。
また、公民館では普段から若い人らが集まってお踊の稽古をして、天神さん(天満宮)に舞台を作ってお踊をおどったりしていたらしい。
「昔はそげんやってにぎわっとったですね」
「今はもう大人も子供も減ってしもうて・・・」
「どぎゃんもぎゃんもならんとよ・・・」
と寂しそうにおっしゃったのが印象に残った。
また、若者には5月ごろに10日間ぐらい何でもしていい日があり、その日にはご飯を食べたり酒を飲んだり、親から何も言われず自由にできたそうである。
また、面白かったのは公民館に集まった若者の間では、「ようかんがけ」というのが行われていたそうである。「ようかんがけ」とはようかんを何本食べられるか賭けて、食べきれなかった人がようかん代を支払うという遊びなのだそうである。
「本数を増やしてきたら、こんだぁ食い逃げするわけですよ〜」
ようかんの他にまんじゅう、うどんなどもかけたとか。
そして、その集まりには月1回村の女の子がまじって、討論会(その時代のさまざまなことなど)をしたり、歌を唄ったりしたそうだ。その交流の中には恋が芽生えたりもしたのだろうか・・・。
戦争について
お兄さんの三ヶ島弘治さんは大正12年生まれ。志願して兵隊に行き、若い時はずっと戦争の中にいたそうである。
弟さんは昭和2年生まれで、召集はされなかったが、何度も若いうち(15,6歳のうち)から志願して戦争に行こうとしたが採用されなかったそうだ。
「志願する人は多かったんですか?」と聞くと、
「ぜんぶやったです。ほとんど!」
「もうどがんこってん戦争に勝たんばならんじゃったとですよ」
「16から、ほら軍隊行くぞ〜!ちゅうて」
想像していた以上に昔は戦争一色の時代だったようだ。
奥さんに「村から若い男の人がいなくなってさみしくなかったですか?」と聞くと、やはり女、子供、老人ばかりで農作業が大変だったし、結婚どころか恋愛もできない状態であったようだ。戦争中なのでそれどころではない。大変な時代である。
沖縄に米軍が上陸したころは、矢答の方も空襲でだいぶ焼けてしまったそうである。B29が来て、日本の飛行機が落とされたこともあったとか。その時飛行機に乗っていた海軍大尉の記念碑が太良の方にあるというお話も伺った。