鹿島市若殿分

 

村久木宏、

田島哲也、

西勝史

                                                

 しこ名は次の通りである。

 

     上古賀:オオイデ(大井手)、ギネド(銀鋳堂)、チョウエン(長円)、オオギコ(扇子)、

      キクゾノ(菊園)、ミョウケン(妙見)、ツツミ(堤)、カワバラ(川原)、イワシタ(岩下)、ヤクシ(薬師)

 

     下古賀:カワダ(川良田)、コトジ(琴路)、ツジ(辻)、シュウジ(小路)、イワヤ(岩

      屋)

 

 

{災害} 1994年の大干ばつの際でも、ほぼ若殿分地区は真ん中を通る中川のおかげでそれほど深刻な影響はなかった。しかし、イチノイデではそれなりの影響を受けた。その田の持ち主の方は、くず米(小さな実しかもみの中に入っていない)でも売ったらしい。それより前にさかのぼると昭和12年に大干ばつ、また昭和37年には逆に雨が多く降り7・8水害が起きた。この時の中川の氾濫はひどく、国道444号線より上は水没などの被害を受け、新しくできたばっかりだった公民館も浸水してしまったということだ。流された橋もあり、その年は稲は全くだめになった。最後に水害が起きたのはS51、このあと工事により中川の川底を2メートルほど掘り下げた。このことにより水害はなくなったらしい。

     S12年の干ばつの際は、やはり雨乞いをした。場所は若殿分の西に位置する山頂にあるブゼンボウ(豊前坊)でかねをたたいたり、太鼓をたたいたりした。

 

 

{農業} やはり戦前(農地改革前)は農業において地主と小作人の関係がありそれは小作人にとってはひどく厳しいものだった。地主は米があまり取れないような田ばかりを小作人に貸し、良い田は自分で雇った人に作らせていた。小作人の中には生活費が足りなくて青田売り(米が実る前にその田んぼを地主に引き渡し、お金をもらうもの)をする人もいたということだ。この青田売りは結局は自分の米がなくなる上に土地を取られてしまうため、本当に酷なものとなった。これらにより地主は成長していった。基本的に小作人は一反につき石を地主に差し出していたということだ。*(3俵で一石、52kg×3) 小作人の差し出す米の量は取れても取れなくてもほとんど関係なく、決まった量を地主にやらなければならなかった。これら地主と小作人のことを聞き出す際はやはり、3人の方は考え深げだった。それほど農地改革前の小作人の生活状況は厳しく、地主は裕福で色々思うところもあったのだろう。刈り取った米は三日間干してもみ→精米を経てドシャ袋とよばれるものに入れられ保存される。その際には何か粉を入れるらしい。これは虫がつかないようにということだ。その米は今では農協に売っているが、昔は直接商人に売っていたそうだ。また、自分たちが食べる米のことはハンミャー(飯米)と呼んでいた。私たちが驚いたことは、保存している米をネズミから守るためにほとんどの農家で昔はネコを飼っていたということだ。三人の方は「猫がネズミを取るのは当たり前じゃ!」と言ったが、今のペットとしてのイメージしかわかない僕らにとってはひどく新鮮だった。本来エサに飢えていたらネコはネズミを捕まえて食うものらしい。今まで私は一度もネコがネズミを捕まえた瞬間を見たことがない。今のネコは軟弱だ。

種もみは俵に入れて保存し、ネズミがこないようにぶら下げていたらしい。また裏作としてははだか麦(6じょう麦)や小麦を作っていてそれは現在でも続いている。昔は米と麦をほぼ3対1ぐらいの割合で混ぜて食べていた。他の米以外の農作物としてはさざんか、アブラナ、それに桑を作っていたらしい。さざんか、アブラナ(菜種)は、油用である。とくにさざんかは上質な油が取れるとのことであり戦後少しの間は油屋も地区にあったらしい。桑は蚕用であり繭を出荷していた。またS26のころからみかん栽培も一部ではじまった。商業用以外としては、自分の土地で自分たちが食べられ程度の柿を栽培し干し柿を作っていた。

 

 

{行事} さまざまな行事があるがそれらのほとんどは農業にかかわるものばかりである。以下に聞いた行事をすべて列挙する。

 

 4月14日 ・ブゼンボウ(豊前坊)

 山頂のほこらに数十人が集まり神様に円錐形のおにぎりをお供えする。その後、お供えしたおにぎりを一粒ずつとって、その場にいる人みんなで回し食いする。 

7月14日 ・ブゼンボウ

上と同じだがおにぎりではなく、まんじゅうを一人一個食べる。

9月1日 ・ワサウエ(早植え)

田に水を流す時のこと(部落ごと)。水割り等の管理役のことを区役という。

・田祈祷 

長徳寺で稲に虫がこないように祈る。お札をもらい田に立てておく。

・サナブリ(早苗振り)

 田植えが終わること。公民館で飲む。          

9月1日、9月10日、9月20日 ・厄日

 このころに台風がよく来ると考えられる。氏神へ浮立(太鼓をたたくこと)をすることで色々なことがうまくいったことに対して感謝の意を表す。それぞれ210日(いちばんとうや)、220日(にばんとうや)、230日(さんばんとうや)と呼ばれる。15部落が集まって踊りなどを行う。

 11月15日 ・お日待ち

 もちをついてお日様に感謝する。その後公民館で飲む。

 12月10日 ・ゴンゲン祭り(別名;初穂祭り、新嘗祭り)

 米ができたことを祝い琴路神社において米を奉納し酒を飲む。

その他の行事

・千々岩さん籠り

 どれくらい昔かははっきりしないが千々岩英一さんという方が若殿分に土地を買って寄付した。この功績をたたえて祭るもの。今でも記念碑がある。つい最近まで千々岩英一さんの子孫の方の家に酒を持っていきお礼をしていた。

 

 

{結婚}

戦前、また戦後しばらくの間は仲立ちがたち、今でいうお見合い結婚のようなものがほとんどだった。ヨバイがおこなわれていて、今でいうできちゃった結婚も1割くらいを占めていた。その際、男の人は家の人には「ちょっとウシやウマを見てくる」という理由をつけて夜中に外出し、女の人の家にしのびこんでいったらしい。かなりおもしろい言い訳だ。3人のかたはこのときはニヤケながら話していた。夜電灯がなく、真っ暗なのが幸いしたということだ。

僕らと60才ほど年は離れているが同じ時代を過ごしたことを実感した。

 

 

{村のこれから}

減反政策もあり、百姓は減る一方だという。百姓をやめる方もいて、田んぼだった土地は、そのまま耕作されるよりも整地され手放されて宅地になることが予測される。宅地だと1坪12〜13万ぐらいで売れるからだそうだ。

農業を行うには、耕運機やトラクターなどに莫大なお金がかかり、割に合わないらしい。

話を聞いていても、すごく大変そうなのが感じられた。

 

{話を聞いた方々}

負松 浩

 S.7年 11月22日

田中 弘

 S.11年 7月20日

松永 弘海

大正13年 11月14日

 

感想  村久木 宏   調査をしにいく前は、佐賀にまでいってしかも全く知らない年の離れた方々から、昔のことを突然聞き出すなどできるのかと不安になっていた。しかし、実際にいってみると、3人の方は真剣に僕達の質問に答えてくださり、非常に面白かったし、いろいろとメッセージを受けることができたと思う。私は鹿児島県出身で、佐賀弁よく分からなく、相手の言っていることを理解できないことがあったが、他の2人が佐賀出身ということもあり、かなりサポートしてもらって、話を聞くことができた。50年くらい前のことで今とかなり違うのかなと思ったが、やはり結婚などの話になり、照れながら話をされる3人の方を見ていると、今も昔も考えることはそう変わっていない気がした。また、調査をすると、現在も行われている行事が多数あるのに驚いた。ただ今まで私達が知らなかっただけで、しっかりと行事が引き継がれているのだ。また、3人の方に指摘され気づいたのは、僕達大学生がこのような勉強をできるのも莫大な税金を上の年代がおさめているからだ。この調査に何かしら意味を見出さねばならない。

           最後に、私達のために急な訪問にもかかわらず親切に質問に答え、さらに昼食までごちそうしてくださった負松浩さん、田中弘さん、松永弘海さんに深く感謝したい。

 

 

   田島哲也    はじめ区長の田中さんにお願いの電話をした時あっさりと断られてしまい、どうしようかと思っていたが、幸い、調査地が私の実家の隣町で友人が住んでいたのでその友人のおじいさんの家で話を聞くことができた。その家に行ってみると、区長の田中さんと貞松さんを呼んでいてくれたため、さまざまな話を聞くことができた。三人の話はとても面白かったしためになった。農業の大変さが良く分かったし、田舎の人々の人間関係の密接さがすごく感じられた。やはり長く生きている分冗談がとてもおもしろかった。話が終わったあとにはチャンポンをご馳走してもらいお腹がすいていたのでとてもありがたかった。また日本までを出してくれてとても親密さを感じた。突然訪問してきた私達に親切にお話を聞かせてくださった子の三人の方にはとても感謝している。

 

 

   西勝史     佐賀県は自分の出身県でもあり、少しは地理などがわかるかなと思ったが全くわからなくてあせった。しこ名というのもあると知らなかったので、聞いていて面白かった。今回話をうかがった三人に方々はとても親切で、私達の質問に全て真剣に答えてくれたし、質問以外のことも答えてくれて、大変ためになった。さまざまな行事にはそれぞれの意味があり、昔から受け継がれた伝統的なものだと思った。自分の出身県内でもまだまだ知らないことがあり、話を聞くたびに興味がわいてきた。最後に、丁寧に話をしてくれた三人の方々には、深くお礼を言いたい。