鹿島市筒口

 

中村逸人

田中秀樹

 

 

僕たちは筒口の区長さんの都合が悪く筒口の区長さんからの話を聞くことが出来ません

でした。それで筒口の近くにある蓮厳院という寺で井上さんから話を伺うことができま

した。連厳院ではお年寄りの方の何かの会合があっていましたけれども場所をあけてい

ただきました。僕たちの分の精進料理まで用意してくださっておいしくいただきました

。そして、近くにいたおばあさんも僕たちがここら辺の歴史のことについて学びにきた

と言うと話に加わっていただきいろいろな話をしてくださいました。しかし井上さんも

お婆さんも筒口のことはそこまで詳しくなく、蓮厳院とその周辺のことについて話をし

てくださいました。特に井上さんはかなり詳しく知っておられて、何か地域で調べもの

や発掘をされてるみたいでした。

奈良時代、このあたりは藤津の荘という仁和寺が管理する荘園でした。そして金剛院が

この荘園の中心で事務を行っていました。藤津の荘は一里四方の広さもありその時代で

はかなりの広さの荘園でした。そこでは荘園の東側の印鑰神社で明け六つ、金剛院で勤

行、花岡神社(地元の人はオモニ神社と呼んでいる)で暮れ六つの鐘がなっていました。

【印鑰天神社】:佐賀郡大和町尼寺には印鑰社国分寺跡・国分尼寺跡などがあり肥前国府

        は大和町久地井附近にあったと推定される。印鑰社とは国府の印や正倉

               の鍵を保管してまつったところである。鹿島市納富分にも字印鑰という

               地名があり印鑰天神社がまつってある。肥前旧事続編料に「一印鑰天神

               社付一通、肥前国藤津荘能古見方印鑰細々免坪金五段建、一橘田漆段内

               弐段北依七十代同松本三段七十代以上伍段貞和六年(1350)庚寅九月廿

               日図師判、小政判、田所代判、総工文代判、庁目代判」とあって著者の

               糸山貞幹は「延宝八年(1680)藤津郡琴路神社記ニ藤津郡納富村印鑰天

               神アリ是ナリ」と付記している。このことから印鑰神社が藤津郡の印や

               鍵などを保管していたところと推定される。藤津郡家のあったところは

               中川が造成した若殿分、大殿分、納富分、行成などの扇状地一帯が最も

               広大であり弥生時代から古墳時代にかけての遺跡に富んでいる辻付近に

               あったと推定される。

戦国時代になってから金剛院は火災にあい、焼失しましたが偶然にも一体仏像が焼け残り

それをまつったのがいまの連厳院になったということです。そして佐賀の本藩から鹿島に

養子をむかえいれたのが三代直朝公でこのときに鹿島の基盤整備がおこなわれたとのこと

です。そのときの石高は二万石ですが隠れ石高まであわせると三万七千石はあったそうで

す。直朝公は干拓を行いましたけれどもこれは鹿島ではじめて行われた干拓だったという

ことです。このときに行われたのが篭(コモリ)といって竹かごの中に石をいれたもので

干拓をおこなっていきました。これは近くで行われた搦(カラミ)という木のくい、竹を

からませたもので干拓をおこなっていくものとは違う形のものでした。

また水利としては権現溝(ゴンネンミゾ)・花木庭水道(ハナコバシィドウ)の二種類があ

あります。江戸時代では読み書きをできる人が少ないためどちらとも読みで伝わっている

ので上記のような呼び名になっているそうです。そのため連厳院についても読みだけで伝

わっていたらしくて名前が間違って書かれた壺が連厳院に残っており、それを持ってきて

花見せてくださいました。木庭水道(ハナコバシィドウ)は直朝公をまつった花岡神社(地

元の人はオモニ神社と呼んでいる)を通過しています。昔は古川にあわせて水路があった

らしいけれども洪水がたびたび起こってたらしいので後に新しい水路がつくられました。

そのときに水がぴたっと止まった場所があってそれから琴路神社という名前がついたそう

です。また旱魃もたびたびおこっていました。1994年には大旱魃があって大変だったそう

です。そのときには誰かが水門を勝手に調整して水が流されたということがあってから夜

もずっと交代で各水門ごとに見張りをつけてから見張っていてとても大変だったとおっし

ゃってました。貝瀬という水路の始まり近くから水利の調整を行ったそうです。もしこれが30年以上であってもかわっていないだろうとのことです。

また花木庭水道(ハナコバシィドウ)には大井手という水門があってからその調整の仕方

には決まりがあってそれが明文化されたのは明治期とのことです。その条文もまだ存在し

ているらしいですけどこのときにはちょっと近くにないということで残念ながら見ること

はできませんでしたけども、いつ水門の調整をしなければならないとか、どのくらい調整

しなければならないなど口でいくつか教えてくださいました。旱魃時には水門の調整のこ

とでいろいろもめごとがあったそうで、水門を数p変えただけでも水の量が変わるという

ことでけんかやにんじょうざたがたくさんあったそうです。また雨が降るように雨乞いも

していたらしくて八竜さんという神社に雨乞いを続けると三日後には雨がふってきたそう

です。筒口という地名は昔にそこに筒の口堂という堂が存在していたことか今の筒口という地名がついたそうです。

井上さんは一通りの話が終わってからはまず連厳院のまわりから案内してくださり「ここ

が八竜だよ」、「あそこが松原だよ」、「あそこが浄願だよ」など説明がありました。まだ時

間が余っていたので車でいろいろつれていってくださいました。まずは坊中を通りながら

坊中の説明をしていただき、それから印鑰神社にいきました。そこで印鑰神社の説明をき

きました。その後は琴路神社にいき、そこでは古墳の遺跡を見て、古川の跡もみました。

そして琴路神社の鳥居の話でした。そこの鳥居は普通のとはちがって肥前鳥居といってパ

ーツごとに別々につくっていく方式だということをききました。そして最後にはバスの乗

り場まで送ってくださってとてもやさしい方でした。

 

 

 

 

 

小字については筒口に限定して聞けませんでしたので連厳院周辺について記述します。

大殿分にジョウガン(浄願)、ハチリュウ(八竜)、コウドウ(講堂)、ホンドウ(本堂)、

    マツバラ(松原)、スギノババ(杉の馬場)、セイノババ(正の馬場)、

    インノババ(院の馬場)、タチババ(立馬場)、

南川にフズウ(不動)、ヤクシドウ(薬師堂)、ジキデン(飯田)、ボウチュウ(坊中)、

   イチノマ(一の間)、モンゼン(門前)

 

感想

 

筒口の区長さんとの都合があわず筒口に限定して聞くことができなかったのがとても残念

でした。けれども連厳院の方や井上さん、お婆さんがしっかりくわしく話してくださって

とてもよかったです。地名や水路についてこんなに多くの歴史があるんだなと思って驚き

ました。また地元のみなさまはご飯を食べさせて下さったり、いろいろなところへ案内し

て連れて行ってくださったりと多くの場面でとても親切な方々ばかりで話もききやすかっ

たです。                    田中秀樹

筒口の区長さんから話を聞けないとわかってからちゃんと話がきけるのか心配していたけ

れども蓮厳院の皆さんから話をきくことができてよかったです。小字など詳しくきくこと

ができなかったことはかなり残念に思いますけれども、貴重な話をきくことができてよか

ったと思います。これからも歴史について自分なりに調べていきたいと思います。

                        中村逸人