あざな調査(歴史の認識)

於 佐賀県鹿島市 古枝竹ノ木庭地区

 

調査日:2001年(平成13年)12月22日

調査者:1EC01010E 石田 貴幸
1EC01013M 石橋 朋矩
1EC01039T 小野 輝明

1. 調査の概要

 私たちは、あざなの収集、および昔の生活についての調査を行うために、佐賀県鹿島市古枝竹ノ木庭地区の調査を行った。

 まず、現在の竹ノ木庭地区の概要を示しておく。この地区は佐賀県鹿島市の南部に位置し、25世帯が住んでいる。山村であり、過疎化が進んでいると地区の方はおっしゃっていた。私たちが調査を行う上で、この過疎は影響を与えたといっても良い。地区のことを良く理解されている方が、病気で寝込んでいるということもあって、何軒もお話を伺いに行くということはなかなかしにくいものであった。

 小学校も、ふもとの地域まで行かないとない。バス通りからも、少し離れたところにある。そのためか、私たちは、調査のために現地に行く際、迷うことがあった。日当山地区から向かうことにしたのだが、道自体も、舗装されていないところもあり、道幅が細いところがほとんどだった。竹ノ木庭地区から鹿島市街に向かう道路は、地区から北に向かうものが1つあった。この道路を、主に自動車の通行に使っているようである。
 現地調査をする前に、約束の取り付けを行うことにしたのだが、区長さんは、「この時期は出稼ぎなどで忙しいのです」などとおっしゃっていた。
 農作業のない冬場は、出稼ぎに出られているということが感じられた。

 そのようなこともあったが、現地調査の当日、地区の方々は、私たちを迎えてくださった。地区の方々の暖かさを感じることができた。

 これより、現地での聞き取り調査の会話内容を元に、地区にあるあざなのことについて、そして、昔の生活などについて、書き示していこうと考えている。

2. あざな

 今回の調査の目的として、まず挙げられるのが、あざなの収集である。現在では、圃場整備がなされているため、水田が昔の形をとどめていないのであるが、あざなは今も残っている。今回の調査で考えたことは、あざなのつけ方は、多くが、その場所の土地的特徴や、馬の足を洗うところといったように、何かをしたりするところにちなんでいるということである。たとえば、地域の方は、田ん中が六枚あるので、「ろくまいだ(六枚田)」と表現したりしているとおっしゃっていた。また、溜池の近くの所「つつみうえ」「つつみした」というふうに、同じような原理で、名づけている。そして、馬の墓があったということから、「バトウガン」といったり、馬のあしを洗ったということから、「ウマレガワ」といったりしているとのことである。クチナオシテバは、昔、クチナワ(蛇)を捨てていた所であったのである。また、興味深いのは、テンバウというあざな。これの由来は、墓に天保…と彫ってあることにある点である。
 あざな調査のなかで、現在の小字と対応できたもののみ、表1に示す。

表1)位置が特定できたあざな

 

あざな(漢字表記)

現在の小字

地形・土地利用

 

ナガタン(長田)

本谷・祭徳

田ん中

ロクマイダ(六枚田)

本谷

田ん中

ヒャーシノウエ

本谷

田ん中

クチナオシテバ

竹の木場

田ん中

トウゲ

本行

田ん中

ヤゴウダ

本行・平仁田

田ん中

クレイワ

本行・荒平

田ん中

ツツミシタ

本行

田ん中

ツツミウエ

本行

田ん中

ミズアライ

祭徳

田ん中

テンバウ

平仁田

墓地


 このようにして、あざなの位置を特定できたものがあるのだが、中には、特定できなかったものもあった。地域の方は、スサギノ、ホンギョ、タンゴ(本谷)、ヒランタ、コダンワラ・・・? などといったあざなも挙げてくださった。これらのあざなについて、地域の人々は、圃場整備されていてそのあざなの場所がよくわからないようだ。

3. 水のはなし

 農作業や、生活に欠かせない、水のことについて、地域の方はいろいろなことをおっしゃってくださった。
 1994年(平成6年)に、北部九州地域は、深刻な水不足に悩まされた。このことは、当時福岡に住んでいた者にとっても断水などが鮮明に記憶されている。この地域の方も、水不足で大変だったようである。地域の方がおっしゃるには、「平成6年の水不足の時はみんなタンクに水汲んで来てねぇ、してみたり、そして区切っといて上から溜まったらまた下にもっていくって感じで順番に。」「飲み水はね、よそからこうてきて飲むの。ポリタンクか何かに汲んできて。」とのことである。苦労されていたことが感じられた。
 水道はここ最近になって引かれたという。簡易水道である。近くから湧き水を引いてきている。井戸水は生活用水になっている。「ここは水道になってからごかならんねぇ。水道も一番上の水の神さんらへんからひいてるわけ。自然の水のチョロチョロ出よんとこからね。タンクに溜めてそこから、こうもってきてるわけ。業者に頼まんでね、自然の水のあるけんがっていって、部落でみんなで出あって、自分たちでホースを埋めて、そして引いてきたわけよ。」と現地の方は私たちに教えてくださった。
 水道に湧き水を利用しているということから、夏は冷たい水を利用できるのかと考えたのだが、そうではないようだ。「実際は、なまぬるい」とおっしゃっていた。タンクなどに溜めていたからだという。

4. まつり(祭)

 前章で、「水のはなし」という話題を挙げた。そこで、今度は、水の神様、祭について話をすすめていく。雨が降らないときには、雨乞いをするのだが、このことについて、下のような話をされていた。
 「雨乞いっちいったらタラタケサン参りやろうね。そして来てからおそろしゅうねぇ、にぎあわせて酒飲ませてしもうちょったけん。昔はそがんしてふうったちゃなかね、雨でんがなかときは。」
 そして、5月1日に水の神様のまつりがあるそうだ。このことについて、次のように語っていた。「今、上に水の神さんばあるもんね。祭りばすったい。五月のちいたちの日。ほんもとにお酒とオンゴサン(三角形のおにぎり)を奇数ばにぎって持っていって、そしてそこでみんな部落の人行ってからね、いただいてから帰ってくるわけよ。それは昔からのずうっとあれでね、今だかってしよるわけよ。今の圃場整備になってからもね。」

5. 水田への水の分配

 地域の南側に溜池がある。また地域の方は、「昔は水ばいることちゃんとしちゃったけど、今は圃場整備でねぇ、あぎゃんてして、いることばしちょっとけど」「上ば溜めてから上から順番にずっと来よる。」とおっしゃっていた。このことから、水田への水の分配が、圃場整備がなされる前からも、秩序のある方法でなされたことを考えさせられた。

6. 昔の農作業について

 圃場整備がなされたり、農業用機械が導入されたりする前の農作業は、どのようなものだったのだろうか。
 「補助整備の前までは手で植えよった。一反二十人くらい」。圃場整備してから十年ばかしなるらしい。
 チヨさんは「もう90ばかしなる。おどんは85になるばってんねぇ。」
 農作業のことを尋ねると、
 「もう、ひきゃためんでっでんしよっとっとたいねぇ。子どんでんが、ほらもう学校からあがって、ここさ苗ば配れのなんのちゆうてねぇ。今は、もうそぎゃんせんもんねえ学校の生徒は。」「三十四・五年ごろまでは手で植えよったもんね。他はもう田植え機械で植えることなったけど、この後は。」と教えてくださった。

 肥料のことはオヤジさんにまかせているのでオナゴにきいても分からない。しかし、このようなことをおっしゃっていた。
 「肥料はカヤば切って、牛の堆肥とまぜて作りよった。人糞は30年ごろまでは使いよった。肥料の代わりにくさば入れよった。そして牛ですきよった。」

 機械がないときの農作業は、
 「機械のなかときゃ、あんた、ここ嫁来たときゃ、馬おったもんねぇ。2、3年、馬のはなどいばしおったもんね。そいげ、おじさんのあとばして、わたしがはなどいばして、連れてまわりよったもんね、田ん中ば。」「機械の世の中でね、機械ば買わんばなんちゅってしゃーくせんなうーてこうて、しかけさせたけんね。そして、もう息子にまかせていちょんけんね、わがどももなんも知らんじちょっとたいね。」とのこと。
 圃場整備・機械化で、農作業の風景が変化したことが伝わってくる。圃場整備で機械を導入しやすくなり、手で田植えをすることがなくなったので、子どもが農作業を手伝うことがなくなったのだろう。馬が使われることがなくなったのだろう。

7. 昔の生活

 私たちは、地区の人々が昔、どのような暮らしを送っていたか、についても伺った。
 若かった時のことについて
 「22の時ここ来たもんね。同じ部落じゃけぇここ昔から知っとる。」
 私たちが男女の仲のことを尋ねると、小池さんの奥さんが、
 「公民館はあるちょったたいねぇ。公民館、クラブに寝泊りに行きよはったったですよ。私たちも話を聞いただけど。若か人の泊まりに行ってね、そして何しよったん?」「昔は酔って、ねおんじょったもんね。火事やなんやらあったときは、そこさぞろっと行くこさしちょった。」
 クラブが、地域の人々にとって、交流の場などとして捉えられていたのだろう。

8. この地域の変化・そして現在

 最初に述べたように、この地区では過疎化が進んでいるという。実際、私たちが竹ノ木庭で、「他にこの地域について詳しい方はいらっしゃいますか」と尋ねたとき、地域の方はこんなこともおっしゃっていた。よくその頃のことを知っている方は、ほとんどお亡くなりになってしまったらしい。たいしょうの「くすもっちゃん」という方がよくご存知らしいのだが、今は風邪で寝込んでいるそうだ。
 そして、農作業の光景は、今から35年前を境に変わったという。当時、農作業用の機械が導入してきたからだろう。地区にあった分校は廃校になり、今では小学生はふもとの学校に通っているとのこと。
 そして、ここからは、有明海、佐賀市街、そして、筑後川を望むことができる。地域の方々は、そのことを私たちに教えてくださった。特に、公民館の前から、北側を眺めるととても見晴らしがいいとおっしゃっていた。夜になると、100万ドルの夜景だと。
 実際、調査した日は、雪が入り混じる曇り空が立ち込めていたが、遠く、有明海を望むことができた。

9. 謝辞

 今回の調査で、竹ノ木庭地区の区長さんであり、私たちの聞き取りに応じてくださった小池辰男さん(昭和25年生)、また、地区のことについて教えてくださった、峰松チヨさん(大正5年生)、峰松次雄さん(昭和16年生)、そして、小池さんの奥さんに、この場を借りて感謝の意を申し上げます。