鹿島市高津原高三
平河照之
姫野紘範
僕たちは
まず僕たちは、高津原公民館に行くことにした。歩いてみてわかったのだが、この辺は坂になっており農業には不向きのように感じられた。また田んぼがほとんど見当たらなかった。高津原公民館はみつかったが、閉まっていた。しかし、近くの鹿島高校の中に城内公民館があるとわかりそちらに向かった。
鹿島高校付近は昔お城だったらしくまだ塀の一部が残っていた。またこのお城が丘の頂上であったこともわかった。鹿島高校はすぐにみつかったが、校内に無断で入るのは気が引けたので、近くの人に場所を聞いてみることにした。お尋ねした人は丁寧に教えてくれくれたのですが、方言で喋っておられて聞き取るのに苦労した。今村さんも方言で喋られたら聞き取れるだろうかと僕たちに一抹の不安がよぎった。
教えてもらったとおりに道を進んでいくと、広い公園がみえてきた。とてもきれいな公園であった。また、その横には、鹿島高校の正門があり、昔のお城の門がまだ立っていた。歴史的建造物が身近にある環境で勉強できることで、鹿島高校の生徒が羨ましく感じられた。肝心の公民館は見つからず、時間もなくなったのであきらめることにした。資料は見られなかったが、歩くだけで昔を感じられたのが良かったと思う。ひとつ残念なのは、デジタルカメラをお借りしながらここで写真を撮らなかったことだ。いい資料になったことだろうにと思う。
今村さんのお宅向かって坂を下りているとき、この辺はお城の家臣が住んでおり農業はあまり盛んでなかったのではないかと思った。このことを今村さんに詳しく聞いてみよう。
今村さんは自分だけでは頼りないということで、二人の近くに住んでいる方を連れてこられた。今回お話をお伺いした方々は今村藤實さん、中村敬一郎さん、西村さんの三人である。はじめに僕たちは自己紹介をした。すると今村さんたちは大変丁寧に挨拶をしてくださってとても恐縮だった。おばあちゃんは僕たちにお茶をついで下さってとてもうれしかった。自己紹介をしおわると「どんなことを聞きたいんですか?」と聞かれたので、まず自分たちの聞きたいことを大まかに答えると、西村さんが区長制の経緯について大変丁寧に話してくださった。みなさんとても丁寧に細やかに話していただけるとわかって、とても頼もしく思った。すると西村さんが「いらんことをダラダラと述べるより、要点をおっしゃっていただければ知っている範囲では答えられますので」と進めてくださったので、まず僕たちはしこ名について聞いてみた。三人の方々はしこ名のことをお知りだったが、はっきりとした場所がわからないので、公民館にある地図で確認することにするとおっしゃった。「あのー鷲の津の中村ですが公民館長さんはー? 区長さんはー? おんしゃれんかなー?」という具合に中村さんに公民館の管理者の方に連絡していただいたが、つながらなかった。そこで、僕たちはそのほかのことについて聞いてみることにした。高津原の周辺を歩き回ったとき住宅ばかりで田んぼをほとんど見かけなかったので、そのように質問すると、「終戦当時(昭和21年くらいまで)は220世帯くらいだったが今は1000世帯くらいあるんで、(田は)半分くらいしか残ってないじゃないかのー」とおっしゃっていた。
次に水利について聞いてみた。用水源は現在の三河内(しこ名はノゴミという)であり、いかりはであった。中村さんは地図をしみじみ見ながら高津原は水に関しては不便だとおっしゃられた。しかし、具体的にはおっしゃられなかった。この水源の水は、鍋島藩の領主がそれぞれの村が使える水の量を細かく決めていたらしい。また領主の命令で、田んぼが開墾されたらしい。高津原では領主の命令で棚田がつくられた。村の分け方は、水利と大きく関係あることも教えてもらった。鍋島藩についても詳しく教えてもらった。今鹿島高校があるところは昔鹿島城があり、高津原などの城の周りには侍や足軽が住んでいた。足軽は農業をしながら、合戦があると兵士として働くので、農業をしていなかったのではないかという見当ははずれた。米をたくさん作ることが、藩で一番重要なことなので、領主が徹底的に管理したということも教えてもらった。鹿島城は、佐賀城といっしょに1874年の佐賀の乱で焼け落ちてしまったらしい。残っているのは赤門だけだそうだ。
つぎに、旱魃について聞いてみた。1994年の旱魃はたいしたことはなかったとおっしゃられた。
次に村の娯楽についてお聞きした。「私たちの覚えている範囲では学校に行くころ(昭和20年ごろ)ですから、映画を見るとか、旅芝居を見るとかそんなようなことをしてました。今は公民館と呼んでいますが、昔はクラブと呼んでいて、そこが若者たちの集まる場所でしたねー。」今も昔も若者たちの集まる場所をクラブと呼ぶのは変わらないものだと思った。それ以前から続いているものとしては、「面」をつけて踊る「面浮立」や「鐘」をたたいて踊る「鐘浮立」というものがあったそうだ。「面浮立っていうのは昔、侍が形勢不利を好転させるために、面をつけて敵の陣内に切り込んだということからきてるんですよ。普通にやったのじゃあきりこめなくて。」とおっしゃっていた。「どれぐらい前からあるんですか?」と聞くと「鐘浮立は慶応の年号の入った鐘が残っておりますので…幕末ぐらいですかねー。戦争のとき出してしまわないといけなかったんですが、知らせる手段がないということで残しておかれたのが慶応の年号の入った鐘なんですよ。」と教えてくれた。さらに「今でも面浮立というわけではないけれど、女たちは踊りを踊っているんですよ。」と教えてくれた。おばあちゃんもうなずいておられた。
このような踊りは祭りのときや、雨乞いのときにも踊っていたらしい。村の祭りについて話を進めてもらうと、立春から210日から220日くらいに大日待ち祭りが催され、村の若者たちは、それに向けて「面浮立」や「鐘浮立」の稽古をしていたそうだ。さらに「力石」についても話を伺った。「力石は高津原にはなくてここから4kmぐらいはなれたところにあって、ノゴミに行く途中で寄って休憩しているときに、抱えてみたりしていたんですよ。抱え上げることができる人はいたりいなかったり。」「中村さんは抱え上げたことはあったんですか?」とたずねると、「私はちょっとだけは上がったけど、抱き上げることはできませんでした。しかし、なかには抱えて歩きまわる人もいたそうですよ。」と教えてくださった。昔は60kgの米俵を抱えていた中村さんでもやっと持ち上げられるくらいの石を抱えて歩きまわる人はよほどの力自慢だったのだなと思った。
今度は耕地についてお聞きしたところ、牛などの家畜を使った耕地が行われだしたのは昭和10年頃で、それ以前は「スキやクワ」を使っていたそうだ。牛はだいたい一家に一頭で二頭飼っている家はほとんどなかったという。「やはり牛や馬は高くて買う余裕はあまりなかったんですか?」とお聞きすると、「それもあるばってん生き物を飼うっちゃあねー」と身近に感じられることおっしゃられ、はっとさせられた。ちなみに今村さんのお宅では牛を三頭も飼っていたそうだ。牛は育てて肉牛として売っていたこともあるそうだ。「牛耕に変わったらやはり効率もかなり上がったんですか?」とお聞きすると、「麦の獲れるのの速かったけん牛の疲れてしもうて」とおっしゃっていた。人間より断然力のある牛に任せたら作業効率も飛躍的に上がると思っていたので意外だった。
肥料には下肥を使っていた。下肥は売買されており、下肥を買った場所から自分の家まで運ぶのには、下肥を桶にいれその上にわらを敷き天秤棒を使って肩にかついで歩いていった。「ごちそうをお食べなさったところはたかいなさる、アンモニア分が多いから、魚でもよけい食べる方が多かった。町さ行っていた、みんな行っていた。遠いところはこの辺から浜まで行っていた人もおる。浜の方がよう効くちゅうてね。魚をよう食べよったけんねえ。わざわざ行きよった。」と今では考えられないようなことをおっしゃられた。買った下肥は臭くてすぐには使えず、においが漏れないようかめに入れておいて1ヶ月から半年おいておいた。牛や馬のたい肥も肥料として使っていたらしい。それは、糞を積んで作っていたらしい。「あとはですね」とにしん、ほしか(いわし)も肥料していたとおっしゃった。「にしんはおそらく、北海道で大量に取れていた時分ににしんの乾物を肥料にしとったんですよ。この辺ではね、グジャレ、通常食べ物では売れないようなものヨウゴとか言って、肥溜めに入れて、発酵させて作っていたんですよ。」「どこで捕れていたんですか。」とお聞きすると「有明海よ。」と当然でしょう、という感じでお答えされた。田んぼの良し悪しもお聞きした。「どぶよ、どぶ、そこは田が1丁しかできんかったんよ。」排水の良いところが収穫量が多い田であるそうだ。排水がいいところは麦も作ったり、二毛作をしたりしたらしい。地が肥えたところと地が肥えていないところがあって、それによっても違ってくるらしい。「何年かすると肥えて来るんよ」とおっしゃられた。1等地、2等地や上田や下田と米の収穫高によって決められ、その田にかかる税金や賃貸価格や小作量がちがうそうだ。中村さんが腕を大きく広げて「昔はこれぐらいの広さでも田にせなならんかったんですよ。」と昔の苦労を語って下さった。「昔と今では多く獲れるところとあまり獲れないところの収穫量の差は縮まりましたか」とお聞きしたところ、しばらくお考えになって「そうですね、今はたわれんくらいになりました。まあ田んぼ次第ですが、やっぱり昔のままでは今の収量はありませんよ」おっしゃられた。昔は平均収穫高が5、6俵だったのが今では、450kgつまり8俵にふえたらしい。その理由としては1つに肥料が化学肥料に変わったことがあげられる。化学肥料が使われ始めたのは昭和12年ごろで、ドイツの窒素肥料が入ってきたそうだ。もう1つの理由としては「軸まき農業」があげられる。軸まき農業とは米を作るとき苗から植えるのではなく、田んぼに直接種をまく方法だそうだ。しかし、この方法はヒエ(雑草)取りを盆前までしなければならず、ますます手間がかかるという。しかし、こうもおっしゃられた。「ひのひかりなんてのは、昔の品種の8割も獲れないんですよ。でも質がよくないと売れないからねー。今の時代、質なんですよ。」自分たち日本人が、知らない間に贅沢になっていることを知った気がした。
次に「農作業は大変でしたか」とお聞きすると、皆さんが口々に「そりゃー、大変だったよ。」とおっしゃられた。家族総出でわらをかついで何キロも先に持っていったりしていたそうだ。これは、戦争に入って、省力と食料増産を兼ねて奨励金が出て、そのお金を使って農道が作られ荷車で運ばれるようになるまで続いたそうだ。今村さんは、昔を思い出しながら、「昔は家が麦だらけだったよー」と言って笑われた。今村さんも話しに入ってきて、「昔は現金収入がなかったからね、カイコさんこうて現金収入にしとったんよー」とおっしゃられた。
米の保存場所をお聞きしたところ、今村さんが「家ん中よ、二階とかに保存しっとたんよ。それで、家にねずみがおったけん大変やったんよー」と笑いながらおっしゃられた。米俵の間にぬか(もみがら)を隙間なく入れておくとねずみに食べられなかったらしい。だけど、なぜだかぬかだけだと食べられたそうだ。ぬかと米をいっしょにしておくとなぜ食べられないのか不思議だった。もみ倉(もみを貯蔵するところ)に米俵を積んで、同じように周りにもみがらをつめて貯蔵していた人もいたそうだ。
しこ名については、資料が公民館からもちだせなかったので、中村さんが家から高津原の一覧表を持って来ていただいた。しこ名は以下の通りである。
高三のしこ名
ワシノス(鷲巣)、ニシノタニ(西谷)、ニホンマツ(二本松)、クボ(久保)、ヤクシ(薬師)、オニツカ(鬼塚)、エイセイジ(永清寺)
その他のしこ名蟻尾、湊坂、黒川、杉本、辻、梅木、熊三郎、甲図、柿木、西峰、西坂、井手坂、妙見渕上、松尾谷、井手口、広瀬、谷越、田副、田代、中谷、田平、中溝、谷頭、闇谷、破石、鎧田、一本柿、観音、峰坊、坂口、郡坂、左近谷
詳しい場所は皆さんわからないとおっしゃっていたが、西村さんが持ってこられた昔の地図と僕たちがもってきた住宅地図を見比べて、住宅地図に境界を書いてもらった。ほんとうにありがたかった。小字とあまり変わらないことがわかった。
最後に農業の未来について話してくださった。「経済事情で農業しても食われんということで、自分の跡とり息子でも給料取りに出すような状況になって。私なんてそれを批判されたもので…跡とり息子を出すなんてと。しかし、そう言い出してた(批判していた)人でさえ(跡とり息子を)出すようになって…ほとんど就職に出るようになっておりまして」と西村さんはおっしゃっていた。今農業は全然儲からなくて、ほとんど専業農家はもうからないらしい。兼業農家も農業の赤字をもうひとつの仕事の儲けで穴埋めするかまたは補いきれてないらしい。こういう状況なので、農業引き継ぐ若者がおらず、どんどん農家が減っていっている。鍋島藩では、米が多く獲れることが藩が潤う第一条件だった。今も同じで、農業をする人が少なくなると、国は衰退していくのではないだろうか。「あんたたちが、この問題を解決してくれ」とおっしゃられた。大変重い荷物を背負わされた気がした。
話者の方と
現在の高三の風景