西葉(サエ)〜現地調査報告書〜

田端 良粛

野木森 稔

 

バスで佐賀県鹿島市に着き早速区長である中島末広さんに電話で連絡をとる。しかし、用事のためお話をお伺いすることができないとのこと!!とりあえず、住宅地図を広げ現在地を調べていると、一台の軽トラックが近づいてくる。降りてこられた方に「九州大学の人ですか。」と聞かれ状況がよくわからぬまま少し話すとその人こそが中島末広さんだということがわかった。しかも区長をしていたのは今年3月までで、区長はもう変わっておられるとのこと!!そこで、現区長であるという中島武満さんを紹介してくださるという。早速紹介してくださるというのでついていくとお仕事中の中島武満さんとお会いした。車に乗せていただきお仕事を終えられた後、中島武満さん宅へお伺いすることになった。山に囲まれた実にのどかなところに中島さんのお宅があり、部屋に通されると「あつかねぇー。」などといいながら、冷房をつけて下さった。質問をする前に逆に我々の出身地のことや、大学について質問された後、和やかなムードの中、早速本題へと突入することとなった。

まず、西葉の領域について聞いてみたが、昔の範囲と今の範囲は違ってきているところもあり、国からもらったという地図を見ながら境界を探していたが山間部になると中島さんにもわからないといったところも多かった。したがって地図の完成にはかなりてこずり、地図では曖昧なところが少しでてきてしまっている。また西葉には高圧線は通っておらず、墓地も共同墓地のようなところを使っているらしくそういった敷地はないらしい。しこ名であるがやはり最初は理解してくれず、しっかり説明してみると「あざなのことか!」と分かってくれた。しこ名は最後に一覧として書いてあるが、語源を教えていただいたのはヤマシタとヤマウエが山の下と上にあるからということぐらいで他はわからないらしい。コガには上古賀、中古賀、下古賀が祭りごとの手伝いなどのためにあるらしい。

しこ名に続いて水田のことについて、どこから水を引用するかなどをお聞きした。使用している用水は砥石平井堰であり、その用水源で西葉からずっと山の方にいったところにある花取堤だそうである。その花取堤は母ヶ浦と共同に使っているという。西葉の決まりごととしては分け水というのがあり、みんなで水を分け合ったが、干パツ(水がなくなったとき)の際には争いもあったという。水田の水は西葉川から取り入れるそうだ。(他にそれらしい川なんて無いし当然といえば当然のことだが)またその際には、チヂノウチイセキ(千々ノ内井樋)、マエゴモリイセキ(前籠井樋)、カラミノイセキ(搦の井樋)、マッデサンノイセキ(松出山の井樋)、ナカジャノイセキ(中間の井樋)から取り入れいている。また、後で少し述べるが慣行としては川神さん祭りというものがあり文字通り川の神様を祭っているとお聞きした。

続いて村の災害についてお聞きすることに。西葉には「ユビ」というものがあり、海水が水路に入ってこないよう止めておくものである。しかし、満潮時には雨がたくさん降ってしまうと海水が水路に入ってきてしまう。昭和37,38年には大雨が降りユビでは海水が水路に入ってくるのを防ぎきれず、また西葉川の氾濫、山の崖崩れによって崩壊した家もあったそうだ。西葉川は年に一回ほど氾濫するらしい。

続いて良田、悪田についてお聞きした。現在農業組合では A地帯、B地帯、C地帯などといって区別しているが昔は一等田、二等田などといっていた。一等田は乾田で麦など裏作ができるが逆に二等田は湿田で歯の無いげたを履いて作業をしていて、「ひざまでねよった。」とのこと。ちなみに「ねよった」というのは「つかっていた」と意味は似ているが若干異なるらしい。やはり普段は使わないような言葉が出てくるので多少とまどってしまう。(多少ではなかったような気がしないでもないが)漢字も地名など特殊なものが多く、何度もお聞きしていた。「漢字の勉強になってよかねー。」などといわれるがこれは我々の勉強不足によるものが多いとおもわれる。話が少し横道に逸れてしまったので元に戻すが、現在ではかつて二等田だったところでも圃場整備画が行われて状態はかなりよくなっている。一等田、二等田〜八等田とは呼ばれないかどうかを尋ねてみたが少し首をかしげられてしまう。どうやらここ西葉では一等田、二等田つまり良田であるか悪田であるかだけ区別しているようだ。

化学肥料をいつごろから使いはじめたのかお聞きしたがどうやら覚えておられない様子。そこで使用前と使用後ではどのように変わったのかを尋ねると使用前では6〜7俵使うようになってからは8〜10俵米が取れるようになったそうだ。1俵は60kgだったが「今はかかえきらんともおるけん。」ということで30kgにすることもある。(そのときは括弧書き(30kg)してある)農薬のない時代は菜種油か石油を撒き、水面を蹴って稲にかけ、稲のかぶの中にいる害虫を駆除していた。

次に「ゆい」についてお聞きしたが「うーん。」と何について言っているのかこちらの質問がわかっておられない様子。「いいしゅいていうことじゃろ。」ととこちらでは「ゆい」ではなく「いいしゅい」という共同作業をやっていたようだ。いいしゅいとは例えば3人の農家の人が田植えを共同で行うとすると、3日間1日交代でそれぞれの田植えを行うというようなものである。よって手間返しなどはなかったそうだ。中島さんは「いいしゅいがなまってゆいしゅい(省略するとゆい)というんじゃなかろうか。」とおっしゃっているがそこのところははっきりしない。共同作業は4年前まで西葉でも行われていたそうだが、高齢化や農家の兼業化また家族構成の違いなどから現在は行なわれなくなった。ただし、種まきだけは現在も共同作業で行われているそうだ。いいしゅい(共同作業)の楽しみとしては共同で行うためほかの人と話をしながら農作業を行えるということ。また個人的に行う農作業の楽しみとしては収穫がどれくらいかということを期待したりすることができ、逆に苦痛は当然肉体的にきついということ。稲刈りのあとには玉葱や麦というようなものをつくる行っていた。米の保存方法はブリキを取り扱っている店に頼みブリキ製の米缶を買ってそれに入れて自分の家の冬米を保存していたそうだ。またかめに入れて保存していた家もあったそうだが米倉を持っていた人はほとんどいなかったそうだ。

あぜ(畦畔)にはかつては大豆や小豆をまいていたという。しかし豆に栄養がいってしまって、米があまりとれなくなってしまう。またあぜ道がコンクリートに変わってしまって水管理がしにくくなったなどの理由によりあぜには何も植えなくなってしまった。

農業のことをお聞きした後、昔の生活はどのようなものだったかを中心にお聞きした。訪れた中島さんのお宅も山に囲まれたところで周囲の山々ではみかんが多くつくられている。念のために電気がいつきたのかお尋ねしたがさすがにそれは相当前のことだと少し笑いながら話して下さった。そこで次にプロパンガスはいつきたのかをお聞きしたが「あれは昭和何年ごろじゃったかなぁ。」とさすがに昔のことなので詳しくは覚えておられない様子。奥から中島さんの奥さんが出てこられて、昔の出来事と関連して思い出してくださった。中島さんの家にプロパンガスがきたのは昭和40年だそうで持っている人は昭和37年ぐらいから持っていたそうだ。プロパンガスがくる以前は裏の山から薪を取ってきて、ご飯を炊いたり風呂を沸かしていたという。中島さんのお宅では薪を買うということはなかったそうだが、ほかの人の山にお金を払って入り薪を取ってきた人もいたという。(西葉では大抵の人は山を持っているそうだが)また遠い山からならば    「背負ってもって来よった。二宮金次郎さんのごと。」とおっしゃっていた。近い山からであれば、「おこう」とよばれる直径約8cm長さ約180cmの樫の木の棒の両端に取ってきた薪を束ねたものをくくりつけて持ってきていたという。

50年ほど前の食事は米:麦=1:1ぐらいの割合だったそうで、戦前はあわや芋などを主食にすることもあったという。しかし、都心部などの何も食べるものがないような状況があることを考えればまだ当時の中ではいいほうだったのではないだろうか。

農家には大抵牛が1頭から2頭いて西葉では馬は見なかったそうだ。牛を1頭飼っていた農家の多くは主に雌を飼っていて。牛を2頭飼っていた農家は雄と雌を飼い子供を産ませ産まれた子供を売っていたという。学校道だとか牛が通る道だとかの区別があるかどうかをお聞きしたがどうやら西葉ではそのような区別はなかったという。

次に祭りのことについてお聞きしたがとにかくその数が多いことにおどろいた。まず鎮守神社では6月に田祈祷が行われる。田祈祷とは米の豊作を願って行われる祭りだそうだ。天満宮では1月8日に行われるようか祭りがある。ほかには大神さん祭りというのが11月27日にあり、川の神様を祭る川神さん祭りというのが11月23日に行われる。千とろうという祭りもあっておじゃっさん(弘法大師のこと)を祭るのが8月21日に行われる。天神さん祭りというのが8月25日に行われるが、天神さんというのは全国各地に存在していて小高い丘で祭られていることが多いそうだ。また願成就は特に日程などは決まっていなくてお宮さんに願をかけその後お礼に行くというようなもの。(例えばお産のときに安産祈願をし産まれた後にお礼に行く)残念ながら西葉には無いがほかの地区では風日というのがあって10日ごとに鐘をたたいて1晩中飲むことがある。(真の目的は台風よけだが)その後西葉だけでなく七浦全ての日程表のようなものを見させて頂いたが祭りが多いのは西葉だけではなくほかの地区でも同じように沢山あることがわかった。

最後に昔の若者のことについて教えていただいた。まず若いときの遊びには映画や芝居を見に行くことが多かったという。我々はその時代にはテレビも映画も無いとばかり思っていたが実際はそうではなかった。夜の遊びには浮立(ふりゅう)のけいこつまり祭りの準備に力を注いでいたという。これだけ祭りがあるのだから1ヶ月に2度もある月もあってとても大変だっただろう。若者たちは夜には青年クラブによく行ったそうだ。青年クラブとは独身者が集まって寝泊りするところで西葉の若者たちはほとんど強制的に行かなくてはならなかったそうだ。行かないと年長者による下級生への制裁があったそうだ。(しかもかなりひどかったらしい)よその村とも交流はあったそうだがケンカもかなり多かったという。もちろんよその村に恋人がいた人もいたそうだが村ごとで結婚の反対もあったそうでうまくいかなかった人たちもいたとか。

さらに突っ込んだ内容にも答えてくださった。西葉でもヨバイはあったらしい。ここでも上下関係は厳しく年長者が恋人の家に行った際に下級生は家の前で待っていなくてはならないこともあったそうだ。

最後のつもりだったが時間が余ったので諫早干拓についてもお聞きした。もともと諫早湾の干拓は米の生産量を上げるためのものでかなり前(37年ぐらい前)に計画されていたにもかかわらずなぜ今ごろになって着工したのかということに納得できないといった様子。たしかに最もな意見だと思う。(諫早干拓について自分はほとんど何も知らなかったからあっさり納得してしまったのかもしれないが)また今後の西葉についてどう思われているのだろうかお聞きしてみた。若い者はどんどん出て行ってしまって衰退していってしまうだろうとおっしゃっていた。悲しい話だが非常に現実的だと思う。(いわゆる過疎というものか)

我々の不手際もあって非常に長い時間お宅にお邪魔してしまった。しかもバスの時間まであと30分ぐらいあるということで車で西葉を案内していただいた。おかげで貴重な写真を撮ることもできた。お忙しい中長い時間を割いてくださった中島武満さん夫妻および前区長の中島末広さんにこの場を借りてお礼を述べさせていただきます。有り難うございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

西葉

しこ名は以下のようになる

1・田について

小字前籠のうちに―マエゴモリ(前籠)

小字川西のうちに―ナカジャ(中間) マッデサン(松出山)

小字砥石平のうちに―チヂノウチ(千々ノ内) ヤマシタ(山ノ下)

2・畑について(主に蜜柑畑)

小字前籠のうちに―オノウエ(尾ノ上)

小字川西のうちに―イキントウゲ(壱岐峠)

小字砥石平(といしびら)のうちに―ヤマウエ(山ノ上) マンプトサン

小字廣崎のうちに―ヤクシンサン(厄神山) ミッドサン

3・海岸について

小字廣崎のうちに―イソ(磯)

 

 

砥石平井堰(水田に取り水をする) 大神さん