鹿島市 浜松 野畠(のばこ)

 

菰田敏博

山口悠紀

 

中西藤蔵  昭和6年8月8日生

光武クマ  大正6年2月3日生

光武貞治  昭和26年9月7日生

光武 清  昭和5年3月19日生

 

 今回、訪問したのは、佐賀県鹿島市浜松野畠。事前の電話で「今回のばたけに訪問させて頂きたいのですが」と言ったところ、「野畠と書いてのばこと読むんですよ」と教えて頂いた。勉強不足が一気にばれてしまった。今回お世話になる予定の中西さん、光武さんはともに電話をかけて非常に親切そうな方だったので、何の心配もしてなかった。しかしながら、浜小学校前でバスを降りたところから急に緊張しだした。全隣地図で中西さんの家を見ると随分と遠いように感じたが、あっというまに着いてしまった。約束の時間より15分も早い。せめて5分前になるまで待とうと思って、家の前で時間をつぶしていると、ちょうど奥さんが出てこられた。「こんにちは、九州大学の者ですが」というと「あら、こんにちは、どうぞ」といって家の中に案内してくださった。そして「見えましたよ」

と話をしてくださる中西藤蔵さんを呼んで、お茶をだしてくださった。そこはお座敷ではなく書斎のような感じの部屋だった。「お忙しいところお邪魔いたしまして申し訳ありません」とかなり緊張しながら挨拶すると、中西さんはにっこり笑って「いいえ、お役に立てるかわかりませんが」とおっしゃった。優しそうな人だ、よかった、と少しホットした。    

時間がないので早速地図を開く。「まず、野畠の範囲から教えていただきたいのですが」と尋ねてみた。中西さんは地図を見て「えーっと、ここの家は野畠、ここは湯の峯(隣の地区)だから・・・」といった具合にひとつずつ確認しながら境界線を指し示されて行く。しかし山や畑ばかりのところになると、境界があいまいになるらしく、「ここはこんな感じで」とかなりアバウトであった。しかし、区長を務めていらっしゃっているのだから、大幅に違っていることもないだろうと、中西さんを信頼して赤で線を引いていった。その作業が終わると、いよいよ、しこ名について聞いてみた。「今回の調査の一番の目的はしこ名を調べることなんです」と言うと、「ああ、しこ名ね」とうなずかれる。しこ名という言葉が通じたので、期待をつのらせて、「しこ名は昔の様子を知る上で大変重要なものなんです。しかし、現在ではしこ名は忘れさられる一方で・・・なんとか今のうちにその記録を残しておきたいんです。」と力説すると、中西さんはうんうんとうなずき、「浜川のこのあたりのことば、コブチ(小渕)っていいよったよ。そいで、コブチにあった井堰のことば、コブチのデーっていいよった」と教えてくださった。「昔はここのコブチにこがん大きか岩のあってねー、高さも3メートル、横幅も3メートルぐらいありゃせんかったろうか。そこからよう浜川の中さ飛び込んで遊びよったよ。今でこそ川で遊ぶぎん危なかとか言われるばってんね」と中西さんは笑う。「そいばってん、今はもうその岩はなかとよ。近くに道ば作るときにその岩が邪魔になって壊されてしもうた。オイはそのことば知らんやった。知っとったら絶対に残してもらうごとしたとけー」と、少し寂しそうにおっしゃった。このあたりの年配の方にはかなり思いで深い岩だったようである。さらに興味深い事を聞いた。なんとその大きな岩には、錦浪川(にしきなみがわ)という文字が刻まれていたというのだ。浜川のことを当時は錦浪川と呼んでいたそうである。中西さんがおっしゃるには、「それだけ昔からきれいな川だったんだろう」とのこと、川に飛び込んで遊ぶくらいなんだからそれはそうだろう。今はそんな川は滅多にない。川で自由に遊べるなんてうらやましい限りである。ちなみに、コブチのデーの近くにあるむかで板の橋は、現在トントン橋と呼ばれているらしいが以前はコブチのワタゼ(小渕の渡瀬)といったらしい。トントン橋の名は、すぐ近くにある東部小学校に勤めていた先生がつけたものだそうだ。

次に中西さんはグランドの南西部分を指さし「ここらへんはコウジンドウっていいよった」とおっしゃった。漢字ではどう書くのかと聞いたが、そこまではわからないらしい。「前はそこに塀のあって、その横に地区の集会場のあった。その塀はタネツケボリって言うて、稲のもみばつけよったよ」と教えてくださった。「このグランドができる以前は、ここは何だったんですか」と尋ねると、「田ん中やったねー」とのことだった。30年ほど前にグランドになったらしい。さらにグランドの南のあたりはギオンサンババ(祗園さん馬場)というのだそうだ。この地区にある松岡神社では毎年祗園祭りがあるということで、その祗園祭りとの関連によるものだろう。そういえば、この地域には寺や神社が非常に多い。野畠だけで寺が2つ、神社が1つ。その寺のひとつである泰智寺の前のあたりはタイチジモンゼン(泰智寺門前)、泰智寺につながる浜川に掛かる橋はサンガクバシ(参楽橋)というのだそうだ。帰るときに泰智寺を見たが「一休さん」に出てくるような非常に情趣のある建物の造りだった。

 ここまできて、いろいろな古い呼び方が出てきたが、田んぼに関するしこ名がひとつも出ていない。そこで「田んぼにはしこ名はなかったんですか?」と尋ねたところ、「そうね

・・・、 野畠には田んぼの少なかけんね・・・」と言いながら、しばらく考え込み、やがある田をまとめて、モリノシタ(森の下)っていいよったよ」と教えてくださった。さらにグランドの南東方向一帯を指さして、「そういえば、このあたりには何かないですか?」と聞くもなかなか出てこない。次の約束の時間も気になりだしたので、中西さんのお宅をおいとますることにした。帰る際に、中西さんは、しこ名に詳しいであろうと思われる近所の方の名前を4人紹介してくださった。「たいしたことも話せんですいませんねー」とおっしゃる中西さんだったが、巨大岩の話など貴重な話が聞けて大満足であった。

 次に訪問したのは、光武貞治さんのお宅。中西さんの家よりも山に近いところにあり、少し坂の上に家があった。インターホンを鳴らすと奥さんが出てこられた。二件目ということだけあって、中西さんのときよりもだいぶリラックスしていた。「こんにちは、九州大学の者ですが」と言うと、「こんにちは、お待ちしていました。どうぞ」とお座敷へ

案内してくださった。ご丁寧にクーラーまで入れてくださっていて、部屋は非常に快適だった。すぐに貞治さんがいらっしゃった。50歳くらいで、ちょうど父親と同じくらいの年齢だったので、しこ名について詳しいことを知っているのか不安になった。しかしながら、すぐに貞治さんのお母さんのいらっしゃった。大正6年生まれそうで、かなりのお歳ではあるが、とても元気で若々しい方だった。これはいろんなことが聞けるかもしれないと期待をもちつつ、地図を広げ、さっそく中西さんのときと同様にしこ名について尋ねた。

すると貞治さんが「あー、そがんことば知りたかったとね」と言って、一旦部屋を出て、何なら紙を持って戻ってこられた。広げた紙を見てみると、野畠の地図であった。そして赤鉛筆で地図に線を引き、いくつかの地区に分けながら「ここが、サンジョウ(山上)、タニサンジョウ(谷山上)、ここがインノババ(犬王馬場)、ウチマエダ(内前田)、シロノシタ(城下)」と次々に地名らしき言葉を書き込んでいく。しばらく呆気にとられていた、こんなに簡単にしこ名がわかっていくなんて・・・(感動)、しかしその地名はしこ名ではないことに気付いてしまった(ショック!!!)それは小字名であった。前もって用意した地図にもきちんと書いてあった。地図では小字の正確な範囲まではわからなかったのだが、貞治さんのおかげでかなり詳しく小字の範囲と名前がわかった。けれどもそれは小字名である。これは困った。貞治さんの説明は続く。「この辺は昔、長崎の大村氏と佐賀の竜造氏が戦った場所でねー、それで松岡神社の所に松岡城のあって、そういうことで、城下とか犬王馬場ていう地名の残っとうとよ。馬場っていうとは、そこが昔、乗馬練習場やったけんそがんなっとうと。」・・・なかなか面白い話である。そのような小字の由来の書いてある文章まで見せていただいた。が、もうそこまで明らかになっている話は、別に調査する必要はないのだ。地図にも載っていないような土地の呼び方が知りたい。そこで思い切って聞いてみた「あのう、それは小字ですよね?小字にもなれなかった昔からの呼び方とか 残ってないですか?」すると貞治さんもお母さんのクマさんもあまりピンとこない様子。「例えば先ほどうかがった中西さんのお話では、この辺りをモリノシタと呼んでいたということだったのですが・・・」するとクマさんが「ああ、モリノシタねー。うん、言いよった言いよった」これは!と思って「ほかにそういう地名ありませんか?」と聞くも、やはり行き詰まってしまった。仕方がないので、中西さんが紹介して下さった他の四人のお宅に伺おうと思って、四人の名前が書いてある紙を出してみた。すると貞治さんの奥さんが、四人とも昼間はいつもいらっしゃらないということを教えてくださった。ご親切に電話をかけてくださったがやはり留守。そこで方向転換して、しこ名はあきらめ、昔の暮らしぶりを聞いてみることにした。野畠では、結と呼ばれる共同作業は行われなかったそうだ。ただし、山のほうにある菅原堤の堤防作りや、そこの草むしりなどは、共同で今でも行うらしい。共同で使う山などもないということだった。「では、電気やガスがとおる前には、燃料の薪などはどこから手に入れていたのですか?」とクマさんに聞くと、にこっと笑って、「そりゃー、この辺の山からこそらー(こっそり)と取りよりよったよ」とのこと。やっぱり他人の山からは取ったらいけないのか、と尋ねると「やっぱりよそ様の山のものですからつまらんことですけどねー」とおっしゃる。しかしそうおっしゃるわりには大して悪いことでもないような様子だったし、みんなそういう風にして手に入れていたのだから、人のものを盗むという意識はほとんどなかったのではないだろうか。また、竹も貴重な燃料(主に風呂用)だったそうだ。おなご竹といっていたという。牛はどの家にもいた。

牛耕のことをまがかけと呼ぶのだそうだ。馬は馬車引きをする人たちが飼っていた。「荷馬車でデンホドキばする人もいた。」とクマさんがおっしゃるので、「デンホドキ?」というと、デンは金、ホドキは稼ぐ、つまり、金稼ぎのことらしい。中西さんがおっしゃった浜川のコブチで馬や牛を洗っていたという。「小渕の川の中で遊んでいて、すぐ上流を見ると

牛や馬を洗っていた、ということもよくあったらしいよ」と貞治さんが笑っておっしゃった。肥料には大豆のかす(これを豆すてと呼んでいたそうだ)を金肥として使用していたとのこと。干鰯は利用しなかったらしい。「金肥の以前のことはわかりますか?」と聞いてみたが、わからないらしい。きっと人糞などだったのではないかとおっしゃった。

水について聞いてみた。平成6年の大旱魃の時、野畠では湧き水があるために浜川が枯れなかったし、減反政策で水田も減っていたので、水不足はさほど深刻ではなかったようだ。ただ、水田の多い前内田の人たちは多少心配していたらしい。この地域には浜川をはじめ、石津川、多々良川など多くの河川がある。これらの河川は農業水の供給源であったり、または運送に使われたりしてきた。しかしながら、光武さん親子の話によると、これらの河川は時に大災害をもたらしている。古くは江戸時代から、この地域の人々は浜川と石津川の大工事など、いかにして水害を防ぐかを必死に考えてきた。野畠では昭和37年に菅原堤の東にある黒岩堤の堤防が決壊し、そのため多々良川流域で大水害が起きた。これを機に、少しでも川の氾濫を抑えようと、多々良川の一部大きく曲がった部分を、一直線につなげる工事が行われた。「多々良川のある場所に、大きなむつの木のあってねー、そこの下にオテジンサンの祭ってあったよ。昭和37年の大水害の時まであった」オテジンサンというのは水を鎮めてくれる神様であろうか。そんな話を聞いているうちに、クマさんだけになった。今だ!、と思いきって聞いてみた。「あの、昔の恋愛はどんな感じでしたか?恋愛の自由はありましたか?」クマさんは「そうねー、あったねー」とおっしゃる。「例えば出会いの場所はどこでしたか?」「そがん今のごと遊ぶとことかなかけんね。やっぱり働いているときに見かけてとかじゃなかですか」「男の人が好きな女の人の仕事を手伝ったりとかはあったんですか?」「それは・・・聞いたことはなかよ。でも、よそから手伝いにきた男の人が、どこどこの娘がきれいやったとか家に帰って言って、そいば聞いてたくさんの人が見に来たりとかはあった。」なんだか昔も今も変わらないような・・・。がんばって恋愛の話にしたものの、結構当り障りなく終わってしまった。マニュアルにある夜這いだけはどうしても口に出せなかった(笑)。クマさんがこの地に嫁いできたのは22歳の時。農作業経験が全くなかったため、最初の頃は苦労したとのこと。「私は、ゆったんぼ(湿田のことか?)ば鍬で耕すぎん、鍬の扱いに慣れとらんけん、服ばえらい汚しよった。そいば見た近所の人から、クマさんには紋付き袴ば着せて仕事させんさい。って言われて、みんなから笑われよった。」そう言いながら笑うクマさんは実に若い。本当に80を過ぎているとは思えない。田んぼで仕事をするときは、ヒルがあがって来てかゆくならないよう、地下足袋を履いていたそうだ。ここで奥さんが戻ってこられた。しこ名に詳しそうな別の人を探してきてくださったのだ。そこまで協力してもらえるなんて本当にありがたい。なんて親切な御家族なのだろうと胸がいっぱいになる。来てくださった方は光武清さんだった。少しみんなで話をした後、貞治さんはお仕事に向かわれた。もしかしたら今回の調査のために、仕事の時間をずらしてくださったのかもしれない。本当に申し訳ないことだ・・・。清さんにまず聞いたのが、その前に話題に上っていた「ふうけと山」の話。これは野畠にある山ではないが、名前がユーモアで気になっていた。皆が「ふうけと山」と呼ぶらしい。清さんが、「そいは本当はフクトウゲ(富久峠)ていうとたい。」とおっしゃると、全員大爆笑になった。何がどうなって「ふうけと山になったのかは謎である。ちなみにこの富久峠は、昔は鍋島藩のものであって、ろうそく作りのために、はぜの木が植えてあったということだった。次に聞いたのが、中西さんがちらっとおっしゃった、サンゲンチョウという呼び名である。中西さんはなんとなく「三軒町」ではないかとおっしゃったが、清さんは「三軒長」だとおっしゃる。その理由は、以前そこにあった三軒の家が金持ちで、村の役員などをしていたからだそうだ。なるほど。納得のいく話だ。その他、中西さんが教えてくださったモリノシタの北側の土地はヤマシタ(山下)、ヤマシタの近くにある多々良川の橋をヤマシタバシ(山下橋)ということも清さんから聞いた。山の方には昔、桂厳寺という本堂のみの寺があった。今は石垣のみが残るということだ。残念ながら見る時間がなかったのだが、清さんが「あがん立派な石垣ばどがんして昔作ったとやろうか。」とおっしゃっていたので、よほどしっかりした造りだと思われる。そしてその桂厳寺にいたお坊さん達が寝泊りしていたのが、昔「ボウズヤシキ(坊主屋敷)」と呼ばれていた場所なのだそうだ。現在の松岡神社の西側にあったらしい。また、清さんとクマさんが二人で「ジャークジウラ(ジャーク寺裏か?)て言いよる場所がある。」と教えてくださったが、その漢字も由来も不明であった。「おそらくジャーク寺という寺のあったとやろう。その裏にあたる土地やったけん、ジャークジウラじゃなかろうか。」と清さん。話ももう出尽くしたようだったので、地図をしまって、帰る準備を始めた。すると貞治さんの奥さんが、すかさずお菓子とジュースを出してくださる。集合時間まで少し時間があったので、ありがたくいただいた。いろんな話をしたが、清さんとクマさんの、これからの日本の農家についての話は興味深かった。やはり、農家の現状、将来は楽観的ではないらしい。「オイたちの世代が終わるぎん、日本の農家は終わりじゃなかろうか」と清さんは嘆いておられた。そうこうするうちにもう時間になってしまった。「本当にありがとうございました」と丁寧にお礼を言って、家を出る。すると奥さんが途中まで見送ってくださった。道の分岐点まできていよいよお別れである。浜小学校にはどう行けばいいのか尋ねると「ここをまっすぐ行って・・・」と途中まで言いかけて「いや、送っていきますよ」と結局、小学校前まで連れて行ってくださった。「いいんですか?お忙しいのに」というと「よかとですよ」とおっしゃる。本当に親切なご家族であった。

 今回お世話になった中西さん、光武さんご家族、光武 清さん、本当にありがとうございました。しこ名だけでなく、その由来、様々なエピソードなど聞いていて楽しい話ばかりでした。何よりも皆さんの温かい人柄に触れたことが一番の思い出となると思います。今回のしこ名の調査によってどんな小さな土地であってもそこには大きな歴史が詰まっていることを肌で感じることができました。簡単な調査ではあったが、自分がちょっとした歴史家になった気がしました。

 

     今回の調査でわかったしこ名は以下のとおり

  小字・城下のうちに・・・ジャークジウラ(ジャーク寺裏)

  小字・犬王馬場のうちに・・・サンゲンチョウ(三軒長)

                ジョウアンジデー(浄安寺デー)

                サンガクデー(参楽デー)

  小字・馬場園のうちに・・・コウジンドウ

  小字・山上のうちに・・・ギオンサンババ(祗園さん馬場)

              ヤマシタ(山下)

              モリノシタ(森の下)

  小字・前田のうちに・・・タイチジモンゼン(泰智寺門前)