訪問先 岡 良男さん(昭和7年生まれ)
山田 直樹
米村 義治
11時ちょっと過ぎにバスを下車した僕達は、まず、住宅地図で今自分たちのいる場所と自分たちの訪問先のお宅の場所を確認した。同じ班の東塩屋の二人が行くお宅が目と鼻の先にあったことに僕達は笑った。約束の時間まで二時間近くもあるが十分予想範囲だった。こうなることを予想して、僕達は有明海を見に行こうと決めていた。故に時間つぶしのために何をするかということを、あれこれ考える必要など全くなかった。僕達は足早に有明海を見に行った。そこで、あらかじめ用意していた昼食を済ませ、記念に写真を撮った。ちょっと観光気分だった。そうこうしているうちに時計の針は12時30分を少しまわっていた。約束の時間に遅れないようにと、訪問先のお宅に向かうことにした。松本さん宅(東塩屋の訪問先)で二人と別れ、僕達二人は岡さん宅に向かった。お互い頑張ろうな、と声をかけあってから。
岡さん宅には、約束の時間よりも15分近く早く着いてしまった。さすがにお邪魔するにはまだ早いだろうと思い、腰を下ろして1時になるのを待つことにした。二人とも不安と緊張を隠せない。知らない人のお宅を訪問するなんて経験一度だってないのだから当然だろう。その間僕達は、質問内容の確認や地図がきちんとあること確かめたりした。お土産はいつ渡したらいいのか、すでに聞き取り調査を終えている友達に電話で聞いてみようかという話もした。何かしていないと不安と緊張がどんどん募るばかりだった。たったの15分が、とても長く感じられた。そして、時計の針は1時をさす。山田君が「じゃ、行こっか。」と切り出した。しかし、自分は「あとちょっと。」と踏ん切りがつかない。けれど、一呼吸おいて「よしっ、行くか!」と自分にかけ声をかけて腰を上げた。
岡さん宅の前の坂道を上ると、家が目に入ってきた。さらにドキドキしてくる。表札を見て岡さん宅に間違いないことを確認した。玄関が開けっ放しになっていたので、網戸から家の中の様子をうかがえた。家族の方が見えたので、網戸をあけて挨拶をした。「こんにちは、小柳さんからの紹介で来ました九州大学の者ですけど。」「お〜、今日だったかの。」と岡さんから今思い出したかのような返事が返ってきた。返事から察するに、今日僕達が訪問することを忘れてらしたようだ。しかし、こころよく僕達を迎え入れてくださった。岡さんからの言葉に誘われるがままに、僕達は家に上がらせてもらい、テーブルの前に腰を下ろした。岡さんの奥さんが、座布団を差し出してくださった。お礼を言って受取り、改めて座布団の上に腰を下ろした。僕達の動作の一つ一つがぎこちなかった。まだ緊張がついてまわっていたのだ。それゆえ、僕達にはその場の重い雰囲気を振り払うような話題を提供する余裕など微塵もなかった。しかし、話を進めていくうちにとり越し苦労であったのが分かることになる。
自己紹介を終え、お土産を渡した後、すぐさま本題に入った。最初に、音成と飯田が合併して七浦になったこと、西塩屋という部落は塩屋が東西に分かれたことでできた、ということを聞いた。僕達は、しこ名について教えていただこうと思い、岡さんに尋ねてみた。「岡さんが家族どうしで、『どの田の草を刈りに行く。』とか『どの田に水を引く。』とか言う時に、その田んぼに名前はありますか?」「うん、あるよ。」間髪入れずに答えが返ってきた。続けて僕達がその田の名前のことをしこ名というそうです、と説明すると「うちではあざ、あざなと言う」と教えてくださった。しこ名については、後でまとめるが、いくつか紹介しておこうと思う。狐谷のうちのヤクマダンについては、「昔は狐谷ということ、狐の多かったとでしょう、たぶん。」と、さらに「ヤクマダンというのは、ヤコ(何の事か分からなかったのでカタカナ表記にしています)の大きい谷っていうこた意味じゃなかかな〜。」と由来を教えてくださった。しかし、岡さんもその由来に関しては、少し自信がなさそうだった。ちなみにダンというのは谷のことで方言らしい。次に、猪木のうちのワタリバについて、「もうこの頃は猪木、猪木って言いよる。昔親たちはワタリバっておらした。」と教えてくださった。それから、「そいどん、その同じ猪木のあざでもそう言う呼び方はせん所もあったでしょう。橋の近くにいる人はワタリバ、ワタリバ言いよった。」と、少し自信なさげにおっしゃった。「橋を渡るっていうことからですね?」僕達が由来を尋ねると、「そうじゃろうって思います。」と、答えが返ってきた。もう一つ、搦のうちの五畝田について話を聞いているときに、「あれっ」と思った。東塩屋の小字のなかに五畝田があったことを思い出したからだ。そのことについて尋ねてみた。東塩屋では五畝田は小字名であるが、西塩屋では五畝田は搦のしこ名であることが分かった。「あ〜あ〜。」僕達は声を上げて納得した。最後に、吉野のうちのノバタケについて聞いているとき、「普通今はノバタケとは言わんですね、吉野って言います。うちでも。」と岡さんはおっしゃった。「そうですか。」と僕達が相づちを打つと、「そう言わないと、そして教えていかんとですね。子供たちは農業しよらんけ知る必要なかと。私の嫁がよそから来とっとですので、どうしてもあざで呼ばないかんな〜と思ってますね。」と話してくださったのだが、子供たちのことを話す岡さんの口調は、どこか寂しそうに感じられた。そして、自分のお嫁さんのことになると、照れくさそうに、また、恥ずかしそうに話してくださった。
しこ名を聞き終えて、最低限の課題はクリアしたかなと内心ホッとした。しかし、聞かなければならないことはまだまだたくさんある。水利に関する質問から始めることにした。水利権について聞いてみると、詳しいことは伺えなかったが、やはり決まりもあり、厳しくもあり、守ってきたということでした。用水源のつつみ(ため池)には、水役がいて、水が足りないからといって、勝手に水を引くということは、自然的に誰もしてはならんということで未だに守られている。田んぼが畑化してしまった現在では、つつみから多少多くの水を引いても、つつみが枯れることはないということです。「水利権をめぐって争いごとはあったのですか?」僕達は当然あったに違いないと思って質問した。しかし、あっさりと返事が返ってきた。「いや、こっちではない。」疑問に思いもう一度念を押してみる。「全くなかった?」「はい。」答えは同じだった。マニュアルを読んで、村どうしの水争いはあったのが普通だろうと思い込んでいたので、ちょっと驚きでした。しかし、「ただ個人的に、昔では長田に水を引けっていうごたことわざにもあるよう、旱魃続きにはよそにいろいろ分けてするようになっとったですもんね。それで喧嘩はありよったらしかですけど。」と教えてくださった。長田に水を引けということわざは、「花取、古場城までが本当のつつみの水で、長田は出ない、実のらん。」と言う岡さんの話から察するに、つまり、長田まではつつみの水は行き届かない、ということに起因して生じたのだと思う。
昔の消毒について聞いてみた。油(廃油)を使っていたということでした。大きなわらで作ったほうきを使ったり、足でけったりして田んぼに油をかけたそうです。こうすることで葉についた虫を落として窒息死させていたのです。水利権をめぐって争いごと
牛の話が出たので、牛に関する質問をしようと思い、「牛は雌を使ってらしたのですか?」と聞いてみた。「ほとんどは雌、たまには雄も使っとった。」という答えが返ってきた。続けて、雄牛(岡さんは男牛とおっしゃっていたが)は坑木用の材木を運ばせて、その賃取り(駄賃取り)に使われていたこと、そしてその前は馬だったということを教えてくださった。岡さんの家も岡さんが小さい頃には馬を飼ってらしたそうです。各農家の所有する数は、ほとんど一頭か二頭だったということです。牛についての質問はさらに続いた。「洗い場ってありました?」と聞くと、「洗い場、馬川って言いよった。」と教えてくださった。その場所も教えてもらい、地図に落とすことがきた。馬川があったことがわかったので、牛についてはどうだったのかと思い、尋ねてみた。すると「あ〜、馬川って言いよったども、その後は牛になってからは牛」と教えてくださった。あっ、そういう事か、と僕達はうなづいた。馬捨て場があったのか聞いてみると、「馬墓じゃろ。」と返ってきた。えっ、馬バカ?と思った。そう、馬墓を間違って馬馬鹿と勘違いしてしまったのだ。普通に考えれば、話の筋から馬墓を当然連想すべきなのに・・・。ちょっとマヌケな話です。話を戻して、「馬捨て場、あったよ。」さらにつづけて、「埋めよった。死ぬってことは、年をとったら換えよったもんね。」と岡さんがおっしゃった。そこで、博労がいたのか聞いてみた。「おったよ。」と、あっさりと答えが返ってきた。牛や馬がいるときは、たくさんいたそうです。ここでは、博労ではなく博りゅうと呼んでいた、ということです。どういったふうに交換していたのかを聞いてみた。「売るときはお金と交換、換えるときはやっぱり、もちっとよか馬、よか牛になしたかっていうことであれば、おり銭やって、博労さんにやって、換えよった。交換でその価値の高とね方がやりおった。」と、教えてくださった。聞きなれないおり銭という言葉に僕達は戸惑った。自然と間ができてしまった。「お、おり銭?」僕達は聞き返した。「おり銭っていう事はね、」岡さんが笑って答える。「なんていうかな〜、誤差の金。」と説明してくださった。「あ〜。」二人して同じように納得。「農家のほうは、年をとったら売りに出すような感じだったんですね。」と言うと、「そう!」と、まさにその通りと言わんばかりの口調で、岡さんはおっしゃった。「博りゅうさんは口のうまい人が多かったみたいなんですが。」僕達が問い掛けると、「あ〜!」と、そうだったと思い出したかのように声を張り上げた。岡さん自身も博りゅうさんの口車に乗せられたことがあるのかな、と思わせるには十分だった。「牛を使ってたなあ〜。」と言う岡さんは、昔を懐かしんでいるようだった。
牛について話をしていたとき、岡さんがこれからの農業について憂えた。「年とって老齢化して、子供は後継ぎはせんでしょう。そいで、へへっ、後は日本の農家はどうなるか心配。」と。そういう岡さんの口調は、物静かで力弱かった。そして、笑い声も苦笑いにしか聞こえなかった。
子供の時には何をして遊んだか聞いてみた。「この辺近くで集まって、各家々に行ったり、天満宮に行ったり、それから山に行きよった。」と聞かせてくださった。10月頃にはめじろ取りをしたり、山に行って、罠をかけてひよどりとかカッチョウ(岡さんも本当の名前を知らないらしい)を捕まえていたのだそうです。戦時中、空襲警報がなると「やった〜!」と全員喜んだというのです。岡さんが教えてくれた。「なしかっていうと、はようしもうて帰ってこれたけん。」これには僕達二人とも笑ってしまった。
恋愛のことについて聞いてみると、恋愛はそれぞれ自由はあったね、ということでした。集落に青年クラブがあったことも、一緒に教えてもらった。青年クラブについて質問をすると、「女は我が家、男だけ。」「1年に二回、春と秋と。春は忙しくなる前、秋は一番楽な時、寄合い、五日か一週間。」と教えてくださった。青年クラブの規則などがあったのかも尋ねてみた。「掲げてこういうふうにというのはなかっても、目上の人には従うというのは。自然の流れのね。」と、岡さんはおっしゃた。よその村の若者との対立もなく、村の行き来も自由だった、ということでした。男同士どの娘がかわいいかという話もしたそうです。彼女にするには、後は実力次第と言う岡さんの言葉に、僕達二人はちょっと苦笑いしました。「男女が出会う場所は、祭りとかが多かったんですか?」と聞くと、「う〜ん、まあ、なんか行事がある時…あっ!」と何か思い出したようだ。「終戦後はね、演芸会というのがあった。その集落で、その時は男も女も一緒に踊ったり、レコードを聞いたりした。」と教えてくださった。
「西塩屋の昔からのお祭りとかありますか?」と尋ねると、「ほとんどは雌、たまには雄も使っとった。」という答えが返ってきた。続けて、雄牛(岡さんは男牛とおっしゃっていたが)は坑木用の材木を運ばせて、その賃取り(駄賃取り)に使われていた。」と教えてくださった。秋祭りには、メンブリョウをかぶって踊るそうです。この祭りは豊作を願ったりするものなのか尋ねると、「はい、もちろん。農家の豊作を願って災難に遭わないようにと、オキノシマ祭りと言いよった。最初は、おしまさん祭りってなっとったと。」それは夏祭りのことを指していた。「おしまさん祭り?」と聞き返すと、昔、大旱魃のあった時に、おしまさんという娘さんが、身を投げて、どうぞ雨を降らせてくださいと雨乞いをしたところ、雨が降ってきたという言い伝えがあるのだそうです。昔は秋祭りは収穫してからやっていたんだそうです。
「昔はきょうしゅつで、あなたはこれだけ、何段作れば、これだけ出しなさいという。戦時中は強権発動で家を調べて、どこにか直しとれば、持って行かれた。」と教えてくださった。僕達は戦前の地主と小作の関係について聞いてみた。「もう、ね〜、ほとんど小作が多かったごとある。」岡さん宅はどうだったのか聞いてみた。「うちも小作。一部は自作もあったけどね。あの〜、自作した人は経済状態はよかった。米の値段がよかったとね。小作人は5俵くらいはいつも上納にやらんといけんかったかな〜。」と思い出すように答えてくださった。上納する米は、良質の米からだったということです。
米の保存方法については、「俵に詰めておいとったよ。」と教えてくださった。加えて、種籾についても伺うと、昔は自分の家で保存していたが、今は農協から買うと教えてもらった。
電気は、物心ついた時からきとったそうです。「ただ6時頃かな?消えよったね。台所と座敷と二つあった。たいがい二つやった。一つの所もあった。」と教えてくださった。「ガスは?」と聞くと、「ガスはいつからかな〜、あんたが来てからかな〜。」と、途中から同席していた奥さんに岡さんは聞いてみる。奥さんも少し困った様子だ。岡さんが「30年頃かな〜。」と自信なさそうに答えてくださった。ガスが来る前は、風呂をたくのには麦わらを使っていたのだそうです。米のわらはかたくてむいてなかったらしい。さらに、屋根にも麦わらを葺いていた、ということでした。「話してみれば、昔はそうだったな〜。」と物静かに語る岡さんは、昔を懐かしんでいるようだった。また、まきに関してもいろいろと教えてもらった。まきのことをたたらぎと呼んでいたこと、買うこき(たきぎ屋)がいたこと、部落共有の山があったこと、葉っぱをつめるためのたきもん小屋があったことなどを教えてくださった.。
岡さん宅を訪問してからもうすぐ3時間が経とうとしている。さすがに岡さんも疲れた様子で、こんなに長々と僕達の調査に付き合っていただき、申し訳無く思った。けれども岡さん夫妻のおかげで、とても充実した調査を果たすことができました。また、調査内容以外でも、人生の先輩としていろいろと学ばせていただきました。貴重な御時間を僕達のために割いていただき、誠にありがとうございます。この場を借りて、心から感謝申し上げます。
村の名前 しこ名
西塩屋 田畑 小字土道・西塩屋のうちに ウエノミ
小字吉野のうちに ノバタケ(野畑)、コナコ
小字狐谷のうちに ヤクマダン
小字搦のうちに ゴセダ
小字猪ノ木のうちに ワタイバ
小字竜源寺搦のうちに サイガラミ
小字古場城のうちに ニシノコチ
小字下屋敷のうちに ニシノコチノトウゲ
小字古枝のうちに ヒガシタシロ
小字池ノ頭のうちに イッケンカシラ