火曜3限 歴史の認識レポート 

 

現地調査に行った場所

佐賀県鹿島市

1.西牟田

  2.組方

 

調査に行った者

1.北村 彰啓

2.江崎 得之

3.有田 章二

4.合浦 康弘

5.上原 直樹

調査に協力してくれた人

1.伊藤 治さん(西牟田)

2.太田さん(75歳)(組方)  

調べてきたしこ名

  西牟田地方

1.馬渡(モウタイ)

  組方地方

1.樋ノ口(ヒノクチ)

2.定蓮(ジョウレン)

  3.土井下(ドイシタ)

  4.浄源(ジョウゲン)

  5.境(サカイ)

  6.松角(マツガク)

  7.久竜(キュウリュウ)

  8.国広(クニヒロ)

  9.藪天(ヤブテン)

  10.船河原(フナガワラ)

11.道祖(ドウソ) 

12.毘沙門(ビシャモン)

13.温泉(オンセン)

14.横沢(ヨコザワ)

15.水深(ミズフカ)

 

 

 

旅の始まり

ちょうど西牟田地方と組方地方が隣だったので、私たちは、5人で佐賀県の鹿島市

現地調査に行くことにした。そこに行くまでに、私たちは電話で二時に行くと約束

をした。そして、北村の運転で、鹿島市に行くことになったのだが、車はやはり渋

滞に巻き込まれ、高速に乗るまでに、すでに一時をまわっていた。まあ、遅れると

連絡をいれると、やはり向こうの方はいい気持ちはしないもので、少しおこってら

した。しかし、しかたがないので、そこで謝り、まってもらうことになった。自分

達は音楽を聴きながらむかっていたのだが、途中で、車のレコーダーが壊れてしま

い音楽を聴くこともできず、佐賀県のラジオも自分達の好きな番組も無く、「やは

り、田舎は、駄目だな」と思っていた。このことを書いたのは、後で、自分達の価

値観が変わるからである。途中にインターなどに寄るなどして退屈を紛らし紛らし

しながら、むかっていった。とにかく、退屈な時間を過ごしながら、田舎の愚痴を

話していた。やっとのことで、到着したが、ついたものの相手の家がわからず、

をかけるものの、つながらず、三時前についたが、連絡がとれたのが五時でだった。

やはり、相手の機嫌を損ねてしまった。しかし、いざ会うと相手の方は少しは文句

をいわれたものの、好意的に西牟田地方のことについて話してくれた。一方組方地

方はというと、相手の方がもう4時から用事があるといって会うことができなかっ

た。でもそこであきらめることができなかったので、そこの地域に住んでおられる

太田さんのいえに行き、そこで話を聴くことになった。太田さんも、とても好意的にそ

の地域ことを話してくれた。この二つのことで私達は、田舎に住む人の暖かさと、

その地域の過去について知りたいとおもった。そこらへんからだんだんと田舎に対

する考え方が変わってきた。

 

 

 

西牟田地方の調査で分かったこと

 

はじめに伊藤さんからきいたことは西牟田地域の成り立ちだった。西牟田地域は、

もともと佐賀県鹿島市の高津原地域というものがあって、その中から19の部落

にわかれたそうです。その部落の名前は、

1.高津原(タカツハラ)

2.西牟田(ニシムタ)

3.小舟津(ショウフナツ)

4.納富分(ノウトミブン)

5.執行分(シギョウブン)

6.中牟田(ナカムタ)

7.行武(ユクタケ)

8.末光(スエヒカリ)

9.井手分(イデブン)

10. 城内(ジョウブン)

11. 馬渡(モウタイ)

12. 新町(シンマチ)

13. 大富袋(オオトミノウ)

14. 横田(ヨコタ)

15. 若殿分(ワカドノブン)

16. 東町(ヒガシマチ)

17. 大手(オオテ)

18. 世間(ゼマ)

19. 重の木(シゲノキ)

その中で、納富分や、執行分のような、なんとか分という名のついた地区は、かつ

ての地主の名前がその地についたそうです。そのほかの地域でも、やはりその当時

にかなり権力があった人物の名前がそのままその地区の地名になっているようです。

その一方、字名、しこ名について質問したところ、西牟田地域はほかの地域に比べ

鹿島市の中でもかなり発展しており、田んぼが近くにまったくない状態になっているそうだ。伊藤さんは西牟田地区の現区長をなさってるそうだが、もう分かる人

はもう残っていないそうです。伊藤さんに気を使っていただき、今でも農業をなさ

っておられる方に聴いていただいたのだが、やはりもう田んぼそのものが無くなっ

てしまい、調べることは困難だそうだった。そこで、質問を変え、その田んぼを維

持するための水をどこからひいているのかをきいた。昔は、鹿島川から引いていた

そうです。しかし、過去に一度かなり大きめの飢饉が起こり、水を高津原高原とい

ほぼ山になっている高原から水をひいたそうです。この高津原高原は、その19あ

る部落全体に水を送ってるそうです。で、そのときの飢饉から西牟田地方は、高津

原高原と鹿島川から水をひくようになったそうです。あまりめでたいはなしではな

いのだけれど、その日の夜伊藤さんの知り合いが亡くなったそうで、葬儀が行われ

るそうでした。やはりその地方わ年齢が高齢化し、ごく近くの人が亡くなってしま

うとは、田んぼの昔の名前を覚えている方がいないというのも納得できた。自分た

ちの手で西牟田地区の歴史を記録に残すことができないのは残念だった。しかし、

高齢化による過疎化の現状をじかに体験することができたことは、たぶん自分達の

人生の中で重要な体験をできたとおもった。

 

次に、私たちは組方地方のことについてお話を伺った。実は、組方で最初に話を伺うことになっていた方に用事があるということで、私たちは組方へ向かう前に、来る途中に通りすがった鹿島市立図書館へ行ったのだ。そこで図書館員に、「あのう、今僕たち鹿島市組方地域のしこ名について調査しているんですけど、あざ名が載った地図とか置いてませんか?」と尋ねてみた「ところが、僕たちの期待してた返事はかえってこず、「いや・・・ないですねえ」と言われた。途方に暮れていたとき、たまたま別の班の人たちと遭遇した。「話聞けた?」と聞いてみると、「うん、いろいろ教えてくれたよ。カセットテープ二本分、詳しく聞けたよ」ヤバい、他の班はもう終わってる・・・。少し焦ってきた。「もう帰ろっかなあ・・・」そういう気持ちが私たちの心にわいてきた。しかし、ここまでやってきた時間を無駄にしたくない。「図書館や市役所に行って資料を使って調べるよりも、地元の人たちから話を聞いたほうがいい」ということで、組方に向かったのだ。そして見知らぬ人の家を突然訪問して事情を話してみたところ、快く私たちを受け入れてくださった。

玄関に入るとおばさんが出てきて親切に私たちを迎えてくださった。「あのう、僕たちしこ名について調べているんですけど、どなたかお詳しい人いらっしゃいませんか?」「おじいちゃんに聞けばわかるかもねえ」そう言っておじいちゃんを呼んできてくれた。おじいちゃんは、「しこ名?ああ、しこ名ねえ、懐かしいなあ。今じゃあ、全然使わんからねえ。」と、感慨深げにおっしゃった。私たちはしこ名のだいたいの位置としこ名の漢字とその読み方を教えてもらった。おじいさんも、久しぶりの様子で、「え〜と・・・この辺りは国広・・・だったかなあ・・・」というような感じで、すらすらとはでてこなかった。今となっては、しこ名はおじいちゃんの世代の方々しかわからないそうだ。おばさんが親切にも飲み物を持ってきてくださった。私たちはそれをいただいて、次に水利のことについて尋ねてみた。「この辺の田んぼの水はみんな塩田川という所から引いているんだよ」私たちは組方の周辺の地理を思い出した。辺りは一面が田んぼで民家などほとんどなかった。1994年に起こった大旱魃について聞いてみると、「あの旱魃は大変だったよ。水路に溜まった水を畔から田んぼに組んできたよ」「昔はどんな生活をしていたんですか?やっぱり今とは全然違うんですか?」と聞いてみると、「そりゃあ、今とはまったく違った生活だったよ。60年前までは電気が通ってなかったから、夜の暗い時とかはランプを使ってランプの灯の下で勉強とかしていたんだよ。君たちは想像できる?」確かに、私たちのまわりをみてみると、電気で成り立っているものがあまりにも多い。今や、電気なしでは生活は成り立たないだろう。ちょっと考え方を変えてみると、恐ろしい世の中になったといえるだろう。もし電気が使えなくなったらなにもできなくなるのだから・・・。「あのころはテレビもなくてねえ・・・ラジオを聞いていたよ」私たちは昔の生活を痛いほど実感した。まだまだ聞きたいことはたくさんあったのだが、相手方の都合で長居はできなかった。私たちは今回の調査を通じて、私たちの知りもしなかった地域の知りもしなかった生活の一部分を実感できる機会ができて本当によかったと思う。特に私たちは今と昔の生活の違いに驚きを隠せなかった。私たちの世代、昔ならば遊ぶとしたら、外でスポーツなどをして元気に遊んでいた。今の私たちといえば・・・部屋で煙草を吸いながらテレビゲームに夢中になっている。もう一度今の僕たちの過ごし方を考え直してみよう・・・そんなことを考えさせられた貴重な体験となった。