西三河内
熊本望
安田香織
私たちは2001年12月22日、
バスから降りた私たちは、まず事前に連絡をとっておいた井上淳さん(昭和21年生まれ)のお宅を訪問した。井上さん宅はバスを降りた場所から100メートルも離れていなかったので、迷うことなく数分で着くことができた。時間は11時すぎ。12時半に伺う約束で予定よりずいぶん早かったが、他に行くあてもなかったので、ご迷惑を承知で伺ってみることにした。しかし、いざ井上さん宅に踏み込もうとすると、現地調査初体験の緊張と不安から、なかなか足が進まなかった。ドキドキする心臓をなだめつつインターホンを押す。出迎えてくださったのは井上さんの奥さんと思われる感じのいい女の方だった。その後ろからお孫さんかな?小さくてかわいらしい男の子が迎えてくれた。「九州大学の者です。」と言うと、奥の方から「12時半の約束じゃなかったかね?」と慌てて井上さんが顔を出された。早すぎる私たちの訪問に驚いておられる様子で、本当に申し訳なかった。それでも、気を悪くされることなく、私たちを部屋へ通してくださった。
まず、最初に一番の目的であるしこ名について伺ってみた。はじめ小字と勘違いされていたようで、私たちがなんとか説明すると「ああ〜」と納得されたので、早くもしこ名入手か?と思われたが、私たちの期待とは裏腹に「このへんは昔からなーんも変わっとらんからね。」という答えが返ってきた。小字図の郷野(ごうの)を丸で囲みながら、「この辺は昔っから桜もいっしょになって郷野っていいよったもんね。呼び名から全部郷野。これから下は東三河内の部落になるもんねぇ。」とおっしゃった。西三河内は6班に分かれており、祭りごとは主に郷野で行われるそうだ。次に郷野の下のあたりを指して「ここらへん一帯が東木庭(トウコバ)っつって、上木庭(カミコバ)・下木庭(シモコバ)にわかれとるもんね。」と教えてくださった。小字になく聞きなれない名前であったが、住宅地図のバス停名に東木庭と記されていた。続いて田んぼなどに呼び名がつけられていないか尋ねると、「ここらへんは昔からなーんも字と変わっとらんもん。補助整備前も後も。郷野、桜、吹野・・・」と井上さんは地図を睨みながらおっしゃった。補助整備は、道を拡張しただけで、昔からの水路も小道もほとんど変わっておらず、地名も昔から小字を使って呼んでいたという。結局、井上さん宅では、しこ名らしいものはほとんど見つける事は出来なかった。
次に水利について尋ねてみた。用水源は中川(本城川・木庭川)で、溜池などはない。井手によって川から水を取り入れていて、昔はタービンだったが現在はモーターを使っているそうだ。「木庭川んとこは、ここんにき・・。あと山口んあたり。それから・・。」と地図に一つ一つ井手の位置を書き込んでいって下さった。西三河内周辺の井手は、木庭川には東木庭と山口の2ヶ所、本城川には貝瀬の1ヶ所、そして現在はないが巌橋のあたりに昔1ヶ所あったらしい。それぞれの井手に名前がついていないかも尋ねてみたが、「東木庭ん井手、貝瀬ん井手」という風に、その地名をつけていたという。
中川のおかげで「昔から水にはなーんも困っとらん。」そうだ。後で三河内を散策していた時に気づいたが、中川から細い水路が田や住宅地に沿うように、あちらこちらにのびていて、この地域にとって中川は本当に恵みとなっているんだなぁと感じた。
福岡でもかなり水不足の被害を受けた、記憶に新しい1994年の大旱魃でも、田んぼに少し回し水をしただけで、近くに井手があるため水にはほとんど困らなかったらしい。
「水の使用について他の村との間で取り決めはありますか?」と尋ねると、「特にないなぁ。下流の地域であるタカツハラ地区に水を送っていて、その分、年に1回お金をもらっとることくらいやかね。」と教えて下さった。
昔から水利には強いこの地域であるが、その分水の被害も時々受けるらしい。今までに水害で2回堤防が決壊したらしい。巌橋は昔は石橋だったが、昭和37年の洪水で決壊して、現在の鉄の橋に作りかえられたそうだ。来年、また作り直すらしい。
次にこの地域の生活について調査することにした。
まずは村の農業について尋ねた。三河内は見るからに、一面水田だったので私たちは専業農家ばかりだろうと思ったが、専業農家はこの地域ではたったの2、3件らしい。実際、兼業農家や共働きの家庭がほとんどを占めるそうだ。その理由としては、高齢化・過疎化である事と、この地域で盛んに作られているみかんは安くてあまり儲からないという事が挙げられる。実際に、井上さんの息子さんも
専業農家の方は、稲刈が終わって冬になると、酒屋で出稼ぎをするという。
この地域は山村であって海から離れている。魚や塩はどうしているのかを尋ねてみると、「魚はほとんど食べんな〜。食べるとしたら川魚やな。」とのことだ。魚や塩は昔から商人が車で売って回るらしい。三河内にある店は、旭屋商店という小さな酒屋のみで、その店には調味料やお菓子がちょこっと置いてあるだけであった。野菜はすべて自家栽培だそうだ。又、にわとりを飼っている家が多いらしく、にわとりで肉・卵を得ているらしい。かつては井上さん宅は豚を飼っていたらしい。
水田の多いこの地域では、豊作を願う昔からの祭りがあるそうだ。ここで井上さんは奥さんも呼んで下さって、お二人で祭りの話をしてくださった。郷野(桜も含まれる)で年に3回行われるそうだ。内容は次の様になる。
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2月15日 女性が集まって、もち米を釜に入れてポップコーンのようなものを作ってお釈迦様にお供えする<花入り>
八十八夜 男性が集まって春酒を飲み、数珠を回して豊作を祈る
10月19日 豊作のお礼として、お供え物をする<田上祭り>
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しかし現在では参加する人は、かなり少なくなっているらしい。
次に、昔の若者の暮らしについてお話を伺った。電気もガスもなく、薪でご飯を炊き、風呂を沸かしていた時代、私たちの年代はどのような生活をしていたのか、とても興味津々だ。まず、若者は6月には必ず田植えを手伝っていた。そして当時、当然テレビもなかったため、若者たちは公民館(「クラブ」と呼ばれていた)に集まって、鉦浮立(かねぶりゅう)の練習をしていたそうだ。鉦浮立とは、笛に合わせて鐘を打つ郷土芸能である。
行きのバスのなかで服部教官が「この地域の人は犬を食べてるらしいね。」と言っていたのが気になっていた私たちは、そのこともうかがったところ、井上さんはどっと笑って「食わんよ〜〜!!食ったことない!」と否定した。しかしやはり昔は食っていた者もいたらしい。「クラブに集まったときにな、年上んもんが、わっかもんに「赤いやつ(犬)ば捕まえてこい!」って使いっぱで捕まえにいかせるんよ。」と食べたことがない割に意外に詳しく教えて下さった。日本犬の雑種のような毛が赤い(茶色)ものがおいしいと言われていたそうだ。私たちが犬の味に興味を示していると、井上さんは「いやいや、くさかって。絶対うもうなかよ!!」と言っていた。
ヨバイの風習も戦後の昭和20年くらいまであったらしい。山の部落に多かったそうだ。酒屋に集まって出会いのきっかけを作って、親にみつからない様に女の家に忍び込むといったものらしい。よばいをした若者が、夜中にトイレに行って娘の親と鉢合わせになり、騒動になった話などをおもしろおかしく話してくださった。今なら携帯電話などで親に知られずに連絡を取り合ったり出来るが、昔はもちろんそんなものはなかったので恋愛をするのも一苦労だっただろう。
井上さんがとても楽しそうに話してくれたのが子供の泥棒である。泥棒といっても悪質なものではなく、大人もある程度は容認していたらしい。柿泥棒の他、冷蔵庫がなかったため竹籠に入れて饅頭を軒下に置いておいたのを、いわゆる「悪ガキ」がよく泥棒をしていたらしい。彼らは様々な家から少しずつ拝借していたらしく、大人もある程度盗まれることを覚悟して、籠に多めにいれておいたそうだ。
以上の話を終えて、私たちは井上さんのお宅からお邪魔することにした。緊張からか要領を得ずしどろもどろだった私たちの質問にも、井上さんは快くしっかりと答えてくださった。井上さんがとても愛想よく話してくださったため、私たちもしだいに緊張が解け、最後の方には井上さんと楽しく話しが出来て、とても楽しかった。1時間以上私たちに付き合っていただいて、たくさんの話をしていただいて本当にありがたく思った。
井上さんのお宅を出てから、私たちは井上さんに薦められて琴路岳のふもとにある三嶽(みたけ)神社に向かった。西三河内でも歴史ある神社だそうだ。私たちはとりあえず、恋愛の成就を祈ってお賽銭を投げたが、二人ともはじかれた。やはり10円は安かったのか。三嶽神社の看板には三嶽神社についての事がいろいろ書いてあった。
三嶽神社が建てられた年については
・ 称徳天皇の御代(764~769年)
・ 宝亀元年(770年)
・ 宝亀二年(771年)
の3説があって、未だはっきり分かっていない。
由緒としては「木庭吉野の御獄。藤が嶺。藤の峰。」と書いてあった。藤が嶺(藤の嶺)とは琴路岳(地元の方は三嶽山という)のことである。藤の峰の正確な場所は分かっていないが、藤の森とともに藤津のルーツであると言われる。
三嶽神社の祭神は大和吉野の金峰山から勧請された蔵王権現であり、以前は山岳信仰の中心で修験者のこの地方の拠点であった。現在では他に水分神や菅原道真公なども祭ってあった。
井上さんに、吹野で補助整備をしている時に、縄文土器らしい遺石が見つかったとうかがっていたし、それに加えてこのように奈良時代からのとても古い神社があるため、この地域はとても長い歴史があるなぁと感じた。
三嶽神社を出てすぐの家で、畑仕事をしていた吉牟田かずこさん(昭和4年生まれ)に三嶽神社で行われる祭りについての話を聞いた。村民はあまり参加しないため、詳しくは分からないと言っていたが、知っている限りのことを親切に教えて下さった。
<三嶽神社で行われる祭り>
例祭 11月2日 巫女さんがアサウラという所まで行って帰ってくる
春祭 3月19日 総代だけが集まって話をして酒を飲む
秋祭 12月3日 新嘗祭:新米や、札を売ったお金を集めて神に供える
その後、吉牟田さんに「しこ名について詳しく知っておられる方はいませんか?」と聞いたところ、吉牟田さんの向かいの家に住んでいる馬場俊男さん(昭和2年生まれ)を紹介して下さった。
「しこ名は確かにあったが、もう覚えとらんよー。」と言いながらも、私たちのために一生懸命思い出そうとして下さった。
=しこ名の範囲は以下のようになる。=======================
小字高仙寺のうちに・・・シモコガ(下古賀)、カミコガ(上古賀)
小字久右ヱ門平のうちに・・・キュウエン
小字八名のうちに・・・クラトコ
小字山口のうちに・・・イケダ(池田)
小字森本のうちに・・・ウラベタ
小字吹野のうちに・・・トウコバ(東木庭)、シモコバ(下木庭)、カミコバ(上木庭)
「田の手入れに行くときなどに、家の人たちの間や、村の人たちの間では通用するような名前はありませんか?」とも訪ねたが、「高仙寺」や「白丸」など、小字の名前をそのままつけて呼んでいたのがほとんどだと言われた。又、湯谷あたりの田は「コバ(木庭)ンタン」、内籠あたりの田は「ホンジョウ(本城)ンタン」と呼んでいたそうだ。これはそれぞれ木庭川、本城川から水を取り入れているためと思われる。
又、巌橋はかつては石橋で大きなアーチが2つあって長崎の眼鏡橋によく似ていたため、「メガネバシ(眼鏡橋)」と呼ばれるらしい。吉牟田さんのお宅は、かつてお店をやっておられて、吉牟田さんのお宅は三嶽神社の鳥居の隣にあることから、「トリイババ」と村の人は呼んでいるということも教えて下さった。しこ名かどうかははっきり分からないが、地名以外にも村の人に通用する私称のようなものが存在していた。
三嶽神社の由緒のところで述べたが、琴路岳はミタケヤマ(三嶽山)、フジノミネ(藤の嶺)とも呼ばれている。藤の森、藤の峰もしこ名ではないか?と思ったが、はっきりとした場所を調べることが出来なかった。
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しこ名の収集はなかなか困難で、私たちも村で出会ったいろんな方に尋ねてまわったが、皆さん「忘れてしまったよー。」とか「そんなものあったやろうか。」と言っていた。結局見つかったのは上記のものだけで、目標よりも少ない結果となったのは残念だった。
西三河内の方々は皆さん親切で快く協力して下さって、私たちもたいへん調査がしやすかった。特に旭屋商店の山口さんは「何もわからんでごめんねー。代わりに持ってかんね。」と、みかんをたくさん下さった。そのみかんは熟していたので、甘くてとてもおいしかった。
まとめ
今回の調査で私たちは、しこ名にしても、祭りにしても、昔から代々伝わる物が日々減ってきているなあと感じた。実際、明治や大正時代生まれの人はかなり少なくなっていて、伝統的な行事や慣習を知る人がいなくなってきている。こういったものは、古老の方々から若い世代へと語り伝えていって、又それを大事に保護していくべきだと思う。そうする事で、自分の住む地域、又は国の歴史を学ぶことができ、その大切さを知って、思い入れをもつこともできるのだろう。私たちは実際に現地へ行って、地元の方々の優しさに触れ、今でも木の枝を持って溝に入ったり、田んぼ道を走り回る子供たちを見て、あらためてそう感じた。
最後に、井上さんを始め、私たちの調査に親切に協力してくださった西三河内の方々は、本当にありがとうございました。