鹿島市古枝七開部落

 今回、お話をうかがったのは岡一身さん、大曲久吉さんのお二人です。住宅地図のおかげで道には迷わなかったのですが、岡さんのお宅につくまで約45分間、山道を歩きつづけました。その道中の景色で感じたことは、あたり一面、みかん畑だなということでした。

 岡さんの家に着いてから早速、しこ名についての質問をぶつけてみました。大曲さんがおっしゃるには、このあたりには、ヤタテ、フカソコ(深底)、チャヤ、シャレコベの4つのしこ名があるということでした。ただ、この七開部落は、部落としてなりたつ前は、国有林があった場所で、部落としての歴史は浅く、50年くらいしか経っていないということで、あまり多くのしこ名は生まれていないと言われました。それぞれのしこ名の由来については、ヤタテについては、昔、殿様が狩をするときにこの場所に弓矢の矢を立てて休憩したという言い伝えがあるということです。また、フカソコについてはこのあたりが周りよりも少し土地が低くなっているかららしいです。チャヤについては、別に峠の茶屋などがあったわけではなく、殿様がこの地で休憩を取っていたらしいということからついた名らしいです。また、この地域が殿様の茶室のことを茶屋とよんでいたので、殿様がここで休憩がてらお茶を飲んでいたことから、チャヤと呼ばれるようになったようです。シャレコベについては詳しい話はなく、大曲さんが言うには、昔、このあたりで戦争があってその後、田んぼの中からシャレコウベが出てきたりしたのではないかということでした。

 村の水利については、この村には、昔から田んぼが少なく水利権はほとんど持っていないと言うことでした。周りの村よりも少し高度が高い様で、水を貯めるためいけなどもなく、井戸を掘ったりして飲み水として使ったり、畑にまいたりしていたようです。実際みかん畑ばかりなので水は、あまり必要ないといわれました。また、今はほとんどがみかん畑で、田んぼ(タンナカ)は、村の敷地内にはわずかに二つしかないと言うことです。また、昔から田んぼがあまりないため、特に田んぼについているしこ名はなく、「誰々さんとこのタンナカ」というふうに呼んでいるということです。41年前にあった、大旱魃のときは、確かに水は足りなくなったそうですが、みかんはあまり水を与えすぎてもいけないそうで、旱魃になるとかえってみかんの出来がよくなったりしたそうです。ただし、生活用水の不足分を補うために、各自で井戸を掘って補っていたそうです。今は、そのときの苦労にこりて、政府から補助金をもらってボーリングにより井戸を掘って各自の家に水道管をつっかて配布しているそうです。そのおかげで、94年の旱魃もたいした被害もなくのりきれたそうです。また、そのときもみかんのできはよかったそうです。

 災害についてですが、この村の一番の災害は台風ということですが、みかんはわりと丈夫でべつに風で木が倒れたりするわけでもなく、少し傾くだけで実も落ちるものは少ないそうです。むしろ、崖崩れで道や家がつぶれたり、家が傾いたりするのが問題だそうです。

 耕作に伴う慣行についてですが、今は共同作業(ゆい)は、ほとんど行っていないと言うことです。昔は、ゆいも行っていたそうですが、今では器具が揃っていてほとんど一人でできるそうです。また、昔はいくらかは畑もあったそうですが、個人の家で消費する程度で畑で家計を立てるのは厳しかったそうです。農薬がないような時代は、虫が作物についたりするとそれまでと考えてあきらめていたそうです。そのため、虫のつきにくい作物をおもに育てていたそうです。昔は、ほとんどが手作業でかなり大変だったそうですが、今は今で採算がとれずに苦労しているそうです。そのため、みかん畑をやめて牛(肉牛)を飼い始める人もいるそうです。また、その飼料は、昔からほとんど業者から手に入れていたそうです。ただ、作物に虫がついたりすると、それに伴って牛もダメージをうえたそうです。ちなみに、ほとんどが雌牛で雄牛は、全て去勢済みだそうです。

畑に使う肥料などは昔は人糞なども使っていたそうですが、それだけでは量が足りないので化学肥料を使っていたそうです。ちなみにこの村ができた頃にはすでに化学肥料が、出回っていたそうです。

 すぐ隣に山があるのでその山は利用してきたのかと尋ねたら、山の木は国有林ばかりで中に入ってはいけないのでほとんど山は利用してこなかったそうです。ただし、時には国有林の中に忍び込んで、薪を取りにも行ったそうです。その薪は全て自分の分で使いきったそうです。薪の売買はなく、自分の分は自分で取りに行っていたそうです。そのうちに(昭和29年)電気に変わっていったそうです。最初の頃ガスはかなり少なかったそうで、お茶を沸かす程度にしか使っていなかったそうです。

 村での生計についてですが、みかんの出荷先は農協のみではなく、出荷業者に卸したりもするそうです。また、昔も米は買おうと思えばあったそうですが現金収入がほとんどないため、めったに口にすることはなく、ほとんどが麦で、芋類も主食にしたりしたそうです。また野草などは戦後の食糧難の時は食べたりもしたそうですが、今では山菜(ワラビやゼンマイ)を食べる程度だと言うことです。保存食としては、白菜や大根を漬物にしたりしているそうです。

 村の動物についてですが、村にいるのは牛や豚、鶏だそうです。ほとんどが雌で雄は去勢したものを山の土引きに利用していたそうです。ただし馬はいなかったそうです。博労はいたそうです。牛を洗う時は川まで行くのが遠いので自宅の庭先でバケツに水を汲んで洗っていたそうです。村周辺に出没する獣は、狐や狸、猪などがいるそうです。ただ、猪は、かなり数が増えているそうで、みかん畑を荒らされたりといった被害が出ているそうです。

 村周辺の道などは、昔からほとんど変わってなくて、昔使っていた道を舗装して使っているそうです。隣町に行くにも学校に通うにも同じ道をつかっているそうです。昔は歩いて出かけていたそうですが、今は小学生は車で、中学生は自転車で、高校生はバイクで学校まで通っているそうです。山の中の村なので、昔は、塩や魚は担いで持って来ていたそうです。でも、保存方法がなかったので、ほとんどが塩物だそうです。時々、魚屋が持ってきたこともあったそうです。有明海に貝を取りに行くこともあるそうですが、魚釣りには忙しくていけなかったそうです。

 村のお祭りごとについては、お宮がないので古くからあるものはなく、最近(10年ほど前)から焼肉祭りと言うものを開いているそうです。会費1500円で、鹿島市街の人たち がやってきたり、村の人が知り合いを呼んだりしているそうです。

 昔の若者は、クラブというところに集まって、世間話をしたり、酒を飲んだりしていたそうですが、この集落にはクラブはなく、隣町に出かけて行ったりしたそうです。また力石は、よその村にはあったそうです。この集落は、規律や上下関係はそれほど厳しくなかったそうですがよその村には部活動なみに厳しいところもあったそうです。また、村人の出会いはお見合いがほとんどで、普通の出会いもあったことはあったらしいですが、あまり話には聞かないそうです。

 ここまで岡さん、大曲さんの協力で調査がかなり順調に進みました。集落の中のしこ名も無事に収集することができ、また昔の生活についての貴重なお話も聞かせてくださって、大変有意義な調査となりました。忙しい中、わざわざ時間を割いて頂いて心から感謝いたしております。岡さん、大曲さんにこの場を借りてお礼を述べさせていただきます。本当に有難う御座いました。