中牟田
調査日 2001年12月22日(土)
松田 明子
渡辺 薫
<話を聞かせていただいた方>
折敷瀬 傳さん(区長) 昭和12年8月14日生まれ
川内 輝雄さん(公民館長兼老人会長) 大正15年11月16日生まれ
早田 嘉範さん(文化部長) 昭和15年12月20日生まれ
渕上 正敏さん(区産組合長) 昭和22年6月18日生まれ
<しこ名の一覧>
@田
小字横沢篭のうちに‥‥シノカク(四の角)
小字薬師篭のうちに‥‥シノカク(四の角)、サンノカク(三の角)、ネコヤブ(猫藪)
小字*竹のうちに‥‥イカリ、コマエ、イサブロウゴモリ(伊三郎篭)、カミハタケ(上畑)
*竹は中牟田に鉄道がしかれて後に生まれた小字で、横沢篭、薬師篭、松篭をまたぐ鉄道の東半分をいう。
A畑
小字松篭のうちに‥‥ダイジングウノウラ(大神宮の裏)
B水路
小字竹のうちに‥‥ヨコミゾ、タテミゾ(いずれも農業用水路)
C堤防
小字竹のうちに‥‥センダンブチ、シオ、カシノキブチ
調査にあたって
私達が中牟田に到着したのは、午前11時くらいだった。約束の時間の午後1時までまだ時間があったので、バスを降りてすぐに目についたデパート「ピコ」に行き、そこの地下2階の休憩所で今回の調査でする質問等の最終チェックを行った。ノートに細かく箇条書きをして万全を期しているつもりだったが、やはり初対面で、しかも自分たちの父親よりも年上の方達を前にしてスムーズに事を運べれるかどうか心配であった。途中で軽い昼食をとった後、やや緊張しながら待ち合わせの肥前鹿島駅にむかった。駅に到着してすぐ、今回調査を依頼した折敷瀬さんらしき人を見つけ声をかけてみたのだが、いきなりかなり訛りの強い佐賀弁で話を始められてしまい私達は聞き取れずに困ってしまった。「これじゃあ調査どころではない、どうしよう・・・」と思いながら、なんとかその人の話に耳を傾けていると、どうやらその方は折敷瀬さんでないらしいことが解かった。方言を理解する事の難しさを痛感させられ、私達はますます不安になっていった。そのとき駅に自転車に乗った男性が入ってこられた。折敷瀬さんであった。お互い自己紹介をすませた後、私達が「今日の調査よろしくおねがいします。」と言うと、「はいはいこちらこそ。今公民館のほうに人さ集めておるけん、すぐ行きましょうや」とまったく聞き取りやすい言葉で私達を案内してくださった。言葉もきちんと理解できるし、その上とても親切にしてくださったので私達の緊張も少しほぐれた。
水田のあざ名・しこ名
公民館に入るとすでにストーブが点けられており、今回集まっていただいた中で最年長の川内さんが中牟田の大きな地図を眺めておられた。私達があいさつをしている間に、折敷瀬さんの呼びかけで来てもらえることになった中牟田の方がつぎつぎと集まってこられて、結局、区長の折敷瀬さん、公民館長兼老人会長の川内さん、文化部長の早田さん、区産組合長の渕上さんの4人の方に同時にお話を伺った。
まず今回の調査の主旨について説明した。そのあとさっそく中牟田におけるあざ名、そしてしこ名を聞こうとしたのだが、やはり始めはこのあざ名、しこ名とはそもそも何なのかとゆう疑問が持ち上がった。しかしこれはある程度予想していたので、行政上つけられているものがあざ名で、その地域の人が呼ぶ独特な地名がしこ名であるとゆうことを説明した。すると横沢篭、薬師篭、柳篭、古川篭、松篭の五つのあざ名を地図上に示してくださった。川内さんは中牟田含む地域一体のあざ名の書かれた地図をコピーしてくださり、それによりそれぞれの位置や、範囲を知る事ができた。次にしこ名を尋ねてみると、あざ名よりもやや狭くくぎっている範囲のことを呼ぶのにしこ名を使っているようだった。しこ名はシノカク(四ノ角)、サンノカク(三ノ角)、ネコヤブ(猫藪)、イカリ、コマエ、イサブロウゴモリ(伊三郎篭)、カミハタケ(上畑)の7つが上がり、「シノカクの○○さん家の田は〜だね」とゆうふうな使い方をするらしい。私達はそれまでしこ名とは田一つにつき一つ付いているものだろうと思っていたので、「田一つ一つにしこ名はついてないのですか?」聞くと、「昔はあったばってん、今はもうそがん事を知っとる人が残っとらんとよ・・・」とおっしゃった。この時、昔存在していた多くのしこ名をいまはもう知ることができないのを残念に思うと同時に、この調査の重要さをあらためて感じた。
現在の中牟田のしこ名はおもに鉄道(*明治16年九州鉄道武雄まで開通、昭和5年11月長崎本線竜王〜浜間開通、昭和9年10月浜〜多良間開通、12月長崎本線前線開通)によって区切られていて(これはあざ名についても同じように言えることなのだが)、その証拠に今ある長崎鉄道を境にネコマタ、コマエ、イカリ、イサブロウゴモリが存在している。
*川内さんの資料“中牟田の記録”より
村の水利
中牟田は、鹿島川と中川に挟まれた地域である。そのため、溜池はなく、用水源はこの二つの川である。特に重要な用水源は、中牟田の南端にある中川の堰だ。この堰は、昭和53年に改修されたのだが、西牟田村と共有していたそうだ。ちなみに、昔は中牟田村は鍋島藩領で、西牟田村は佐賀藩領だったのだそうだ。(川中さんに貴重な資料を見せていただいた。)しかし、この地域は、浜川と中川に挟まれた扇状地と、鹿島川と塩田川に挟まれた干拓地の間にあり、水がたまりやすかったため、西牟田村との水争いはなかっただろうということだった。
旱魃
1994年の旱魃のことを尋ねると、つい先日のことのように詳しく話して下さった。水をまかなうために、まず行ったのは、上で述べた中川の堰からポンプアップ(中川橋の上から水のくみ上げ)をしたそうだ。ところが、中川の水が全てなくなりそうになったので、次の対策がとられた。それは、横田排水ポンプ場の水を防火用以外全てくみ上げるというものだった。それでも足りずに、雨水対策水路に生活排水をためて、それをポンプアップして、4haの水田の水をしのいだのだそうだ。
村の耕地
中牟田では、米がよくとれるところと、とれないところがはっきりしている。中川沿いにある、コマエとイサブロウゴモリは一等田なのだが、イサブロウゴモリの南にあるカミノハタケは、干ばつのため八等田なのだそうだ。また、シノカク、ネコヤブ、サンノカク、イカリあたりは、1mも掘れば干潟になり、足が半分くらい埋まってしまうほどの湿地のため、八等田だそうだ。
肥料
科学肥料が入る前は、米と引き換えに、こえだめから人間のし尿をもらって、人糞尿にしていたそうだ。その他にも、川から泥あげした潟を乾かしたものや、たい肥、生ごみを発酵させたもの、米ぬか、菜種油のかすなどを肥料として使用していたどたそうだ。
耕作にともなう慣行
中牟田では、「いい」と呼ばれる共同作業が行われていた。それは、忙しい時期に近所や親類たちが手伝うもので、お互いに助け合うことで、手間返しをしたのだそうだ。忙しい時期は、水の入る時期に関係していて、北側の地域から田に水を入れていくため、地域間の多忙期がずれ、「いい」が成り立つのだ。また、渕上さんに、親族になれば、「いい」(ゆい)を交わすようになるということが、結婚前の“ゆいのう”の由来になっていることを教えていただいて、なるほどと感心した。
昔はあぜに大豆や小豆を植えていたそうだ。しかし、それらを自家生産する必要がなくなり、あぜがコンクリートになったために、現在では行われていないそうだ。
農薬のなかった時代、虫よけに石油をまいていたそうだ。水面に油の膜を張り、稲を蹴ると、葉についていた虫が落ちて、油で動けなくなり死ぬのだと教えていただいた。また、子供が手作業で苗の葉の裏についた卵を取ると、農協や学校がそれを1円~50銭で買い取っていたそうだ。学校の授業時間にみんなで行くこともあり、そのために授業を受けなくてよかったことがうれしかったと、本当に懐かしそうに話していただいた。そのほかには、種をまいてすぐに、すずめよけのために石油灯をもちいたそうだ。
田の中の生き物について尋ねると、次々と虫の名前をあげてくださった。たがめ、めだか、どじょう、たにし、げんごろう、みずすまし、しじみ、巻貝、ほたる、はぐろ(とんぼ)、糸とんぼ、あきあかね(赤とんぼ)・・・・。私たちが、たがめってどんな生き物なんですか?と尋ねると、笑いながら、モンシロチョウの幼虫っさいと教えてくださった。
食べ物
この地域では、青田売りということは行われていなかったそうだ。また、家族で食べる飯米は保有米とよぶそうだ。食事はほとんど米で、稗や粟、芋のような雑穀を主食にすることはなく、粟餅や黍餅を珍しがって食べる程度だったそうだ。
干し柿は、ある程度干してわら(今は新聞紙)の中に入れると粉をふくのだそうだ。私の実家では、毎年干し柿を作っているが、粉をふいていないというか、粉を吹かせるための作業をしていないようなので、今年はおしえていただいた方法で作るよう、母に助言してみようと思った。
村の動物
牛や馬は、各家にいたりいなかったりで、二家に一頭くらいで、牛が多かったそうだ。それらは、農耕用としてはもちろん、運送用にも使われていた。
中牟田にはいなかったそうなのだが、「ばくりゅう」と呼ばれ、牛や馬を安く買って高く売っていた人たちは、やはり口がうまかったそうだ。
まつりと行事
8月7日「鹿島おどり」−最近始まった祭りで、新しく整備された駅前で第一回が行われた。部落別の子供のみこしもあり、盛大に行われているそうだ。
8月31日「鉦浮立(かねぶりゅう)」−琴路神社に鉦浮立を奉納し、氏神様に台風がこないように参る。
11月3日「神社の秋祭り」−琴路神社に参り、ごちそうをして食べる(かまあげ)
11月15日「お日まち」−おてんとうさまに感謝する日。縁側でもちをつき、包丁を使わず、絹の糸できって食べるのだそうだ。また、この日は洗濯物などを干したりしてはいけないそうだ。
12月1日「かんまち」
村のこれから
中牟田の村おこしは、園芸クラブの街路樹や道路沿いの草花植えだそうだ。
以上、約三時間半にわたって、非常に貴重なお話をしていただいた。折敷瀬さんをはじめ本当に協力的な方ばかりで、中牟田の地図や、資料をコピーしていただき、予想していたよりはるかに円滑に調査を進めることができた。皆さん何度も公民館の部屋から出て、寒い中資料を取りに帰ってくださったり、デジカメで写真をとってプリントアウトして持ってきてくださったりして、本当に感動した。また、川内さんが、ご自分でたくさんの資料を集めていらして、様々なことに興味を示していらっしゃった様子が印象的だった。公民館を出る際には、お土産までいただいてしまった。帰る前に少し時間があったので、中牟田自慢の喫茶店に連れて行ってもらった。そこで、折敷瀬さんがむかし船に乗っていらしたころの話を伺った。特に、パナマ運河を船で横断されたときの話や、五大湖を渡られたときの話がとても面白く、興味深かった。時間はあっという間に過ぎ、喫茶店を出て、バスに乗る場所に向かった。が、バスを降りた場所がわからず、バスを待たせてしまっていた。すると、折敷瀬さんが、急いで教授のところまで行って、私たちをかばってくださった。最後の最後までお世話になって、別れるのがとても寂しかった。今回の現地調査では、中牟田の土地についての知識を得ただけでなく、そこに住む人のやさしさにふれることができ、たくさんのことを学ぶことができた。
折敷瀬さん、川内さん、早田さん、渕上さん、そして、このような機会を与えてくださった服部教授に改めて、御礼申し上げます。