藤村浩二
来てみると思っていた以上に「海の町」小宮道。私たちは、まず海のことを聞いてみることにした。潮の満ち干きが月によって違うということを次一さんから聞き驚いた。海についてほとんど無知だったことを痛感。普段、私たちが海に触れることの無い生活を送っているのもあるのだろうが、これから聞いた話は、驚きと感心で満ち溢れていた。
次一さんは、自分は詳しくないので詳しい人を呼ぶとおっしゃって電話を始めた。和登志さんがくる間にちょっと海の話をしていると、数分後和登志さんがいらっしゃった。わずか数分だったので、近所なのだろうと推測する私たち。次一さんは和登志さんに「今お前さんの専門のほうの話しばしよったけんが」と笑顔で迎えいれた。二人とも、元気に笑い声を弾ませている。地域の人と人のつながりを感じる瞬間である。
まず、岬や浜などに昔から使っているしこなのようなものがあるか尋ねてみることにした。
海岸線のでっぱなをさき(岬)と言ってその地名がずっと七浦に伝わっているらしい。地図を広げて、場所を確認しながら尋ねた。アカサキ(赤崎)、テンジンサン(天神鼻)、ヤクササン、ウーザキ(大崎)、イオツイバナ(魚釣鼻)、など七浦全域のさきの名前を教えてもらった。テンジンサンは実際に今日干潟公園に行く途中で赤い鳥居を見たところだった。ヤクササンにも神社があったらしい。和登志さんは「今はそがん名前(ヤクササン)で使うもんはおらんけん」とおっしゃった。ヤクササンと呼んでいたのは、和登志さんが小学生のときまでだったらしい。
昔の海岸線を聞くと、海岸線沿いに今ちょうど田んぼになっているところ(音成地区のとこの海岸線)は、昔はなかったのでもっと入り組んでいたようだ。今は海岸線沿いに国道207号線が走っているのだが、道自体は昔から海岸線沿いに続いていたらしい。今と違うのは、道の向こうにすぐ海があったことのようだ。
そうやって海岸線が変わっていく経過で、高潮の被害防止のために6メーターの堤防ができたりもしている。高潮のときにしめるドアのようなものがついているらしいが、普段は邪魔なのでとっぱらったりもしてしまっているらしい。
「浜」のことを尋ねると、「浜」というものはなく、海で魚をとるような石積みをした漁場で「アバ」と呼んでいたところがいくつかあるらしい。潮が引いたときの干潟を利用して、ムツ(ムツゴロウのこと)やワラスボを取っているのだ。干潟は小宮道では3kmも遠くまでひろがるらしい。(陸からは海が見えなくなる!) 南のほうより、北のほうが遠くまで干潟が広がるそうだ。(南は地盤が少し低い。)漁に使う道具は、何種類かある。「ガタスキ」は、容器を積んで3mくらいの板の上に人が乗る道具。これに乗って漁をする。竹筒で作った罠(名称:「タカッポ」)は「ムツが上がってきて、上さ出て来っぎ、下に戻られんごとなる」ようにムツゴロウのいる穴に仕掛けてあるそうだ。次一さんが、「ムツゴロウも自分のうちば持っとるけんが、間違うてひゃーったなか?こん中(竹筒)に」とおっしゃったのが、なるほど、と思ったと同時に、面白かった。「潮が引けば(ムツゴロウが)出てきて上で遊ぶ」ので、ムツゴロウがいつものように遊びに行こうとすると、出られず、つかまるらしい。ムツゴロウは、今日見て、その愛らしさを知っているので「遊ぶ」という表現がまさに目に浮かんだ。その他に、釣竿の先に曲がった針をつけた「ムツカケ」という道具は、その竿でムツを引っかけてとるらしいが、これは職人技。名人がするらしい。
潮が高いときは海苔や赤貝を捕る。赤貝は底引き漁であり、金属のかごを船からぶら下げて赤貝をすくう。これを「ジャンジャンマイ」という。昔ながらの漁法だ、と和登志さんが言っている後ろでぼそり、と、次一さんが「禁じられた漁法ばい」と言ったのが非常にインパクトがあった。(なぜ、禁じられているのか、今になって気になって仕方がない・・・)籠自体が重く、赤貝が入るともっと重くなるが、浮力や、てこの原理を利用するなど工夫している。和登志さんが、体格ががっちりしているのは、そうやって重いかごを引き上げるからだ、という次一さんの言葉に納得した。また、ワラスボを捕る道具には「スボカキ」というものがあり、刀状の道具で潟を一定方向に掻き、そこで取れなかったら垂直の方向に掻く。あとで、「ワラスボ」と言う魚が気になったので、インターネットで調べてみると、有明海にいる白身魚で、見た目は黒っぽく(腹は赤いらしい)形は、はぜのような、うなぎのような姿だった。泥の中にいるからだろうが、目が退化してほとんどどこにあるかわからないらしい。歯がギザギザしていて、普通の「魚」とはかなり異なった形相をしていた。他に、「タケヨツデ」というものがある。竹と網でできている。海に沈め獲物が入るのを待つらしい。原始的な方法らしいが、小宮道では「タナジョブ」と呼んでいるらしい。「ジョブっつーとは、網の意味やなかろうかと思うとばってんねー」とのこと。これに獲物が入るのを待つためのやぐらもある。
来る途中に見た果樹園で何を栽培しているのかを尋ねると、「変わってきたけんねー」と次一さんも和登志さんも、頷きながらその10年単位の移り変わりを話してくださった。昔は、芋と麦という畑作中心だったらしいが、その後、びわ、たばこ、みかん、今は巨峰を栽培しているらしい。とは言え、なかなか金にならないので、若者はやろうとせず、経営の厳しさからも荒廃園になっているところもあるらしい。
祭りのことを聞くと「おしまさん参り」という言葉がでた。これは、雨乞い祈願の意味でやっている。「おしまさん伝説」から行っている祭りで、おしまさんは昔々雨乞いのために海に身投げした女性の名前なのだそうだ。今では、祭り=村おこしがひとつの形式のようだが、他にも、済んだばかり(インタビューをしたのは7月7日)の田んぼの豊作祈願の「たきとう」(農作業の賃金を決める)は部落の竜王神社でやっているらしい。その次の日は「休みましょう」ということで、「サナボリ・サナボイ」がある。これらは、ずっと昔から続いているらしい。昔は、みな例え小さくても世帯ごとに田を持っていたそうで、これらは農作業をするものにとっての楽しみだ。(そしてこの日を境に夏休みの祭りの太鼓の練習を始めるらしい。その日までは、村の宝物である太鼓を出す。)小宮道の人たちは、田んぼも漁もする半農半漁の生活だったらしい。
今は田んぼではないが昔は田んぼだったと聞いたので、(今でも隣の五畝田には田んぼがあるらしい。もともと小宮道の人たちはそこに住んでいたが人口が増えたので移り住んできたのが小宮道の起源らしい。小宮道では、水田がない分、漁業が盛んになったらしい。) そのときのしこ名を尋ねると、今でも残っているそうだ。だいたい小字になっているようだ。
小字になったのとは、読み方が違っているのがあるらしいので、それを尋ねてみた。今ではほとんど畑である。和登志さんが、私たちが持っている地図より詳しい小字が付いている地図を持ってきてくださったので、その中から今とは違う読み方になるものを教えてもらった。ホキヤマ(秀城山)、ヤマンタ(笹原)、ヨレダ(雨石)、トントンビャァーシ(大木庭)、サクベカタン(赤面)、ビャァーマチ(先館)、ウブダン(火荒あたり)、マツボトケ(赤松。神様がいたらしい)、ナカンオ(中尾。中の尾根という意味かも。次一さん談)、カンヤクタオ(下屋形の近く)。ウバンツクラ(野畑。風のあたらない、陽だまりであたたかい)、ワタイバタ(瀬戸。川の超えたところ)、ハナサキ(芦ヶ谷。尾根の降りてきているさきだから)、サクライシ(源太郎。大宮田尾の部落の地域の田んぼ)、など。
馬洗い川のことが自然と出てきた。浅い川だったらしいが、今はないらしい。農作業に馬を使っていたらしいが、そのほかにも「馬車引きさん」といって材木をリアカーのようなもので引くときにつかっていたらしい。物を洗うため池は「タンガワ」と呼んでいたらしい。薪木をとる地域(入りあい地)みたいなものは、決められていたのか尋ねると、村山といって部落の区有地があったがみな自由に取っていたらしい。そこで取った落ち葉やらで温床を作り、タバコや野菜の苗をつくっていた。自分の庭に、くいを打って藁をたてて上にビニールをかける、ビニールハウスのようなものを毎年作って主にタバコを作っていたようだ。
今度は家畜の話になった。牛はメスを飼っているところが多かったようだ。
オスは体が大きく、角が太く、「コッテウシ」と呼んだ。家畜の世話をするのは子供の仕事だったようだが、コッテウシを飼っているところの子供はさぞかし苦労したことだろう。家畜の世話は子供にとって、生活の一部だった。学校帰りにえさをやったりしたそうだ。えさは、芋の葉っぱを刻み、藁、米ぬかを混ぜるお手製だ。牛を買いに来る「ばくりゅう」もいたらしい。買取の交渉をしてくる人だけあって、口のうまい人だったそうだ。和登志さんによると「ばくりゅうは、仕事の好かんもんがしよらした」そうだ。ばくりゅうの仕事は、村の小屋を見て周り、採算が取れそうだったら買い取りの交渉をすること。牛のほかに、馬も買い取ったりしたらしい。家畜の中でも、今度はやぎの話になった。牛の乳は飲まないかわりにやぎの乳を飲む。えさには、カキの貝殻をつぶしていれて、体が丈夫になるようにした。カルシウムが豊富そうだ。鶏も飼っていたそうだが、その卵は売るといい収入になったそうだ。意外だった。しかも、その意外ついでに、その卵は「精米所」に売りに行ったらしい。昭和中期で、一個8円〜10円。収入といえば、他にも、家中の鉄くずを集めて買い取りに人に売ったらしいが、それでも1kg1円。卵がいかに高収入かわかる。
今、諫早湾の問題が有名だが、海苔の養育に影響を与えているのは、佐賀県でダムが次々にできていることなど筑後大関・六角川・そして諫早湾の3つだそうだ。昔は、山から川を伝って流れて来た養分が海に流れ込んできていたが、関ができることで川の流れが変わったりして、養分が海に流れ込んできにくくなっているという。海の生物は生育するのに砂が必要で、山から流れてきた養分を含む砂の多いところに生物は多い。最近ではがたの奥のほうでは海底にヘドロがたまり、生物が減ってきたりもしているらしい。
昔の雨乞いの儀式について尋ねると、部落の神社に雨乞いの儀式で金をたたいていたらしいが、今でも行事として取り入れてるらしい。旧暦で日にちを決めているので、今の暦では毎年違う日にちになる。
部落の境をたずねると、峠ごとにひとつの部落になっていて、自然の地形に添った形になっているのがよくわかった。
6「インタビューに協力していただいた方」
小宮道・区長 石橋 次一さん(昭和15年10月2日生まれ)
副区長 石橋 和登志さん(昭和24年1月19日生まれ)
お二人のおかげで、貴重な資料がたくさん集まりました。
ご協力、本当にありがとうございます。