歩き・み・ふれる歴史学レポート[小舟津]

 

清見太一

               古賀直樹

 

 聞き取りをした方の名前と生まれた年

        武冨義介(昭和9年生まれ)  武冨平八郎(昭和4年生まれ)

         白浜三一(大正4年生まれ)  織田弘春(昭和5年生まれ) 

 

 村の名前     しこ名一覧

 小舟津         ナカガワカク(中川角)、キンブチ(金淵)、ジョウデン(上田)、ナガジョウ(長條)、チョウレンマイ(調練米)、コゴモリ(小籠)、ツッキリ(築切)、シシゴロシ(獅子殺)、ジョウタ(上田)、ジュウノカク(十ノ角)、クノカク(九ノ角)、キタハチ(北八)、スエヨシ(末良)、サルゴモリ(猿籠)、モウタイワタリ(馬渡籠)、ニノカク(二ノ角)、イチノカク(一ノ角)、ニノカク(二ノ角)、サンノカク(三ノ角)、シノカク(四ノ角)、ゴノカク(五ノ角)、ロクノカク(六ノ角)。

 

          田畑   小字宗原角のうちにナカガワカク、キンブチ。

小字五ノ角のうちにジョウデン、ナガジョウ、チョウレ

ンマイ、コゴモリ、ツッキリ。

小字柿角のうちにキタハチ、ジュウノカク、クノカク。

小字杉角のうちにシシゴロシ。

小字松角のうちにジョウタ。

小字天神角のうちにモウタイゴモリ、サルゴモリ、スエヨシ。

小字川良籠のうちにニノカク。

小字六角籠のうちにイチニカク、ニノカク、サンノカク、シノカク、ゴノカク、ロクノカク。

               

 

 

 

 

 

 7月7日土曜日。今日は「歩き・み・ふれる歴史学」の現地調査の日である。調査内容

は村の昔のこと、とくに田んなかのしこ名である。これを相方と二人で村の古老のかたに

聞くのだ。私たちが行くのは佐賀県鹿島市の小舟津である。教官が適当にふりわけてきまっただけの今まで聞いたことのない村だったが、帰るころには非常に親しみのある村になっていた。

 まず行ったことは教官から説明を聞き、地図をもらうことだった。マニュアルを読み教官の説明を聞いていると、調査は大変そうでどうしようかと思ったが、理解していくうちにだんだん調査に対する興味がわいてきた。また地図に関しても教官や助手の方により何とか入手することができ、何をすべきか理解することができた。

 次は現地の方、つまり私たちの場合は小舟津の方へのコンタクトである。マニュアルに書いてあった手紙の見本を部分修正して、学校のパソコンで印刷したものを調査日の10日前に発送した。つぎにすることは電話での確認である。私たちは先方のご都合のよしあしを手紙の返送ではなく電話にしたため、これが必要なのであった。6月25日、土日を避けたため少し遅れたが電話をかけた。お相手は武冨義介さん。調査当日に実際にお会いしてお話しをうかがったのだが、大変いいかたであった。いざ電話をかけ話しをしているとどうも話しが食い違う。おかしいと思って二度目だが武冨さんかどうかお聞きしたところ、なんと違い重ノ木の方だった。重ノ木は小舟津のとなり、どうやら電話番号を書き取り間違えたようである。事情を話すと親切にも武冨さんの電話番号を教えていただけた。お礼を言って電話を切る。出だしから失敗少し不安になるも気を取り直し再び電話をかけた。今回はまずしっかりとお相手を確認したところ武冨さんであり一安心。電話に出られたのは奥さんでお話しをうかがうところによると、公民館に3人ほどお年寄りの方を集めていただけるということであった。感謝とよろしくお願いしますと伝えた。

 地図の下準備だが、村の範囲、小字の範囲が入手した地図ではわからなかったので、大きめに色塗りをした。墓地もいまいちわからなかったので保留とした。手伝ってくれたKさんありがとう。すべての下準備はこれで終了である。

 そして当日、7月7日。天気予報どおりの雨。少し憂鬱になる。私たちはバス組みなので、学校へ集合。バス中は熟睡し、一回の休憩をはさんで目的地の鹿島駅へ到着。そこで驚いたことに雨は上がり、晴れ間さえ見える。調査の成功を感じた。鹿島駅で買ってきたコンビに弁当を食べ、歩き出した。駅の方に道を聞いたものの途中不安になったので交番にもより、湿気があり暑い中武冨さんのお宅に到着。比較的新しい一軒家できれいな感じである。おしらせしていたよりもはやくついてしまったので、恐縮しながらインターホンを押すと、奥さんがこころよく迎えてくれた。義介さんは出ていられるそうでさきに公民館まで案内してもらい待つことにした。みなさんがこられるまでに地図をひろげたりなど準備をする。

 しばらくすると一人一人とお越しになった。来てくださった方は全部で4名。        武冨義介さん、武冨平八郎さん、白浜三一さん、織田弘春さんである。みなさん私たちを見つけるなり笑顔になられてあいさつをしてくださった。そのようなあいさつもそ        うそうにわたしたちが広げていた地図を見始めてくださり早速聞き取りを開始した。中には自ら地図を持ってきてくださった方もいらっしゃって、大変役にたたさせていただいた。最初は私たち2人と武富さんたち4人で地図のほう(村の範囲やしこ名などのついて)を調査していたが、途中から二手に分かれ私と武冨義介さんと武冨平八郎さんと織田弘春さんが地図関係、古賀が白浜三一さんと昔の村のことについてお聞きすることにした。終わってみると時間的にもこれは大正解であった。よってレポートもこれまでの導入部分と地図と水利については私、清見太一が、それいこうは古賀直樹が担当している。

 地図調査であるが、まずお聞きしたことは小舟津の範囲である。私たちが予想していたよりは小さく、また飛び地があるのには驚いた。地図に関しての調査中3人の方々は非常に真剣に話し合っていただいたため、この地図製作は細部まで正確なものが描けたと確信している。次は小字の調査である。調べ切れなかったもの、それぞれの範囲を一つ一つ聞き取っていった。その中できづいたことは最後に角または籠がかならずつくのである。そのことをお三方にはなしてみると、角は良くわからないが籠は、埋め立て地、海辺、開拓者の名前、堤防、というような意味があるらしいのだ。実際小舟津と六角籠の間と六角籠付近は埋め立て地であるそうだ。感心しつつ田んなかのしこ名の調査へとうつった。調べられた総数は22個。思ったより少なかったがシシゴロシというしこ名を知っている方がいたり、知らない方がいたり、しこ名が一ノ角から六ノ角まであるから小字が六角籠なのであろうとか、興味深いことが聞けたので満足であった。

 次は水利慣行についてだが、土地の高さが小舟津の南が高く小舟津が低いので、南から小舟津のほうへひとつひとつ田をとおって水はながれて行ったそうだ。何か村の間でルールがあったか聞いたが、とくにないということだったので問題なくうまくいっていたようである。また長崎本線ができたとき、この水の流れをせき止める形になってしまい。大雨が降ったときは線路付近が水浸しになったそうで、それ以来線路の下には何本もパイプが通っているそうである。〔地図の線路上の線はこのパイプを表している〕そしてもし30年前に大干ばつがあったらどうであったか訪ねたところお手上げだといわれました。あわせて雨乞いも経験も聞きましたがないようである。

 私の担当はこれで最後でなのでここで今回の調査の感想をはさませていただくと、みなさん自分たちがすんでいる地域のことを良く知っているということである。地図上でここがだれだれの家だとか、今回の調査でお聞きしたことなど本当に良く知っておられた。長年いるからということだけでは済まされない、なにか「住んでいる」という感じを受けた。隣の家の人でさえ知らないようなところで生活している私にとっては、未知であり、うらやましいものであった。最後に4人の方へこの場をかりて感謝を述べたいと思う。なお残念ながら古道のことは聞けなかったので省略することをしるし、前述したとおりここからは私清見太一より古賀直樹へバトンを渡す。

 今日きてもらった最長年者ということで、主に白浜三一さん(80)にお話を伺った。まず小船津にある水田について伺うことにした。水田の中でも良田と悪田があると前もって講義で聞いていた私は、そのことをまず聞くことにした。小舟津地域には1等田(良田)から8等田まだ存在していたそうだ。一等田では最大8俵、9等田では多くても1俵しか取れないということだった。その原因を聞いてみると、一度洪水が起きてしまうと9等田では水田に海水が入り込んで塩分濃度が高くなりすぎて、稲がだめになるということだった。水田の中にムツゴロウがいたよと笑いながら話されていた。ちなみに1俵は60キログラムのことである。次に化学肥料のことを伺ってみると、昭和21年ごろ白浜さんは化学肥料は使っていなかったとおっしゃった。では、どうなさっていたのたずねてみると、使っていなっかたら7俵半(450キログラム)つかったら8俵(450キログラム)とおっしゃり「しきしま肥料」と、当時の肥料の会社の名前も覚えていられた。もっと差があると思っていただけに以外だった。

次に家畜について聞いてみた。牛や馬を飼ってらしたかどうか訪ねると、少しの間だけ悩まれたが、牛が大半であったと話された。当時68戸の農家があって、そのそれぞれ大体1頭ずつ飼ってあって、馬はいなかったなぁと記憶をたどっているようでした。しかし、しばらくしてもう一度聞いてみると、馬は農業に使ったのではなく、主として(昭和初期の話らしい)運送業に使っていたということだった。それでも「馬をかっとるとこは少なかったなぁ」と何度もおっしゃっていた。次に、飼ってあった牛の雌雄の割合を聞いてみた。すると即答で雌ばかりであったと返ってきた。理由を聞くと、「ぱぁ、そりゃあ雄は気性が荒かですもん」と答えられた。今考えると、牛は他所から買ってくるばかりで、繁殖をさせるということはなかったのかと疑問に思われて聞くことができなかったのが悔やまれる。そして馬の話に移って、馬の洗い場はありましたかとたずねると、小舟津には無くて洗うときには他所の村に連れて行って洗っていたとおっしゃった。逆に牛の洗い場はあったかというと無かったそうである。どおして馬にはそういう場所があったんですかねと尋ねると、なんでも馬は足を冷やしてあげたほうがよかったからだそうだ。競馬馬もプールに入れることをご存知で、そのことを具体例として上げられていた。その後、訂正するように牛のことを話してくださったことだが、洗い場は確かに無かったが、わら等を使って牛の体を洗っていたそうだ。馬はひずめの病気になりやすいということを講義で聞いていたので、やはり清潔、消毒のためなのだろうと思いながら聞いていた。

次に農家の主たる収穫物であった米についてきくことにした。当時から、収穫した米は自宅で玄米にまで加工し、それを農協に委託していたということだったが、それとは別に闇米が存在したのだそうだ。農協を通すと手数料等が取られ、手元に残るお金が少なくなってしまう。しかし、闇米においては、商人が直接農家に米を買い付けにくるので、大変魅力的なものだったのだそうだ。また、小舟津にも地主・小作人の関係があったのかを聞いてみた当然あったよといわれ、この地域には有力な地主が二人いてもはや2大地主制の様相であったそうだ。小作料は、当事で1俵半、現在は16000円の米俵を2俵納めなければいけないということだった。この日の帰り武富さんに駅まで送ってもらったのだが、その帰り道大地主さんの家の前を通り「ここが前の地主さんの家たい」とおっしゃった。その際、「ってことは、もう売却してあるんですか」と尋ねると、そうだといわれた。農業には今厳しいそうだ。次に「くず米」というものがあったのかどうが聞いてみた。それはあったそうだ。それらは自家製の味噌やしょうゆなどに利用して、もうごみくず同然でしかないような米は家畜、主にニワトリ等のえさにしていたそうだ。無駄のない暮らしである。自分の家で消費する米に特別な名前がついていたかどうか聞いてみた。はじめは悩んでらしたが、「保有米」という名前が出てきた。戦前は米に関して、食べられる量の制限はなかったといわれた。一人あたり年間90キログラム消費していたのが、今では45キログラムに減ったなぁと言われていた。飽食の時代といわれる今消費制限があったということに多少のジェネレーションギャップを感じた。

次に農作業のことについて聞くことにした。特に「ゆい(共同作業)」とよばれるようなものはなかったそうだ。ただ、共同作業という言葉に引っかかって白浜さんがおっしゃったのは、病中駆除のためのホリゾールという化学薬品の使用であった。これは3年間ほど共同作業としてはしたなぁとおっしゃっていた。あぜに大豆や小豆を植えることがありましたか、とたずねるとなかったとおっしゃった。山のほうにはあったそうだが、小舟津地区にはなかったそうである。その理由を尋ねると、白浜さんは笑って「そりゃ豆よりも米のほうがたっか(値段が高い)ですもん。」とおっしゃった。何でも作ればいいというものではないらしい。また、虫除けに何を使っていたかと聞いてみますと、虫追油(ムシオイアブラ)(油としての利用がほかにできない状態になったもの)を使っていたそうだ。講義ではこうした油をまいていたと聞いていたので、小舟津でもそうだったのかなぁと聞いていると、どうやらそうではないらしい。この地方ではたいまつ用としてその虫追油を使っていたというのだ。虫は本来、光に集まるという習性があるので、そこでたいまつを使って虫除けをしたらしいのだ。たいまつで、一通り水田をまわったあとそれを川に捨てていたのだそうだ。さらに共同作業のお返しについては、みながみなの水田を手伝っていたのだから、特にお礼というものは存在しなかったらしい。しかし共同作業のひとつ、田植えが終わった後、氏神様にお礼参りをすることはあったそうである。いまでは機械(トラクターなど)で田植えをしてしまうので、すぐ終わってしまうそうだ。次に農作業は楽しみなのか聞いてみた。白浜さんによると、農業というのはつらい、苦しいものでしかなく、「労あって益なし」という言葉を連呼していた。全然収入が上がらないため若者が村から出て行ってしまうとおっしゃっていた。戦前、68戸存在した農家も今では32戸と半分以下に激減し、中でも専業農家は2戸ほどしか残っていないなぁとおっしゃっていた。稲刈りの後、何をなさるのかという質問には麦を作っているとのことだった。1年で水田100%を使って米をさせると、翌年は36%を大豆など米以外の作物の栽培にあてなければいけないそうだ。農業での楽しみはと聞くと、すでに上で述べたようになしということだった。なんでもほかに選択できる職業がなかったという風に話してあった。「しょんなんしよったとばい。」とおっしゃっていた。では農業における苦痛をたずねてみると、それに関しては以下のように「特にいやというものはありませんでしたね。ただ全面的にいやでした。」とおっしゃっていた。いやだいやだとおっしゃっていたわりに、これといっていやな点をあげられなかったのは、意外であった。

次に薪はどうしてあったのか聞いてみた。小舟津は山から遠い位置にあるため、入り会い山などはないだろうと思った。話しを聞いてみるとやはり薪は使っていなかったそうだ。どうして「ほとんど」かというと。裕福な家では使っていたらしいのである。業者を通じてまきを購入したり、また、当時は山が安かったというのも手伝って私有の山を持って人もいたそうだ。では裕福でない人はどうしていたのだろうか。そこで薪の代用となっていたのが稲わらや麦わらであったそうだ。風呂を沸かすにも、飯を炊くにもわらが使われていたのだ。杉やヒノキはあったらしいが、そういった木は薪には使えないらしかった。また、草切り場〔白浜さんは小牧場と読んでいた〕は、存在しなかったそうだ。それ自体として運営させても採算が合わないとおっしゃっていた。でも、草は刈ってきていたとおっしゃっていた。その場所を尋ねると、なんと「線路」とおっしゃった。線路の中か、線路の脇かは聞きそびれたが、「危なかったんじゃないですか。」と聞くと、「ああ、柵ができてからはいかんやったよ。」といわれた。それはもっともだ。村に電気が来たのはいつからか聞くと大正9年前には通っていたそうだ。では、ガスはいつ村に来たのかたずねてみると、白浜さんと武冨さんがしばらくはなし合われたが、そういったことは奥さんのほうが詳しいだろうとのことで、電話で聞いて下さった。やはり昔は、女性が家事を切り盛りしていたんだろうなということを感じた。奥さんの話しによれば昭和30年後のことだということだった。よってそれ以前の暮らしの中で火をつかうには、前に述べたように麦わらや稲わらが主としてもちいられ、昭和50年ころには灯油と薪が用いられるようになったということだった。

次に昔の村の道をどんなものが運ばれてきていたのかを尋ねた。当然、昔は乗用車やトラックなどがはやっているわけではなく、多かったのは平秤と呼ばれていたもので、棒の両端にかごがついており、棒の中央を人が肩に担ぐという道具だったそうだ。ほかにリヤカー、リヤカ−の車輪が4つになった車力、牛車があったそうだ。それぞれ何を運んでいたかというと天秤では野菜、リヤカーと車力ではもみと野菜、牛車では米と麦といった食料を運ぶというのが多かったそうだ。また、それらからトラックに移るまでにもうひとつ乗物があってテイラーというものがあったそうだ。それはリヤカーの大き目のものにロータリーをつけたもので、トラックが流行するまで使われていたそうだ。

次に小舟津で行われていた祭りのことについて聞いてみた。戦前と戦後では数が異なるそうで戦前に行われた祭りは4つあって琴路寺祝、火神祭り、天神祭り、大潮祭り、があるそうだ。琴路寺祝は農村には必ずありそうな豊作祈願をしていたそうである。火神祭りは戦後おこなわれなくなってそうである。天神祭りは菅原道真を敬う目的で催されている。私が聞いて一番衝撃を受けたのが大潮祭りである。昔小舟津が大干害に襲われたとき、それを防ごうと村人たちが人身御供を神にささげたというのである。そのときに選ばれたのが「おしま」という女性だったというのである。この話しを聞いてかたまっ私に「伝説よ、伝説。」と笑いながらいわれた。次に昔の若者についてお話しをうかがった。子供ころの遊びはというと面子、かくれんぼ、陣取り合戦、騎馬戦などわれわれにもなじみの深いものをして遊んでらしたという。青年期は戦争にかり出されたが麻雀などの博打を知ったそうである。戦争からかえってこられてからは働いてばかりだったそうである。夜は仕事はせずに休んでいたそうである。また小舟津では俵に土を入れてそれを担いで競争したそうである。

 圃場整備と前とあとでは保有する水田の面積が大きく異なっている。整備前は平均7反だったものが、整備語では最大5町になったそうだ。これは農業に従事している人が少なくなったからだとおっしゃった。これは農業をやっていても収入があがらないので農協やか他人に委託してしまうと言うこであった。後継者がいないことを嘆いていられた。今の政策は補助金を出しているがその後のことは何も考えていないとも言われていた。

 以上、小舟津の現地調査を終えて、調べなければ一生かかわることがなかったであろう人、土地と出会えた。時の流れとともに風化してしまうであろう事をこうして書き止める事ができた。たいへん喜ばしく思っています。最後にお世話になった武冨義介さん、武冨平八郎さん、白浜三一さん、織田弘春さんに感謝し、このレポートを終了しようと思う。