鹿島市 七浦 嘉瀬浦

羽江 真也

森川 洋介

 

 私たちが担当した嘉瀬浦というところは、海と山に近く、陸地へ入るとすぐ近くにみかん畑や水田が山の中に広がっていた。バスを降りてすぐ、近くにコンビニエンスストアがあり、私たちが訪れる予定である栗田さん宅も、そのすぐ傍にあった。約束していた予定の時刻よりも早く着いたせいか、栗田さんは日曜にもかかわらず家にいらっしゃらなかった。

一時間ほどあたりの山や海を散歩した。ちょうど干潮の時刻で、見渡す限り遠浅の干潟が広がっていた。干潟の傍までいくと、たくさんのカニが歩き回っているのが見えた。そのあと、炎天下の中、山をのぼった。近くを流れる川の中にはめだかや大量のイモリがおり、普段私たちが目にすることのできない光景を目にすることができた。しばらくそうやって時間をつぶしてから再び栗田さん宅を訪れると、忙しくて時間が無いとおっしゃっていたが、快く迎え入れてくださった。栗田さんは、七浦の区長さんの一人で、年齢は50代前半ぐらいだった。先ずはじめに私たちは、嘉瀬浦の小字の中のしこ名について尋ねたが、栗田さんは「しこ名」という言葉はご存知無いようで、「それはなにか」と逆に問い返された。そこで、「しこ名というのは、小字の中の田んぼや土地につけられている、呼び名のようなもので、あざなとかあだなとかいうこともあります。正式につけられている名前ではなく、普段皆さんが日常の生活の中で使っていた呼び名を教えて欲しいのです。」と説明すると、すぐに何のことか理解された様子で、嘉瀬浦周辺のしこ名について説明を始めてくださった。

 始めに、嘉瀬浦周辺の小字の名前は、単純に壱本から始まり、二本、三本、四本…と続いていき、十五本までが栗田さんが担当されている地域である、ということを説明してくださった。資料として先生からいただいた小字表の中にあった「城角」「平原」という地名は、実は小字ではなく、それぞれ十五本と十四本の中のしこ名であるという事実がわかった。

 次に、それぞれの小字の中にあるしこ名についてお聞きしたいと言ったところ、私たちの持っていった地図では範囲が広すぎてよく分からないということで、わざわざ押入れから嘉瀬浦周辺のかなり大きな地図を出していただいて、ひとつひとつ場所を指し示しながら、この辺がムタ、この辺がハチリュウという具合に、一ヶ所ずつ丁寧に教えてくださった。しかし、十三本、十四本のあたりの地図がなく、正確なしこ名の位置を聞き取ることはできなかった。

 説明を受けながら驚いたのは、最初は、地名なんて大して覚えとらんよ、とおっしゃっていたが、地図を見ていると、地図の中には何も地名など書いていないのに、地形を眺めているだけで次々としこ名を思い出していっていることだった。さすが区長と言うか、自分の担当している地域のことはしっかりと頭の中に記憶されているようだった。ひとつひとつ、しこ名と、漢字がある場合は漢字と、しこ名に由来がある場合はその由来も教えてくださった。思い出すのに途中で詰まることもほとんどなく、30個近くのしこ名が開始からわずか数十分でスムーズに得られた。

 しこ名の多くは、由来などはなく、なぜそう呼ばれていたのかよくわからないものばかりだったが、ここで、得られたしこ名の中で、その名がついた由来を聞くことができたものを挙げていく。まず、小字「二本」の中の、「ホウジノヒアテ」(法寺の日当て)というのは、昔そのあたりに法寺というお寺があり、そのお寺の南側、つまり日のあたるほう、というのが由来らしい。読み方は、「ヒアテ」というよりも「ヒャーテ」という感じだった。次に、「三本」のなかの「タカミ」(高見)というのは、その土地が周りよりも少し高くなっていて、周辺が見渡せる場所、というのがその由来らしい。同じく「三本」のなかの「ムラナカ」というのは、栗田さんはご存知でなかったが、地図を見ると、「三本」は嘉瀬浦村の中心付近に位置しているので、そういったところから名づけられたのだと思う。だから漢字は(村中)とあてるのだろう。また、「ムカイ」()というのは、道をはさんで向かい側に位置するということから名づけられたらしい。次に、「四本」の中の「クラノサカ」(蔵の坂)というのは、昔、蔵が存在していた坂ということで名づけられたらしい。同じように、「クラノウエ」(蔵の上)というのも、同じ蔵のあった坂の上のほうに位置していたことから名づけられたそうだ。何の蔵だったのかは、お話をうかがうことはできなかった。同じく「四本」の中の「テラノマエ」(寺の前)というのは、文字通りお寺の真正面に位置していることから名づけられたらしい。

 はっきりと由来をうかがうことができたのは、以上であり、ほかのしこ名はほとんど漢字はあててあるが、由来はよくわからないようだった。

 しこ名の話が一段落したところで、「現地調査のためのマニュアル」にそって、それぞおれの項目についてお話をうかがった。

●水利について

畑や田んぼに引くための水は、川から水路を引いて利用しているようだ。嘉瀬浦は、隣の村より土地の高さが高いらしい。水源は、はっきりとはわからないということだった。水利について、隣の村とは特に決まりごとはなかったらしい。村の中で、やはり田んぼごとに引ける水の量には不公平があったらしいが、今は水路の補助整備をしたおかげで、差は少なくなっているようだ。嘉瀬浦には、堤(つつみ)と呼ばれるため池があり、そこからも水を引いていたらしい。その堤は、十五本の城角にあり、昭和47年10月から昭和49年3月まで、一年半もの歳月をかけて、総事業費2500万円の補強工事がなされたそうだ。

●1994年の大干ばつについて

「7年前の平成6年に大干ばつがあったそうですが…」と切り出すと、栗田さんは、「あ〜、あったあった。」と、はっきりとおぼえていらっしゃるようだった。栗田さんによると、周りの村はその干ばつの影響で相当な被害が出たようだが、嘉瀬村の田んぼは、ほとんど被害はなかったようだ。その理由はというと、先に述べた堤と、田植えと収穫の時期を工夫していたことによるらしい。普通は6月に田植えをし、9月に収穫するところを、嘉瀬浦では5月上旬から中旬にかけて田植えをし、7月下旬に収穫するということだった。こうやって田植えの時期を早めることによって、干ばつの年でも、水が必要な時期にまだ充分水があることになるのである。

◎昔の村の暮らしについて

●電気やガスがいつ来たかについて

電気は栗田さんがうまれた頃にはすでにあったらしく、いつ頃来たか詳しく聞くことはできなかった。ガスは戦後の昭和30年代に来たということだった。それらがくる以前の生活については、栗田さんはまだ幼かったので、よく覚えていらっしゃらないようすだった。

●米の保存について

 戦前(米を農協に出す前)、収穫して、自分の家族で食べる分(ハンマイと呼んでいたらしい)を除いた分は、隣の村に住んでいた大地主さんのところに納めていたらしい。米の個人販売はなかった。また、嘉瀬浦では、米のほかに裏作として、たまねぎと白菜を栽培しているらしい。

●村の動物について

 耕作用の牛が居たそうだ。栗田さんのお宅にも居たそうだ。牛はやはりおとなしい雌牛で、雄牛はばくろうに売っていたそうだ。嘉瀬浦には馬を飼っていた農家はなかった。嘉瀬浦ではほかにも豚ややぎ、にわとりを飼っていたらしい。

●まつりと行事について

 まつりは、村ごと、地区ごとで異なり、部落ごとで引き継いでいかれるらしい。まつりには、農耕的なもの、季節的なもの、宗教的なものに大別することができる。農耕的なまつりとして、「沖島(おしま)さん参り」のはなしを詳しくうかがうことがきた。このまつりのいわれについて、栗田さんのお話をまとめると、こうである。

 むかし、おしまという娘が老人と二人暮しをしていた。ある年、大干ば

つによる凶作をおそれて、多くの農民が困っていた。この様子を見て、おし

まは紙に雨乞いの願をかけようとして、身を有明海の投じた。その後まもな

くおしまは死体となって沖の島に流れ着いた。その後、おしまの願がかなえ

られて恵みの雨が降り、無事豊作となった。そこで、この島を「沖島(おしま

)さん」とよぶようになった。

 それから、毎年旧暦の6月19日、沖の島の神に参って海上安全と豊漁豊作を祈願するそうである。

 季節的なまつりには、むら祭り(秋祭り)というのがある。これはほとんどの部落で実施されているらしい。米の収穫が終わった十月ごろ、新しく刈り入れた穀物を神に供えて感謝するまつりである。このまつりは、農民にとってこの上ない喜びであったらしい。また、このまつりは、長い間作物をまもってくれた神様を送り出すまつりでもあるらしい。

●村の若者について

 「現地調査のためのマニュアル」に書いてあったとおり、村の若者は、毎晩公民館(倶楽部と呼んでいた)に寝泊りし、そこでお酒を飲んだり、規律を学んだりしていたそうだ。やはり先輩と後輩の上下関係は厳しかったらしい。村で行われる会合でも、茶くみや酒の準備は後輩がしなければいけなかった。よその村の者を村に入れないようにするなどの妨害は特に無く、自由にお酒を持ってきて飲んだりするなど、自由に交流していたようだ。そういう制約が無かったために、隣の村の異性と恋愛をすることもあった。女性がよその村に嫁ぐと、よそ者だからということでいじめられたりすることもあったらしい。遊びについては、力石に似たものがあった。それは、石ではなく大きな鐘をもちあげて力試しをするものであったらしい。

●村のこれからについて

 栗田さんは、村のこれからについて、できるだけ現状を維持していきたい、とおっしゃっていた。やはり、村の開発などにより、作付面積が年々減少しており、米の収穫量が減ることを心配しておられるようだった。稲の品種改良やよい肥料の使用などの工夫によって収穫量を維持しようと努力されているようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

今回、話をうかがった方について

栗田秋芳   昭和22年9月12日生 男

 

 

お忙しいなか、お話を聞かせていただき、どうもありがとうございました。心より感謝いたします。

 

 

 

 

今回の調査で得られたしこ名は以下のとおりである。

 

 

壱本    ムタ(牟田)

二本    ホウジノヒアテ(法寺の日当て)

三本    ハチリュウ(八竜)        タカミ(高見)

      ヨグママ            ムラナカ

      ムカイ()

四本    テンジン            クラノサカ(蔵の坂)

      クラノウエ(蔵の上)       オオヒラ

      テラノマエ(寺の前)

五本    タソコ(田底)          アサジル(朝尻)

      オオイデ            コダニ

      ミチエダ

六本    ヒガシノカワチ(東の川内)    オンツカ(御塚)

七本    シンナシオ(尻無尾)       ヤマノウチ(山の内)

      クスノキバタケ(楠畑)

八本    ササバヤシ(笹林)        コヒラバル(小平原)

九本    コヒラバル(小平原)       トイヤマ(鳥山)(取山)

      ツツミノシタ          ヒャータカ(灰高)

十本    ワカミチ(分道)         オシガト

十一本   スズメキ

十二本   イシボトケ(石仏)        オシガト

      エノ(江野)

十三本   ノナカ(野中)

十四本   ヒラバル(平原)

十五本   ジョウツノ(城角)