森山景子
三宅順子
福岡からバスに揺られること約2時間、ジャスト11時に
一通り店も見終わったところで今度は境内の方へ行くことにした。(本来ならこちらが先なのだが)先ほども見た石造りの鳥居をくぐると両側には大きなお稲荷さん(キツネ像)がりんと構えていた。少し進むと鯉の泳いでいる池があり、両側に有田焼の像が祭られた立派な門があった。そこをくぐると前方には平屋造りのお堂が建っていた。さらにふと上を見上げると、これまたなんとも美しく古都をおもわせる様なすばらしい本堂がそびえ立っているではないか。迷うことなく側らの階段をせっせと登った。初詣にはまだ早いがお参りをした。そばで売られていた“なんでもうまくいく守”という優れもの(!?)に少し心惹かれながら本堂を後にした。
神社は鳥居のほかも朱色はもちろん緑や青をはじめとしたカラフルな色できれいに装飾されており、色あせている風でもなく新しく見えた。あとから聞いたお話で、その印象は間違ってなかったことがわかった。祐徳神社は昭和23年に原因不明の火災に遭い、建物の多くが燃えてしまったという。漆塗りであるためにまたたく間に火が広がってしまったそうだ。そのためわざわざ京都から漆塗りの職人を呼んで新しく色付けもしたというわけだ。その職人技に私たちは釘付けだった。
そうこうするうちに時間が迫ってきたので、さっと昼食を済ませお宅に向かうことにした。表札が見当たらなかったのでここでいいのかと家の近くをうろうろしていると、中から今回お話を聞かせていただくことになっている井上務さんが出てきてくださった。「九州大学の者ですけど・・・。」と言うと、わかっていらっしゃった様子で「入りんしゃい。」と玄関へ案内してくださった。家の中に入るとなんともいえない懐かしい香り。通された和室にはストーブが2個もついていて、私たちのために部屋を暖めていてくださっていたということがすぐにわかって大変うれしかった。座布団の上に正座すると、割ぽう着に身を包んだやさしそうな奥さんが入ってこられてお茶とお菓子を出してくださった。井上さんはどこかに電話して戻ってこられ、「くわしか人のおんしゃあけん、まいっとき(もう少し)したら来んしゃあ。」とおっしゃった。なんと井上さんは、自分がしこ名を覚えている自信がないからと言って、事前に詳しい人に連絡をしてくださっていたのだ。ただでさえ急に無理を言っておじゃまさせていただいているのに、まさかここまでして頂いているとは!もう感謝感激雨嵐、本当に頭の下がる思いである。
お茶をすすりながら今回の訪問の主旨などを説明し、まずは手始めに昔の若者について尋ねてみることにした。言うまでもなくテレビゲームや公園はない。井上さんが幼いころは山しか遊ぶところがなかったそうだ。メジロなどの鳥を箱やわなを仕掛けて取ったりしたそうだ。この辺にはすずめはもちろんヒヨやカッチュウ、イシタタキ等の鳥がいるという。なるほど、来る途中でも福岡ではめったに見かけない鳥が飛んでいた。そのころはもちろん駄菓子屋なんてあるはずもない。おやつには木の実やきのこをとって食べたそうだ。それから10代後半になると地域の青年クラブというものに入り、今でいう公民館のようなところで夜は集まって話し合いなどをしたりしたそうだ。また、5,6月の忙しい時期になると、そこで一緒に食事や寝泊りもしたそうだ。食材はと言うと・・・近くの畑で調達(=泥棒)することもしばしばだったらしい。今ももちろん村の畑には白菜、たまねぎ、大根などなど、作物がたくさん植えられていて、私たちももらっていきたいと思ってしまった(笑)今はそれを実行してしまうとおまわりさんのお世話にならねばならぬが、昔は畑泥棒をしてもあまりとやかく言われなかったそうだ。また、青年クラブでは縦の関係が厳しく、先輩の言うことは絶対だったらしい。「もー先輩ば尊敬して、親の言うことより先輩の言うことさ聞くっていうふうやったもんねぇ」と、昔を思い出して語ってくださった。
そんな話をしばらくしていると、がらがらっとドアの開く音がした。「どもども、はじめまして。」とニコニコ笑顔で挨拶しながら入ってこられたのは、さっき井上さんが電話しておられた田代晴康さんだ。よっこらしょといった様子で井上さんの隣に腰を下ろされた。お二人ともお人柄の良さがにじみでていらっしゃる。
田代さんも加わって話を続けることにした。先ほど畑泥棒の話が出たが、にわとり泥棒や卵泥棒もあったらしい。お日待ちや神待ちの日は許されたということはなく、その日は農休日になったりみなで酒盛りをしたりしただけという。にわとりは麦や米をやって家の床下で飼っていたそうだ。だいたいどの家にもいたが、食べるのは正月などの祝い事のときだけだったので貴重なご馳走だったという。鶏肉が普段食である現在ではとても考えられない話だ。山側の村であるので魚は食べなかったのかと思うと、そうではなかった。各家庭の近くには池があり、そこの鯉を捕って食べたり、フナも昆布巻きなどにして食べたらしい。驚いたのは鯨を一番よく食べたということである。その日も冷凍鯨などを売っている店があったのだが、昔は鯨が魚の中で一番安かったと言うのだ。捕鯨が規制され鯨などめったに口にできない今ではこれまた考えられない話だ。逆に昔それだけたくさん捕っていたから今は制限されてしまったのだろう。それから、戦後まもなく食べ物がなかった時代に若者組などが犬を食べたという噂について尋ねると、犬は聞いたことないがヤギは食べたそうだ。家畜には農耕用の牛はもちろんヤギや馬もそう多くはないがいたらしい。
また、力試しの石があったかどうかについて尋ねると、それはなかったがわらを打つ専用の石はあったそうだ。田代さんのお宅では今も3尺もの大きな石をとっておいているらしい。昔はそれでよくワラ細工をしたそうだ。ワラジ(“あしなか”というらしい)はほぼ毎朝作っていたそうで、田代さんも小3ごろから自分で作っていたと言う。舗装道路ではなく砂利道だったので、ワラぞうりでは1,2日ですぐにだめになっていたのだ。学校では一年に何足かのワラジがクラスに支給され、足の不自由な人に優先的にあげたということであった。
若いころの話はひとまず置いといて、いよいよ本題に入ることにした。「この辺のしこ名を教えていただきたいのですが、」と地図を広げると、ふむふむといった様子で地名一つ一つを確認され、田代さんはポケットからしこ名をずらりと書いた小さなメモ紙を取り出された。ここでもまた感激である。 「そしたらね、」とお二人はしこ名の説明をはじめてくださった。「ここに井関があるもんね、ここを井場っていいよるもんね。」田代さんのお話では、今は“井場”と書くが昔の人は“射場”と書いたらしい。「それからこの辺を奥園、この辺を中園・・・」といった具合に続けて“天神林”“堂寺(ダイチ)”“平田(ヒランダ)”“ネコ渕”“門守(カダモリ)”“槿廟(キビュウ)”と一つ一つ地図で指し示しながら丁寧に説明して下さった。やはりその地域独特の読み方をするものも多くわかるものは漢字も教えていただいた。門守と謹廟とは隣接しており、謹廟を守るなにかがおかれていたのが門守なのではないかということであった。「そしてぇ、ここがリュウちゃんちじゃからここが・・・」とあだ名で呼んだりするのがほのぼのとしていていいなあと思った。しこ名はまだまだ続く。「まいっちょ(もうひとつ)“椿原(ツバキワラ)”っちゃある。」「そしてここがコウグチ、」他にも“コウラ”“宮の前(ミヤマエ)”“ウサギゾウ”“廣瀬”“十願寺”“弁財天”と次々教えてくださった。宮の前はその名のとおり、祐徳神社の前にある。このようにしこ名にはそれぞれ何らかの意味をもつものも多いようである。しこ名はあくまで通称であり、口頭で伝わるものであって文字にすることはめったにないので、呼び名はわかるが漢字はわからないこともよくあるようだ。「こんなもんじゃろ。」という言葉でしこ名聞きは無事終了した。はじめはいきなり訪ねていってちゃんと目的を果たせるのか不安だったが、井上さん、田代さんのご親切のおかげで今回の調査の山場も乗り切ることができ、ほっと一息である。
★しこ名の範囲は以下のようになる。
*小字上古枝・上古賀(中尾)のうちに_ツバキワラ、ヒランダ(平田)、コウラ
*小字中尾(上古枝)・中古賀のうちに_キビュウ(槿廟)、カダモリ(門守)
〈浜川をまたいで〉ネコブチ(猫渕?)
*古子(地区)のうちに_コウグチ
*小字上古枝・中古賀のうちに_ダイチ(堂寺)、テンジンビャーシ(天神林)、
ナカゾノ(中園)
*小字上古枝・下古賀のうちに_〈浜川東沿いに〉ナシノキグチ、
〈浜川西沿いに〉オクゾノ(奥園)
*小字上古枝(下古枝)・上古賀のうちに_ウサギゾウ、ミヤマエ(宮の前)
*小字上古枝(下古枝)・上古賀⇔上古枝・下古賀にかけて浜川西沿い付近_
ヒロセ(広瀬)
しこ名もたくさん聞けたところで、次は村の分割についてお尋ねすることにした。私たちが訪れた上古枝は、家数戸ごとに山の方から順に“上古賀、中古賀、下古賀”と分かれているらしい。さらにその下方には“廣瀬の上古賀、中古賀・・・”といったぐあいにまたO古賀が繰り返されているそうだ。そこで気になるのはこの古賀というまとまりがどういうときに用いられるかということだ。ひとつ例をあげると、10月15日、古枝の氏神である多良岳山の頂上で祭りがあるときに各古賀から代表で1,2人が山に登る。田代さんもその一人である。この祭りは収穫が終わるか終わらないかと言う時期に行われ、正式な祭典は山頂であるが、ふもとのほうでも催しがあるそうだ。これは一種の感謝祭らしく、「水は多良岳山の恵みじゃけん感謝の意味でね。」とおっしゃっていた。代表者は山頂でお札をもらってきて、その日は古賀ごとに集まって酒盛りをしたそうだ。
「水は山の恵み」ということで次は水利についてお聞きした。上古枝は周りを山に囲まれた農村集落である。そのため農業用水も山から引いているそうだ。井戸のように水をためておくものはなく、直接水田へ入れているらしい。近くに浜川という川も流れているがその水ではとても足りないそうだ。そこで昔、鍋島という人物が中心となって、古枝からずいぶん離れた赤岩という所に関を築きそこから水を引いてきたのだという。「鍋島さんがすばらしかことをしなさった。」お二人は遠い昔の大業の労をねぎらい、たたえていらっしゃるようであった。このように村人みなが感謝したのだろう。祐徳神社のすぐそばには鍋島家三代を祭る大きな石碑が建てられていた。
山あり川あり用水路ありということで、この辺は水源に恵まれているので水争いはなかったそうだ。94年の旱魃のときも川、用水路共に枯れることもなく、各家庭がちょっと減水する程度で乗り切れたらしい。お二人の話では、田んぼについては落とし水といって、上の方の田から順に水が入っていくという仕組みだった。この仕組みでは下のほうの田まで水がまわらない事もあり、旱魃してしまうこともよくあったそうだ。そういった場所による収穫の違いを是正するために、平成元年、この辺一帯は圃場整備がなされた。それ以来は個々の田の水口の開閉により各自水量の調節ができるようになり、田の水の量も平等になって旱魃も無くなったという。
このように上古枝地区では水の心配はほとんどないが、おとなりの鮒越というところでは旱魃があるらしい。段々畑が多く、みかんは雨降らずしては実が大きくならないので、雨乞いをすることもあるそうだ。独特の方法はないようだが、みなでお稲荷さんに行って神頼みをするという。その効果は?と尋ねると、少し困ったように笑いながら「2回目にお稲荷さんにお参りに行って帰ってきよったら降りだしたらしか。だけん雨が降りそうなときにお参りに行ったらよかとたい、わはは。」と笑い話が返ってきた。なるほど、と思ったのは私だけであろうか(笑)
水には恵まれている上古枝だが、逆に水害は多いらしい。特に近代は山の開拓が進み畑になっているので、山の保水力がなくなっている。また、みかん狩りなどのために山には舗装道路もでき、それが川と同じ原理を果たして水がふもとに流れやすくなったと言うのだ。なるほど、そういわれてみると、来る途中軽トラックが山頂まですいすい登っていくのが見えた。「水の落ちてくるのがはやかはやか。」田代さんは悩んでいらっしゃるようだった。平成3年、大型台風19号が上陸したときは田んぼこそ無事であったが、山の木はずいぶんと倒れてしまったそうだ。風除けの対策にはやはり防風林を利用している。
それからその他お百姓さんを悩ませるのは虫害である。戦後もいい農薬が出る前はイカメチュウなどによる被害がひどかったらしい。そのころは夜、たいまつに火をつけて田を廻ったという。???という顔を私たちがしていると、「火に虫がよってきてボッと燃えてしまうと。」と付け加えてくださった。また、田に油をまいたこともあるそうだ。油を水面に落とし、足で蹴り上げて稲にかける。すると水面に落ちた虫は油まみれで飛べなくなるし、稲にくっつこうとしてもつるつる滑ってしまうという仕組みだ。昔の人の知恵にはまったく感心させられるものだ。
村の耕地についてお尋ねすると、この辺は湿田は少なく乾田がおもで、前は裏作も盛んだったそうだ。先ほどの水が来にくい下方の田に加えて砂地も不作だったということであった。“井場”のあたりは少し土地が低くなっていて溝もありその上砂地だったので水が田に入りすぎたいへんだったらしい。麦は半分もできなかったそうだ。今もそういった不作・豊作のちがいがあるのかというと「今は化学肥料である程度ごまかしとうけんあんまりなかごたぁ(ないよう)ね。」という答えが返ってきた。化学肥料が入る前は、家の床下に穴を掘り、稲を刈った後の株を取ってきてそこに埋めておいて、麦を植えるときに使ったそうだ。もちろん下肥も使った。何せ莫大な広さの田畑である、家畜や家族の分だけでは間に合わない。家畜を多く飼えばいいのでは、と思うが、(OOを)出すには食わせばならぬ。そのえさやりだけで経済的にも肉体的にも大変なので、簡単に飼うことはできないのだ。そこでどうしたかというと、なんと
続いて共同作業について尋ねると、それは“結(ユイ)”というらしい。この辺では少しなまって“イイ”というそうだ。結は親戚間で行われ、作業をお互いの田でやることがそのままお礼となっていた(結返し)また、共同田植えも親戚でやるらしい。これは田を整地してからすぐに田植えしないと土がまた固くなってしまうからだそうだ。みんなでいっぺんにやってはやくおわらせようというわけである。朝薄暗いうちから日が暮れるまで丸半日作業をすることも多かったという。昭和35年ぐらいにテイラーという小さな耕運機が導入。昭和39年、東京オリンピックを機に機械化が一気に進む。脱穀機が入るまでは足で踏んでモミを取ったり、千歯こきを使った。たうえきは昭和47年ごろからあるそうだ。今はもちろんほとんどすべて機械で行うので共同田植えはない。「昔は手の入りよったとよ。」この言葉と、来る日も来る日も休まず農作業をしてきた証の刻まれている分厚い手に、改めて農業の厳しさとお百姓さんのたくましさを感じた。当時、田は当然牛で耕した。大仕事のあとは人間だけでなく、耕作用の牛にもささやかではあるがお礼をしたらしい。麦をゆでて膨らませたり芋を煮てあげたりしたそうだ。
稲や麦以外の作物についてお聞きすると、昔はほとんどどの家でも畦道に大豆や小豆を植えたらしい。それは主に自家用で売りに出すことはめったになかったそうだ。今は必要もなく、手間の割りに設けもないので栽培しなくなったそうである
それから今ではありえないような驚く話をお聞きした。なんと昔は農業が忙しい5,6月になると農叛休暇といって学校が休校になっていたらしい。農家の子供はもちろんだが、そうでない子供もその日は農家で手伝いをするのだ。「勉強はせんでよかったばってん遊ぶ暇はなかった。」と田代さんは昔を思い起こすように話してくださり、井上さんも横でうなづいていらっしゃった。勉強しなくていいなんてうらやましいと単純に思う人もいるかもしれないが、いろいろお話を聞かせていただいていると勉強のほうがよっぽど楽なのではないかと思った。
稲刈りが終わると今度は学校総出で落穂拾いをしたそうだ。今は飽食の時代で食べ物を粗末にしがちだが、食べ物に限らずそういった、物を大切にする心は忘れてはいけないと思う。その他にも子供は木の皮をはいでその繊維で服を作ったりもしたらしい。お話を聞いていて子供らしいなと思ったのは、稲刈りの後の田んぼで飛行機飛ばし大会をしていたということぐらいかもしれない。もちろん飛行機は手作りだが。
今度は村の生活に必要な土地についてお聞きしてみた。山が多いので入会山などはあるのかと尋ねたところ、少し離れたところに持っているそうだ。しかし薪はすぐそこの山からとってきているらしい。かまどを使っている家はほとんどないが、風呂は薪を使っている家も多いそうだ。石油と薪兼用の風呂もあるそうである。
上古枝は住宅に沿って続く二車線の道路を挟んで田畑、そしてそのすぐ隣には山が連なっている。山の斜面にも果樹が植わっているので雪の被害はどうなんだろうと思いお聞きしてみた。S43年頃に30_40cmの大雪があったそうだ。その際の農業への被害はどうだったかお尋ねすると、「田んぼにはなかばってん、みかんの木は割れた。枝が折れてぶっしゃげた」という。葉っぱに積もった雪の重みで枝が割れるという事自体、あまり雪の降らない土地で生まれ育った私たちには、予想だにしなかった。「ひどかったもんなぁ。」というため息まじりの言葉から、雪の威力と農家の方の苦労が伺える。
次に炭についてお尋ねした。売りもしたが、主に自家用に作っていたそうである。私たちの世代では、暖房器具といえばエアコンや灯油ストーブを用い、その燃料も購入するのが主流になってきたが、昔は自家製の炭を作って火鉢に当たったのだろう。全て「買う」のが当たり前の時代になってしまったことに、なんとなく寂しさを感じた。
続いて第二のメインであるお米に関していろいろとお聞きしていった。まずは米の流通について。農協に出す以前、米はどのような仕組みで出荷されていたのか、とお尋ねすると、まず収穫から出荷できる状態になるまでの過程を順に説明してくださった。「(今は)自分の家で収穫をして、そこに乾燥機ってのがあるの。もっと前はネブクロっていって『むしろ』ったいね、その上に天気のよか時に3日ぐらい乾して。もっと前はトウウスって丸い臼(で精米をしていた)」。お2人の働く世代からは精米機、その前は共同で手作業をしていた。臼を挽く手振りをしながら楽しそうに説明してくださる。
そして、そうやって乾した米はだれに渡してどうやって売っていたのかとお聞きすると、昔は米といえば統制品であって、自分の家に残ろうが残るまいが決められた俵数を出さねばならなかったそうである。またそれとは別に「ヤミ米」も生業のひとつであった。「余計作るけね、あの頃は統制品やったけね、安かったわけたいね、出すとが。しかしヤミ米っつて、裏に回る米は高かったったいね」。
こうしたヤミ米は戦時中も戦後もわりと遅くまであったそうである。統制品の頃、ヤミ屋さんは一つの商売だったそうだ。お二人は「う_ん、う_ん」とお互いに相槌を打ちながら当時を思い出しているようである。また井上さんはJR(国鉄)に勤めていたらしく、特に当時の運搬の様子について頭の中で振り返っているようだ。「ヤミ屋」や「ヤミ米」と聞くと戦時中の苦境を思いうかべる私だが、お2人は少し声ひそめつつ、こんな話も聞かせて下さる。
「(ヤミ米は統制品の値の)倍まではしよらんやったろばってん、わりとよか値段がしよったもんね。10俵が出さんないけんかったばってん、2俵ば自分のうちの余計売ってよかった…。よか時代やった、農家は(笑)」。需要も多く、ヤミ屋さんについて語る中で「よか商売ばしよんしゃったもんね」ともあった。
戦争直後ヤミ米を食べずに餓死した裁判官がひとりいた、という話がある。法外の法、農家の人々、商売をする人々、一般の人々の、生きることへの一生懸命なふんばりが、当時を生き抜くことを支えたということを、お2人の話を伺いながら心の中で痛感させられる。
続いて家族で食べるお米についてお尋ねする。特に独自の呼び名はないようだが「飯米(はんまい)」は今でも使うようだ。その保存方法について聞いたところ、
2人とも:(家の2階を指差して)「金網がずっと2階にはってあったちゃさ、そいで滑車で上げたり下ろしたりしよった。う_ん、(笑いながら)よか貯蔵庫たい、2階は!」
それでもやはりネズミに食われることはあったようだ。滑車での上げ下げとはなかなか便利でテクニカルである。井戸逆バージョンといったところか。
地主小作人の関係はどうであったか、絶対的な上下関係であったかとお聞きした。すると急に真面目な面持ちになり、「(きっぱりと)いや、そりゃもう知らん。(笑って)戦後は農地改革なったもんね。そいで途切れたさ。…片山内閣の時やろ」とおっしゃった。この地域では昭和23年農地改革後に地主・小作人関係は崩れ、その関係の名残はまったく残っていないようだ。2階の貯蔵庫の話から一転神妙な雰囲気になり、私たちは少したじろいだ。話を先に進める・・・。
次年度の作付けの種籾について、その保存法も2階に保存していたという。また籾倉(モミグラ)というものを家の近くの小屋の一角に作ったそうだ。田代さんの家は2坪ぐらいの籾倉だそうである。各家には住宅とは別に倉庫のようなスペースがわりと広くとってある。これは農機具を収納するためでもあるのだろう。
次に50年前の食べ物について、米・麦の割合はどうだったか、とお聞きした。50_60年前(戦中戦後)古枝でも白米を食べている家庭はわずかしかなかったそうだ。「(う_ん、と唸りながら考えつつ)麦、それから芋、そん時そん時のカボチャを混ぜたり、馬鈴薯のできる時は馬鈴薯を混ぜてみたり、そやけん、ん_ま_何年かはすごかったよぉ…(お互い相槌を打つ)」。またこの辺りでは稗はなかったが粟はあり、粟は餅をついて食べていた。「20年前後ってゆーと、あ_、ほんとにもう、だいぶきつい時期じゃなかったろうかにゃ」。当時の食糧事情の大変さと人々の工面の仕方には私たち世代が忘れがちになるお米の大切さを考えさせられた。
この時期の保存食、干し柿の作り方についてお尋ねする。たいていの家に柿木があり、渋柿を藁か何かに包んでなわす(しまう)ことでシラコ(白粉)が吹いたのでは、という。私たちは食べるばかりで実は何も知らない。柿の他の食べ方は、昔は「練り柿(ネーガーキ)」といって湯を入れて(今は焼酎)3日おいて食べる、など、柿はよく食べていたそうだ。栗はこの辺は山栗で、カチグリ(干した栗)はせず、保存食としては、袋に入れ土(砂)に埋めて保存したとのこと。土に埋める、に私は驚いてしまった。虫に食われはしまいかと不思議に思ったがどうやらその心配はないそうだ。だいたい秋分の日から正月頃までもったらしい。土の中はいい冷蔵庫なのだ。
次に野草・きのこについて。「あ_、きのこは採り行きよった。いっぱい採れよったけん」と2人とも懐かしむように語る。売ったりしたかとお尋ねしたところ、きのこは売りまではしなかったようだが、「商売にしよんしゃった人もおらんしんしょったば、マツタケば。他のきのこはね_、もうマツタケ採られちゃね、う_ん、これは極秘の極秘で…(笑)」。あのマツタケが採れる!?思わず私たちは「お_!」と反応してしまった。他にも、キタケ、カシノキサクラなど、私たちが普段耳にしない種類のキノコの名が挙がる。毒キノコとの見分け方は先輩から伝授されるそうである。先輩は先生でもあったのだ。
食べ物の話はこの辺にし、話変わって村の動物について話していただく。
牛は昔はほとんどの家庭で家畜として飼っていたが馬は珍しかった。田代さんのお宅では馬が徴用で戦争に取られたそうである。この部落の農家50件中40件は各1匹ずつ、主に雌牛を飼い、農作業に使っていたという。12月頃に田植えまでの半年間の成長を勘定して子牛を買い、小さいうちは水のいらない麦作に、牛が大きく成長した頃翌年の5,6月に、水が入るため、より力を必要とする田植えに使用していたそうだ。次いで博労(バクリュウ)さんの話へ。「そいで(半年経つと)今度は子供産ます牛になるもんね、・・・子供産ますことなるちゅうぶんにさ、バクロさんちゅうてね(笑いながら)・・・その人たちも商売たいね、こう何匹でん自分のとこに置いとーけさ、どげんじゃろうか、って来よんしゃったもんね。もう子供ば産ませてよかごとなったとば買いんしゃわけたいね」
「いくらか小さかとば持って来て、小さか(牛)ばヒックビっちゅうもんね、そいを持って来てこいとこいの差額ばいくらじゃやって、もろうて、出すわけたいね」
自分の家のヒックビ(子牛)と博労さんの成長した牛との差額を支払い、交換した。こうしたことは毎年もしくは1年おきに行われていたという。
「そいでその雌に子供を産ませて、子供の産ます家もおんしゃったと。雌は高かった。雄は、(少し笑いながら)ん_その場で殺した。う_ん、あんま使いもんにならんもん。」農業経営の中で、田んぼを多く持つ人は大きい牛を飼い、自分の家のその牛に子を産ませたりもしたが、田の規模の小さい人は小さい牛を買って1年間使い、その小さい牛の代わりに大きい牛を博労から買い、田を耕すのに使った。牛は働けなくなる前に博労に出した。
博労は口がうまい人が多かったというのは本当か、という質問をすると、2人とも笑いながら、「そりゃもう口八丁手八丁で、…はっはははは!う_ん、もう口八丁手八丁やったよ!」。よほど口がうまかったのだろう。実際どんなふうにやり取りしていたのだろうか、フーテンの寅さんの商売語りを一瞬イメージしてしまうのは私だけか。
次に動物の洗い場について。馬捨て場は知らないそうだが馬洗い場はあったそうである。川の一部にあり、どの家庭も仕事がさばけたり(終わったり)するとそこに連れてきて洗った。そうやって一日の労をねぎらったのだろうか。蒸し暑い夏も夕方洗いに来た。また、浜川の流れるこの付近では牛洗い場もあったそうである。今はもうない。
村の道についてお聞きする。道については特別にどれがどうといったことはないようだ。また、魚は肩に担いでイッカメゴ(一荷め子?)という人が肩に担いで海の近くから運んできたそうである。塩はたいていの家庭では戦前戦後は海水を汲みに行って自宅で作っていた。やはり塩は高く貴重品だったろう。
そして話はいよいよ興味津々のまつりと行事へ。冒頭に述べたようにここ古枝には日本三大稲荷の一つの祐徳稲荷神社がある。神社内の予告行事の看板には住吉神社と似通う神事がいくつか記されてあった。春は収穫を願うための、秋はその実りに感謝するための大祭であろう。特に12月に行われる「お火たき祭」はビッグイベントのようだ。「1年間のお守りさんなんかそこに燃やしてね、それ(火)にあたって、その炭ば持って帰ってまたおこして火にあたれば病気なんかせんちゅうてね」。古くから親から子へ子から孫へと受け継がれるおまつり。それは決して同じことの繰り返しなどではなく、一年一年新たにされてゆくものなのだと思う。
お聞きしたぶんの行事を以下に示すと、
10/15 多良岳山のお祭り
11/11 大山祇(オオヤマヅミ)神社の祭
12/8 祐徳神社・お火たき祭
12/23 火の神様・八天神社のお祭(22日前夜祭)
正月の賑わいついて伺うと、「(うんうんと頷きながら)初詣やね。県内では最高やなかろうか。うん。いや_、多かね。長崎が多かね、福岡も多いよ。商売繁盛の神さんやけね、まぁ、海の漁業関係とかね、長崎あたりはね」とおっしゃった。また私たちが発見した「縁結びの神」の立て札や「なんでもかなえるお守り」のことをお話しすると、そんなんもあったけなぁ、といった感じで「(笑)ん_、なんでもやね。学問だけはしんしゃらんごとね」とおっしゃった。それにしてもここの神さまは太っ腹だなぁ、とひそかに思った。
山祇神社など、昔は村総出でやったが今は一古賀一人ずつ区長さんを中心に行われているそうである。職業事情の変化で、昔のように自然と人が集まってくる、というわけにはいかないのだろう。
そして村の発達についての話へと移る。長崎のJRの通ったのが(昭和)7年、村に電気が来たのは昭和の始め、5年頃だそうである。JRの工事や開通のことを2人でたどりながら話してくださる。お2人しみじみと「よか時に生まれたなぁ」とつぶやく。電気のなかったのは2人よりもう二代ほど前の世代。電気が来た時の変化についてお尋ねすると、「ばあちゃんたちから聞きよったことはね、(電気以前は)ランプやったけん、火屋(ホヤ)ちゅうて、夕方は全部掃除しよったけんね、火屋掃除っちゅうて、夕方油ばたくけんね、・・・そいで今度は怒られて、はっははは!」「(電気は)黒くならんけんねぇ」。電気のない時代、毎日火屋掃除をしなければならなかったそうだ。
プロパンガスについてもお聞きすると、井上さんの奥さん・サカエさんも含めて3人で考えつつ、「そら覚えとらんざぁい」。3人の論議の末どうやら終戦後はまだなく、サカエさんがお嫁に来てからであるということ、また昭和40何年頃ではないかということはわかった。お風呂はガスの代わりに薪で炊き、五右衛門風呂も遅くまであったそうだ。かまども昭和40年以後も結構遅くまで使われていた。一時期「改良かまど」なるものも流行ったそうである。現在ではかまどの残る家はほとんどないという。
最初に少しお聞きしていたままになっていた昔の若者についての話に戻る。よその村の若者との行き来・交流、また妨害や自警団などはあったかとお尋ねすると、「…選挙の時はしよった。あはっはははは!!!」(一同笑)「だいたいここの選挙っちゅうたら地域根性ば出してね、自分の村から出すちゅうことなったらね」。村をかけての選挙、燃えるのだろう。自分たちの手で変えてゆくんだ、と村の情熱が感じられる。
次に昔の若者の恋愛について、村を挟んでの恋愛はどうだったかお尋ねすると、特にこだわったことは聞いたことがないそうだ。この辺りでは部落差別などの制約はなかったようである。お二人の親の代(私たちの祖父祖母の代)では、恋愛結婚はあまりなく、親の言いなりで、いい名づけとの結婚が多かったそうだ。顔も知らずに結婚することもあったとか。「戦争に行ったんとしゃったに、嫁ば持たすけん帰って来い、っつてちょろっと帰ってきて、すぐ行きよんしゃった。ははは!そいじゃけ、親同士は(顔・相手を)知ってとか仲人(ナカウド)さんの知ってとかでね、仲人さんが、あそこよか娘ばおっけんあいば持っていっちょけ、っつてね。(一同笑)はははは!・・・仲人さんつーと今の博労と同じことさ。(笑って)」。17_18歳で恋愛感情を持つ前に嫁ぎ、男も女も選択の余地はなかった。また家系を重んじ貧富の差による結婚(このくらいの家にはこのくらいの相手、といったふうに)があったようだ。いい(ゆい)の中での結婚もあった。昔はもう私たちの年頃(19,20)といえば嫁いで家業を手伝い子供を育てていたのだ。今の私たちに同じことができるだろうか。
そして失礼ながらヨバイについてもお聞きした。ヨバイはあったが、(その人の婿になると)決めた相手のところにヨバイに行っていたそうである。全く知らない相手に、ということはなかったようだ。
調査もほぼ終了し、お二人に村のこれからについて、村の姿の変わり方、どうなったと思うか、これからどうなるかなど、お話を伺うことにした。「私の世代ではもう農業は全部やめっとやけね、次の10年後、・・・どぎゃんなっかなぁって、それが1番心配じゃ思いますね」。
この辺りはこれまでずっと農業の部落であってきたが、今、世代交代を迎えている。昔と今とで田んぼの数は減少しているわけではないが、後継者がいない。お二人の世代までは専業農家が成り立っていたが、現在専業でやっていこうという人はこの部落では見当たらない。兼業がほとんどで会社勤めしつつ土日に農作業をする、という形態が多いという。また看護婦など土日に勤務のある職業もあり、人それぞれ休日が違い職種の多様化が進んでいることで、農業だけでなく、これまでのひとつの共同体としての「集落・部落」の形態も変わりつつあるようだ。過疎化が進み部落ではお年寄りの一人暮らしが増えている。時代の変化とともに部落内の人の集会力は弱まりつつあるが、祭りの時は今もなるべく人が集まって行うようにしているという。「祭りの時はじいちゃんばあちゃん、父ちゃん、それから子供が3人4人、もうここに入れんくらい、(思い出すように、そして笑いながら)もう楽しみやった、小さい時は」。(お互い相槌を打ちながら)「集落としての形態がだいぶ変わるじゃろうね。ひとつの方向にはいかんじゃろうね、もう」。「ひとつの方向に集落がいくのは難しか。人間がひとつにならんごた、そんな感じでね」。
現在古枝小学校は1学年1クラス、全校生徒230人弱。続いて2人の小学校の頃の思い出を楽しそうに話してくださる。けんか、先生の話、休み時間の遊び、などなど…。布のボールと山の木のバット、布製の手袋風グローブ、すべて自分たちの手作りの道具で玉蹴りや野球をしたそうだ。2人の目が輝いていて表情がすごく素敵だった。
村おこし町おこしや観光として何か進めている事業があるか、それはどんなことか、お尋ねすると、「七浦ってとこにガタリンピックばしよんしゃっと、あれが今一番大きか、
上古枝の風景
最初の祐徳神社の参道を散策した時、夏祭りの出店で売られているような懐かしいアニメキャラクターのお面の他に、独特の木彫りのお面、「浮立(フリュウ)」が見られる。またどの店にもみかん、お茶、饅頭、柚子胡椒、が並び、独特の雰囲気を醸し出している。初詣期にはたくさんの人で賑やかになるのだろう。しかしこの日は人も少なく、ゴミゴミした都会で生活している私たちには時間の流れがゆったりと感じられ、落ち着いた空気が心地よかった。少しノスタルジックな、まるでタイムスリップしたような感じを与える空間。しかしそこには人間が生きていく中で抱えざるをえない問題や課題、楽しさ苦しさ、過去・現在・未来が、幻想的にでは決してなくリアルに実感をもって存在していた。
田代さんは私たちのためにしこ名を下調べして下さっていた。またである井上さん夫婦は、忙しい仕事の時期に時間を割いて下さっていた。急なお願いにも関わらずとても暖かく迎えていただき、そして私たちのぶしつけな質問にも付き合ってくださり、心から感謝しています。ありがとうございました。
★調査者
森山景子
三宅順子
★ご協力くださった地元の方
井上務さん(1937年生まれ)・サカエさん(1940年生まれ)
田代晴康さん(1937年生まれ)