波賀 威至
林 紀江
西 滋
12月23日、日曜日他の二チームとともに大木庭でバスを降りる。次第に天気が回復してきたこともあり、思ったほどは寒さが厳しくありませんでした。下車地点から目的地に向け歩き始め、ひと山越えました。聞き取り用の地図を見ながら村に入り、住宅地図ですぐに訪問先の橋村竹次さん宅を発見しました。迷うことなく訪ねることが出来ました。
約束の時間に橋村さん宅を伺い、緊張して呼び鈴を鳴らしました。すると奥さんが出てこられ、「九州大学のものですが…」と名のると、「今日だったかねぇ。」と奥さんはおっしゃられ、冷や汗が出そうになりました。どうやら旦那さんは外出中のようでした。奥さんは外に出られて、畑にいる旦那さんに大声で呼びかけました。100メートル程先から、ねぎを持ったおじさん登場。その方が、橋村竹次さんでした。ご夫婦ともとても親切で、事前に電話したときにも感じましたが、手際良く迎え入れてくれました。橋村さんはこの辺り中山間地域の地図を見せて説明してくださいました。この辺りは20年ほど前から圃場整理が始まったとのことでした。
早速本題に入りあざなについて尋ねました。ところがあざなは無く、小字で田圃を呼んでいるとのお答えでした。質問の仕方を変えて、「家族の中で使う田圃の呼び名は無いのですか?」といった質問をしてみましたが、特にそういった呼び名は無いとのことでした。ひとつひとつ小字を書き込んだ地図を一緒に見ながら確認していきましたが、「古場」を「ふりぐち」と読むそうで,読み方の難しさを感じました。また、村の中や村の道で特に名前のついたところも無いとのことでした。
地名についての質問を終えて、次は水利の質問をしました。干ばつについて伺ったところ、この辺りは山がたっぷりの水を蓄えていて、さらに貯水池があるので水に困ったことはないとのことでした。
また、昔の農業についても伺いました。昔の肥料は堆肥と鶏糞を使っていたそうです。圃場整理の前は道路が狭く、田圃も小さかったので機械が入れなかったため、牛を使って耕していたそうです。家畜は牛と鶏だったそうです。田圃のあぜには大豆をずらっと植えていたそうです。また、焼畑は昔からしていないそうです。
結いについては、親戚の間で手伝いに行ったとのことでした。親戚間なので、特にお礼をするということはなかったそうです。
昔は草切り場があったそうですが、今は杉やヒノキの林になっているそうです。
最後に昔の暮らしについて伺いました。電気は橋村さんがものごころついた頃には、通っていたそうです。(橋村さんは、はっきりとおっしゃいませんでしたが、終戦の時に小学校4年生だったそうなので、昭和10年ぐらいのお生まれだと思います)また、昔は井戸を利用していたそうです。まきでご飯を炊き、お風呂を沸かしていたそうです。川でハエという小魚がとれ、それを食べていたそうです。また海産物や練り製品、お菓子などを行商が売りに来ていたそうです。天秤を担いでくる人もいれば、リヤカーで来る人もいたそうです。テレビは一家に一台のものではなく、テレビのある家に行って見ていたそうです。東京オリンピックの頃には一家に一台カラーテレビがあったそうです。テレビがなかった頃には夜暗くなってから、みんなで(子供も一緒に)集まって話し合いをしたりして過ごしたそうです。正月にはモクロウチ,ハネウチ(はねつき)をして遊んだそうです。
途中からクリスマスの準備をしていた奥さんも来られて、奥さんからもお話を伺いました。浅浦村は甚八がさを作っており、農業以外の収入になっているそうです。第二次世界大戦前、ゲンカさんというお坊さんが耕地が少ないために収入が少なかった村の人たちに作ることを勧めたものだそうで、村の女の人達が小さい頃から作っているとのことです。奥さんは
今年、この一帯は減反政策のためお米を作れなっかたそうで、代わりに大豆を作ったそうです。伺ったときには小麦を植えていて、田が薄く緑に色づいていました。やりくりが大変そうだなぁと感じました。現在は農業だけではやっていけないため、どこのお宅も兼業農家だということでした。
お話を伺い終えて、お礼を言って橋村さん宅を後にしました。お土産のみかん、おいしくいただきました。ありがとうございました。
ちょうど帰り道ということもあって、この辺りの地主さんである山下さん宅を訪れました。庭の手入れをなさっているおばさんとおばあさんにあざなのことを伺ったところ、わからないとのお返事でした。そこで、あざなはないと結論づけて、調査を終了しました。