大迫 美代子
組坂 史
私達は、
まずは何はともあれ、第一の目的であるしこ名を尋ねなければならない。早速地図を広げ、田のしこ名から聞き始めた。田のしこ名は、人名に基づいているものが多かった。「他に谷や山などの独自の呼び名はありませんか?」と尋ねると、木原さんは「あー、何やったかなぁ。」と思いだしながら一つずつ地図を指差し、にこやかに説明して下さった。「ここは、ビシャゴンスと言っとるよ。」と谷のしこ名をおっしゃったが、一瞬訳がわからず「えっ、ビッ、ビシャ…?」と、とまどう私達に木原さんはおかしそうに、「何かねぇー、ビシャゴンスって鳴く鳥が巣を作ったらしいからね。」と由来を説明して下さった。また、実際地図に載っている名前とは異なり、村の人々の間で呼ばれている山の名前も聞くことができた。「他にもちょっとした呼び名でもいいのでありませんか?」と尋ねると思い出し思い出し集落の名前を教えてくださった。「タカバシ」という呼び名は竹の橋がかかっていたからだろうということだったが、他のものについての由来ははっきりしないらしい。これらの他に畑に「アラキ」という呼び名がついていたが、それはかつて養蚕が盛んだった頃、桑の木栽培のために山を荒く開墾したことからそう呼ばれているようだ。それから周囲の果樹園はみかん園で、特別にしこ名のようなものはなく持ち主の名前で呼ばれているということも教えて下さった。最後に、七浦は13地区を含み「七」というのは数を表すのではなく、多いということを表していると教えて下さった。七曲地区は私達が思っていたよりずっと広く、約4kmほどで七曲堤から昔も海岸線付近の「シンナシオ」と呼ばれる地域までを言うそうだ。シンナシオというのは七曲の端であるために「尻」から由来しているのか、「潮」から由来しているのかははっきりしていないらしい。
しこ名を大方聞き終え、次はいろいろな質問に答えていただいた。圃場整備について尋ねてみると、2年前から計画があり進行しつつあるがまだ実施はされていないそうだ。木原さんは「(圃場整備がされていないので)隣の田に機械を移動させるのが一番怖い。」とおしゃっていた。また、田が離れていて一つのところにまとまっていないことにも苦労を強いられているそうだ。昔ながらの景観が失われるのは残念であるが、実際に働く人の立場にたって考えると圃場整備の必要性が感じられた。田植えなどの共同作業は、昭和43年頃まで行われており「今日は○○家、明日は△△家」という具合に順番に行っていたらしい。他の共同作業としては、昭和45年位までかやぶき屋根をみんなでふきかえることもしていた。今はないが、あぜには昭和35年の機械導入まで小豆を植えていたそうだ。また、この土地の田は純湿田が多いため裏作がほとんどできず水田を手放す人も少なくはなかった。
肥料については、化学肥料が使われるようになる前は「ガタゲバ」という海の泥を天日干しして砕いて牛馬の堆肥と混ぜたものや、フジツボを砕いて乾燥させたもの、人糞を大甕に溜めて畑の隅において熟成させたものを使用していたそうだ。雑草の処理にはクヌギなどあくの強い植物を山から取ってきて土に埋め、根を枯れさせる方法があったそうだ。害虫駆除としては、田に灯油を流して稲を竹ぼうきでゆすって虫をその中に落としたり、牛乳を点滴のように垂らして虫をおびきよせて駆除したり、「木巣(モス)」という、炭を焼くとき煙突の上にかさをかぶせ、たまった水滴を精製したものを使用していた。
七曲付近の田の等級は、12等田や14等田が多く、乙田に分類されていたそうだ。田の分類の仕方は、甲・乙・丙・丁・茂(コウ・オツ・ヘイ・テイ・ボ)となっていたが正確ではなく、税金対策に金持ちは自分の田を実際より低い分類の田にするということが見うけられたらしい。また、地主と小作人の関係については、小作人は地主に収穫の約半分を出していたそうだ。
村の田の水の確保は日当川(ヒアタリガワ)が水源であり、その水を七曲堤に溜めて利用している。また、七曲堤から約1km下流の所をコンクリートでせき止めて第一水路と呼んでいるようだ。かつて、水路は土でできており第一、第二水路があった。水路は古道に沿ってあった。水を引いてくるにあたっての取り決めとして、水路が完工して56町の水利権を保有することになったということだ。古道について尋ねると木原さんは「今はなくなってしまったもんね。図面にっとらんけんねぇー。」とおっしゃいながらも丁寧に古道を考え考えなぞって下さった。結構細かい曲がりまで現在は使われていないのに、覚えていらっしゃることに驚いた。 木原さんの話によると、家族で食べる飯米はハンミャーとか保有米とか自家米と呼んでいるそうだ。質の悪い米は、味噌にしたり昔は共同で醤油も作っていたようだ。この地域は湿田が多く裏作が不可能であり、麦はあまり作っていなかったらしい。木原さんは「だいたい麦を800とすると米は1500ぐらいやもんね。」とおっしゃっていた。米と麦の比率は悪い人で半々、良い人で7:3ぐらいだったらしい。雑穀として粟は作っていたらしいが、黍や稗は作っていなかったらしい。また、水田が盛んで、畑はあまりなかった。土地が酸性の土壌だったことも原因であるそうだ。サツマイモは育てていたらしく、米と一緒に炊いて食べていたそうで、「すかんもんとすきなもんがおっけんさ、サツマイモのご飯は良く混ぜてねぇー、均等にしていたもんね。」となつかしそうに説明してくださった。
村の祭りについて伺うとすぐに若者宿(ワッカモンヤド)について話してくださり、若者宿が祭りを組織していたことを教えてくださった。若者宿とは18歳から25歳くらいの未婚の人たちが夜を過ごす場所で、そこでは料理などについて教えられていたそうだ。また、村の「縦の教え」も村のお年寄りから伝えられていたらしい。若者は、お茶くみをしたり雑用などをしたりと年功序列の仕組みがあった。祭りとしては、4月の農繁期に入る前に4,5日間まったく仕事をせずに遊んでいて良い「春なすくみ」というものが27年程前まであり、海に漁などに出て魚などを多く食べて体にエネルギーを蓄えることが目的であった。また昭和初期までは、8月24,25日ころに「せんとろう」と呼ばれる行事があり、奉納相撲が行われていたそうだ。他に「10月せんとろう(1日)」、「2月せんとろう(2日間)」と呼ばれるものがあり、それは各戸の戸主がそれぞれ集まり米や金を持ち寄り、飲食を行うものであったそうだ。しかし、今ではそれも行われていないということであった。伝統ある祭りが現在ではなくなってしまったということはとても残念なことだなぁと感じた。
雨乞いのことについても伺った。「何か雨乞いのようなものは行っていなかったのですか?」と尋ねると昔の伝説を話してくださった。「太良岳参をしとったよー。おしまさんには参れんかったけんねぇー。」私達は聞きなれない言葉に首を傾けた。「おしまさん」とは、おしまさんという孫とそのおじいさんが昔雨乞いのために海に身を投じ、死体が流れ着いた島を祭ったものだそうだ.「ほら、あそこに島があるでしょう。」と窓から指差して教えてくださった。しかし、飯田の人が参ると海があれて、嵐がくるという理由で3年程前まで参りにいくことはできなかったらしい。「お祭りに行くようになったのは、ここ3年やけんねぇー。」とにこやかに教えてくださった。飯田の人がその島でふんどしを洗ったのが原因と言われているが、本当であったかは疑わしく、戦争での金属収集のために、村に太鼓や鐘などの祭器がなかったことがどうやら原因ではないかと話してくださった。
山地の方だったので海のものはどうしていたのか尋ねると、買出しに行ったり実際、網をもって漁にも出かけたらしい。海の村の人よりもよくこの村の人は漁に出かけていたということを聞き、少し驚いた。また、昭和50年ごろまで「かつぎ屋」という人々が乾物や佃煮を売りに来ていたそうだ。店や鍛冶屋をしている非農家の人に、薪を売りに行き、帰りに佃煮や乾物、塩などを買って帰るということもあった。「うちのばあちゃんは、多い日に1日3往復していたもんねぇー。」とおっしゃっていた。
現金収入は、主に山での作業によって得られ、坑木切りや和紙の原料作り、ひも作り、炭焼きなどがあったそうだ。坑木は鉱山の坑道を崩れないように支える支柱である。和紙の原料となる楮や三椏は、特別に栽培されたものではなく、自然に生えていたそうで女性が皮はぎまでして、嬉野の方にその原料を渡していたそうだ。入り会い山についても尋ねると、現在でも入り会い山はあり、その範囲はとても広く、そこで県や公団に委託され主にヒノキと杉の植林が行われている。また、林業が盛んで、稲刈り後は林業をいとなんでいたらしい。それから、つばき油のような整髪料のカチャシ油というものも作っていたそうだ。カチャシとはツバキよりもひとまわり小さく、白い花をつける植物である。その粕は石鹸としても利用していたそうだ。
木原さんは質問の間にも、何度も窓の外を指差しながら「ほらあそこに・・・。」と立ち上がって実際の場所も教えてくださった。スムーズに話も進み、私達は驚いたり笑ったりして、楽しく質問を続けることができた。牛や馬を飼っていたのかということを伺うと「牛は2頭で馬がほとんどやったもんね。」とおっしゃり、その理由を尋ねると「馬の方が力が強いでしょう。牛は暴れて危険やけんねぇー。」と説明してくださった。馬捨て場のようなものは主に墓地だったが、他にも現在、税金のかからない土地が少しあるので、そこに捨てていたのではないか、ということだった。
この村に電気がきたのは、昭和29年で、「その前はどうやって生活していたのですか
?」と尋ねると「ランプよ、ランプ。」と勢いよく、すぐさま答えてくださった。かまどや風呂は、まきを使っていたそうで自分の山から取ることになっていたらしい。私達のような若者は夜何をして過ごしていたのかも尋ねてみた。「夜なべ、夜なべ。」とおっしゃりその内容を教えてくださった。わらや竹で入れ物を作る「かがい」というものや、炭俵作り、なわないなど行っていたそうだ。
そろそろ質問も終わりに近づき、村の移り変わりやこれからの村の姿について最後に伺った。村は大きく変わったらしく、人々の付き合いが昔と比べて疎遠になったそうだ。車の利用と共同作業がなくなったことや金銭的、精神的余裕がないことも原因の1つらしい。「近隣との付き合いが昔と比べて疎遠になってきたっちゅうかな、利己中が多くなったっちゅうかなぁ。昔は老人が人の面倒をみたり、世話をしたりしていたけど、今は自分が損をしないようにする時代になってきたもんねぇ。」と少しさびしそうにおっしゃっていた。また。農業の喜びと苦労を尋ねると「苦労は価格の低迷。米の価格も2割ほどさがっとるけんね。」とおっしゃった。楽しみは、できが悪くても良くても収穫の喜びがあること、育てているみかんの価格が日本一になったりすることであり、それがまた励みとなっているそうだ。また、木原さんはビニルハウスでカサブランカやユリ、チューリップなどの花の栽培も行っており「一本でも色を見らんで出荷できたときは、ものすごく喜ぶわけよね。」と、うれしそうにおっしゃり、喜びがあるから農業はなかなかやめられないということを教えて下さった。しかし問題も多く、この村も後継者不足に悩んでいて「まずもって第一はね、後継者の確保ね。」と深刻さを語って下さった。実際、一番若い後継者でも50代であり、専業農家はたったの3軒しかなく、他の農家はかつての「3ちゃん農業」の形態にもどりつつあるそうだ。土地を他の農家に委託して、農業を辞めてしまう人も多くなってきているらしい。また、米と同じく花も、定価は半分以下にまで落ちてきているらしい。
質問を終え、私達はお礼を言いつつ外に出た。その後、外の景色を見ながら山の名前や海のこと、植物などについても話して下さった。木原さんは事前にわざわざ「
私達は初め「しこ名って本当にあるのかな?」と半信半疑であったが、今回の調査を通じておもしろい名前のしこ名を目にすることができ、驚くと共に興味を持つことができた。みかん園には小さな実がたくさん成っており、また山の方から下へなだらかに続く棚田には青々と稲が茂っている、という普段見ることのできない美しい景色も見ることができた。遠くには海も見ることができ、山と海がとても隣接していることに少し不思議な感じがした。調査するにあたって初めは、不安や緊張もあったが、なかなかすることのできないいい経験ができたと思う。
協力して下さった木原さんにこの場を借りてお礼を述べさせていただきます。本当にいろいろとありがとうございました。
そして、小字「七曲」のうちのしこ名は次のようになる。
田・・・イワイジ(岩一地)、ヨシベエ(芳兵衛)、オノジ(小野地)、クマンカクラ
畑・・・アラキ
山・・・オオギヤマ(扇山)、ユリノヤマ(百合の山)
集落・・・タブノ、タカバシ、サシヨセ、コゴウチ(小川内)、ダゴロシ、シンナシオ
道・・・シイノキザカ(椎木坂)
橋・・・ユリノオオハシ(百合の大橋)
谷・・・ビシャゴンス
土地・・・ヒノキヤマ(ヒノキ山)、ノ(野)
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「野」とは、木が茂らないことに由来する。
調査に伺った方:木原 正實さん(昭和23年 3月24日生まれ)