佐賀県鹿島市大字中村字本町調査結果についての報告書

                          片岡大輔

                                         廣瀬さやか

 

1、調査範囲 北鹿島大字中村内

 

2、調査日時 平成13年12月23日(日)

 

3、情報提供者 本町区長田中初穂さんの紹介による松尾逸馬さん(大正12年生まれ)、現地で直接お訪ねした山口謙吾さん(昭和8年生まれ)

 

4、収集した地名  字本町のうちに:鍵町(カギマチ)、本町(ホンマチ)、袋町(フクロマチ)

魚町(ウオマチ)、上(カミ)、下(シモ)

 

5、行動記録 

日曜日はよく晴れた。昼過ぎ、小さな公園の前でお手紙でお願いした田中さんとおちあう。一応の自己紹介のあと、田中さんがお願いしておいて下さったという松尾さんのお宅へ連れて行ってもらった。

松尾逸馬さんは大正12年生まれとのこと。「お年寄り」というイメージはあるがこざっぱりとして紳士的な印象を受けた。しかし田中さんとの会話はまるで異国語……早口の佐賀言葉が聞き取れない。田中さんは用があるとかで慌しく帰っていってしまった。

いくらかの世間話のあと、本題に入る。かつて行われた土地改良(区画整備)の際に使われた地図に、小字名と境界とを書き込んで用意して下さっていた。地元の人間ではない、市役所の後輩に頼んで調べさせたので、あまり役に立たないかもと仰る。

取り敢えず小字を持参の地図に書き写させて頂き、お話を伺おうとするが、「十八のときに満州に渡って、帰ってきたのは終戦のあと」だとのこと。従って、「区画整理後の地名しか知らない」と……しまった。いきなり袋小路だ。焦りを感じつつ切り込んでみる……。国土調査の際に作られたという地名一覧の資料も見せてくださったが、既に小字図で確認した地名ばかり。公的に残された資料であり、しかも図字されていないため今回の調査にはあまり役立たないと判断する。しまった。これはまずい。

しかしここで諦めても何にもならない。伺えるだけ伺っていこうということになる。区画整備に携わった方だけあって、水路の状況については詳しく話して下さった。

「こっちはね、蓮の池藩だからこっちに水路をね、この井出村というところね、蓮の池藩が、鹿島藩からね、ここ大水ばかりくるもんだから、あの、旭ヶ丘っていう桜の名所があるが、あっこのなかのね、あの、今の鹿島高校のところに、城を移したんね」

 語尾が上がり気味に伸びる佐賀言葉。話がいったりきたりするが、鹿島藩はお隣の蓮の池藩から水を引いており、その水路を開くために蓮の池藩から井出村という地区を鹿島藩の一部と交換してもらったらしい。

「水を取るためにね、蓮の池藩とこれとここを代えたんですよ。ここは蓮の池藩だったからね、でこれが、ずーっとこう武雄からきてるね、道路で。

ここの水路を掘って水持ってくるためにね、大字井出というここをね、ここは鹿島藩じゃない、鹿島藩はこっからこっち、常広やろ、ね?

ああ、古城、ここに城があった。そう、学校のところ。でね、こう山だから、大水がね、来よったったい。そいで結局、ここにね、この道路の上に、城ん中にきってあったっもんだから、堤防がね、で、これはね、結局、城がつからんようにここに堰とめたったい、ここです、そいで、しかしあんまり水浸しになるから、この高校のところに上がったんね」

 古城という地名はかつて鹿島藩の城があったが、大水が来る度に水浸しになるため、現在の鹿島高校の辺に城を移したという話。

「それからがね、結局、そういうふうな反省になったもんだから、結局、鹿島の城をこっちに移したから、ここはもう古城という名前になったんよ」

古城、という地名にダイレクトに結びつく話で面白い。

その後、クリュウ(久龍)、ジョウゲン(浄源)、フナガワラ(船河原)、サンシュウ(山枡)など地名の読み方を教わる。ここで、小字図に載っていた「水深」という字について訊ねてみるが、聞いたこともないとのお返事。仕方なく大字の区切りの確認などしつつ話を進めてみる。

「あの、古い地名をよくご存知の方は……」

しつこく切り出してみるが、昔のことを知っている人は病院の中かお空の上かどっちかだと仰る。ああ。

松尾さんは終戦後暫く有明海の開発に携わっていたということで、「むつごろうの話は出来るばってん」こっちの話は駄目だとのこと。

終戦後の生活について尋ねてみると、さらりと「シベリアまで行ってきたよぉ」。ってそれ結構凄い話ですよ。が大して発展もせずに話は堂々巡りに……。

では、と、旱魃の話を訊いてみる。「そこまでではなかったよぉ」とのお言葉。

「そういうような水不足を解消せんがためにね、こういうようなことずっとね、やってきよったんよ」

 なるほど。備えあったんで憂いなかったと。

「ここの旱魃、降ったら降ったで大水、で難儀して土壌整備始めた」

西から引いている水を上流で使い、余った水を川に捨ててしまい、東へ東へと行くにつれて水不足になる。なら捨てずに次へ送れば、という考えのもと土地改良が始まり、ずっとそれに携わっているという。

 では、旱魃ではなくて大水は?

「24年の年、あの大水はねーぇ、そこの庇まで水漬かったよぉ。鉄道線路ね、あの鉄道線路まではね、いっぱいになったぁ」

鉄道のガード下に水路をくぐらせるのは技術的に難しかったらしく、線路の向こうまで続く水路は三箇所くらいしかないので、線路から西側は水が溜まってしまうのだそうだ。

 水利の話は聞けたものの、このままでは通称地名の収集という目的が果たせない。松尾さんが祐徳院というお寺(民俗資料館があるらしい)調べてはどうかと薦めて下さったが、日曜は係員がいないため必要な資料を見つけ出すのは難しいだろうとのこと。明日あさってに来られるわけでもないのでどうしようもない。

「私じゃ、もう、昭和の半ば過ぎのことー、しか、分からない人間だから」

 それでも地名の読み方と正確な範囲が分かったのだから有難いです。

「いや、あんたたちからこっちが勉強させてもろうて、ありがとうて言いたがった」

恐縮です。こちらこそ、ありがとうございました。

名残惜しさを感じつつも松尾さんのお宅を辞去し、第一段階は終了した。

 

 さて、第二段階に進むためにはとにかく誰か話を聞かせてくれる人を見つけなくてはならない。窓口の田中さんはお留守だし、自力で何とかするしかない。すれ違う人を捕まえては「この辺りに古くから住んでいて、昔の地名に詳しい人」を知らないかと尋ねてみる。「すまないけど心当たりがない」「私は古くから住んでるわけじゃないから」……何人かに当たって見事砕けたあと、田中さんのお宅の近所ですれ違った小柄なおばあさんが、「そこの山口さんが、昔学校の先生やってたから詳しいと思う」と教えてくれる。 やった! 心の中で歓声。しかし、突然伺って果たして大丈夫なんだろうか?

 玉砕覚悟で教えられた家をお訪ねすると、快く承諾して下さった。やった! 再び無言の歓声。さっぱりした造りの門をくぐり、図々しくお邪魔する。

山口謙吾さんは昭和8年生まれとのこと。もっとずっと若く見える。おっとりした丁寧な口調と落ち着いた態度が、確かに教育に携わる人間の雰囲気である。

 事情と目的を説明し、もう時間が残り少ない旨を伝えて、早速地図を広げた。

「これね、これが鹿島川ね、で、これが横沢橋、これが鹿島橋。こっちがわ、鉄道、長崎本線が通ってますよね。で、私のところが、横沢橋と鹿島橋のちょうど中間。ここにまああなた方が入ってこられて」

ここの毘沙門天のとこですよね?

「ああ、天満宮です」

天満宮。はい。いきなり間違えました。反省。

「こっちから五軒目、こっちからも五軒目、ちょうど真ん中の、私の家がこの辺りなんね。えー、ちょうどこれ書いてあります、鹿島市、あ、ああこれ鹿島の、魚市場か、」

と、地図を指で辿る。横澤橋と鹿島橋の間にある小さな通りと示して、

「ずっと以前魚市場ありましたけどね、もうなくなって。で、この通りを、ウオマチと言ってたんです」

魚の町、ですか?

「そう、ここにね、お魚をとる、有明海でお魚をとる、漁船がね、何艘も以前は着いてて、船着場になってたんです。

 そしてここに、大きな魚市場があって、で、この通りを魚町と言ったのね」

暫く必死でメモを取る。

「そして、同じ魚町でも、この川にぶち当たった分だけここちょうど袋の状態になってますよね、だもんでこの辺りを袋町(フクロマチ)と言ってた。

で、これですよね? 袋町、で、魚町の中の袋町」

魚町の通りが鹿島川にぶつかり、川に沿って曲がりながら横澤橋につながっているところだ。独立して袋町なんではなく、魚町の中の、なんですね?

「ええ、そして以前からこっちへこう通ってた道路、これが今の県道で、嬉野・武雄方面へ続く道ですが、こっからカギの形になって、この通りに出てきたもんだから、この辺り一角をカギマチ」

横澤橋につながる通りが本町付近で西側に曲がるその付近を指差す。確かに鉤の形に見えるかも知れない。カギって、こう書く……? と、「鉤」の字を宙に書いてみるが、

「カギはこの、金偏に、鍵ですよね、建築の建」

違った。聞いておいて良かった。あの「鍵」ですか。

「ええ、鍵町。今はもうこんなの残ってません、鍵町なんて、普通の、この辺りの人も知らないでしょう。私が一番この通りでは古いんですよ」

 いや、大分お若く見えるんですけど……。

「古くからこの町に住んでる人というのは、私以外に何軒かありますが、ま、今のようなこと知ってるんだったら私が一番知ってるんでしょうね、はい」

ありがたや、と手を合わせる。本当に助かりました。

「で、これは、この辺鍵町ですよね、で」

この辺も魚町に入るんですか? 鍵町と袋町の間を指差す。

「ええ、入ります、この辺ね、で、こっちを、こっちを本町(ホンマチ)と言うんですよ、この通りをね」

この通りって、横澤橋に通じるこれですか?

「ええ、ええ、大体この全部を本町と言ってて、で、特にこの辺りを魚町と。以前は魚の問屋なんかあってみたり、魚市場があったり、船着場があったりしたもんだからね」

通り周辺の家の集まり。ここんところが本町って言うんですね。

「そうです、大字とか小字とかそういうような形でも調べていくんであれば、北のほう、鹿島市の中の北鹿島ね、で、北鹿島には、大字森がひとつ、大字中村がひとつ、で、大字中村がここまでこう入るんです。えーっと、鹿島橋のこの袂までね」

 大字中村の範囲を教えて頂く。松尾さんの家で伺ったものと大体同じだが、井出と常広との境がよりはっきりした。南北に走る長崎本線のすぐ西側、比較的大きな通りが区切りになるらしい。

「で大字が、常広、井出村、森、中村と、こう四つあるんですね、大字ってのがね」

 そう言えば松尾さんも「井出村」と仰っていた。地図上では「井出」だが、昔はここがひとつの村だったんだろうか?

地図に書き込みながら、本町の区切りについても訊いてみる。

「本町の区切りはね、えーっとね、毘沙門天あったでしょう? 毘沙門天宮、これかな?で、これがこうあって、本町はね、毘沙門の、ここを小さな川が流れてるんですけど、こっからこっちが本町なんです、ここまでね、これが本町」

 本町と呼ばれる通りのすぐ西側、小さな用水路で区切られているらしい。その東側は本町に入るということのようだ。

では、中村の区切りは? 確認する。

「中村の区切りはね、ちょうどこの三叉路があるでしょう?この三叉路の付け根からこっちへずーっと、これが川になってるのね、ところがね、川よりこっちまで入ってんですよ本町が」

 魚町と呼ばれる通りと鹿島橋につながるとおりの間、南北に流れる細い川がある。この川と鹿島橋に挟まれた一帯も本町に入るということらしい。

「で、ここにこう、大体の線を引っ張っていらっしゃるでしょう、赤い線をね? 大体これくらいだと考えていいんですよ。つまり、こっからこっちが本町、こっからこっちがわは常広」

 鹿島橋の通りから東側は大字常広の範囲だそうだ。ここで、地図に書き込んでいた「裏町」という文字を指して、

「この、裏町ってのはどこで聞かれたの?」

と仰るので、小字図に載っていたことを話し、折角話題が及んだので気になる「温泉」という地名について訊ねてみる。松尾さんのお宅で教えて見せてもらった地図には載っていなかった。毘沙門と久龍の境目くらいにあるようなのだが……

「あ、温泉、これは字温泉ってね、大字中村、字温泉。こっちが大字中村字本町、で、こっちが温泉ですね」

温泉というからにはやはり温泉が湧いたんでしょうか?

「以前ね、この川を渡ってこの橋の辺りですけど、この橋渡って鹿島新町の方にね、四つ角があるでしょう? この辺りにね、鉱泉があります」

横澤橋を過ぎて最初、鹿島川より南側で一番初めの四つ角のところである。

「金偏に広いという字で鉱泉ですね。鉱泉の温泉がね、……温泉て言うのかな、温度が低いんですが、まあそういうふうに鉱泉が出とったから、ここにも出とったのかなと思いますけども……何もなかったら温泉なんていう名前付くわけがありませんからねえ」

 口振りからすると、はっきりここに「温泉」が湧いているわけではないらしい。が、北鹿島にはどうやら地下水脈があるようだ。

「裏町というのはねぇ……聞いたことがない。これいつ頃の地図なのかな」

それがどうもよく分からないんです。地図を見ると、まだ国道が開通していないようなんですが……。

「そうね、ここはもとはね、お城があったんですよ。鹿島藩の、二万五千石のね」

そう言えば松尾さんもこの話をしてくれた。お城の話は結構メジャーらしい。

「こっちがさっき言った乙丸。乙丸ってね、城の二の丸のこと」

なるほど、乙丸だの土井丸だの、なにマルという地名が多いのは城の名残か! はっと気付いて一人合点。

「そしてね、えー、北鹿島の、古城ってあるでしょ? ここがもともとお城になってて、だからこの一角を古城、ですよね。ここはたびたび洪水が発生してて、よくね、この城……まあ砦に毛の生えたようなものだったんでしょう、浸水にみまわれるもんだから、こっちの、今の鹿島高校ってありますよね、ここだ、旭ヶ丘公園の近く。ここが鹿島実業高校、ここが鹿島高校、この鹿島高校のところに城を移したんです」

と、ここで奥様がお茶を持ってきて下さった。ありがたく頂く。

「そいから、こっちが土井丸ってありますよね、それもやっぱりその、お城にゆかりのある地名だろうと思いますよ。大体昔の、鹿島の方言でドイのことをデェって言うんですよね、デェのところの本丸で、デェマルって言ってたんでしょう」

 城にまつわる話が一応終わって、本町の話に戻る。

「本町と呼ばれる範囲はね、この通りから、鍵町の、もっとこっちまで入るんですよ。ここにね、川があるんです、川のところにドウケイバシってのが掛かってましてね、今も橋残ってます、栗山薬局のすぐこっち側」

鍵町と呼ばれる範囲の北側、本町の西を流れるあの用水路につながる流れだが、ここより南側が本町になるらしい。横澤橋につながる通りがこの用水路を横切る橋のことのようだ。どういう字を書くのか尋ねてみる。

「字はね、えーっと、こんな地名使わなくなってから久しいからなぁ……」

栗山薬局ってさっき通ってきたね、なんて言いながら字を教えて頂く。「道に慶応大の慶」で道慶橋、普通はドウケンバシという発音で呼んでいたそうだ。

本町という区域は川で囲まれてるみたいだ、と感想を述べると、

「そうですね、以前はやはり掘割できめてたんでしょうね」

とのお言葉。本町の西側に当たるお寺を指して、

「これが願行寺です、で、願行寺の前にやっぱり川があります」

 本町と呼ばれる通りの西側を流れる用水路のことだ。

「で、川からこっち側が中村……大字中村の中村、こっちが大字中村の本町、大字中村の……キュウリュウ?」

 久龍はご存じないらしい。どこで訊いてきたのかと仰るので、松尾さんに頂いた土地改良の際の地図をご覧に入れると、こんな地名は聞いたことがない、とのこと。どなたに教えて頂いたんですかとの問いに松尾さんのお名前を出すと、しきりに感心しておられる様子。

「私が知ってるのは、殿橋(トノハシ)、五の宮、貝橋(カイノハシ)……キャーノハシと言いますけどね、それくらいで……ジョウゲンねえ、サカイ、サンシュウ、クリュウ……こんなの知りませんよ」

 どんな由来があるのかその方にお尋ねしてみたいですねぇ、と仰るが、松尾さんも整備される以前の地名はご存じなかったことを伝える。

「あー、これより以前は多分ね、ここに長崎本線があってこれが鹿島橋、これが横澤橋、そしてここんところに多分……横と書いて造る、横造城(ヨコゾウジョウ)という、まあこれも砦みたいなもんだったんでしょうけど、以前あの、龍造寺隆信……鍋島のね、鍋島のもうひとつ前の殿さん、龍造寺隆信。これと、大村藩ね、大村との戦争がこの辺ではあって、で、とったりうばったりでお互いにやっててね、そのときの城で横造城ってのがあって、それが訛って横澤になったんじゃないかって話ですけどね」

 なるほど、筋は通っている。確かにそう訛りそうだ。

「で、今もこの一角にお寺さんがあるんですが……願行寺じゃなくて、ここにもうひとつあるんです……コウトクジ。コウトクジは幸いに徳、モラルの徳ですね、それで幸徳寺、そこの苗字が横澤っていうんですよね」

 城に何かの縁があったのだろうか?

「横澤橋のふもとに横造城ってのがあって、で、大村方とスコに……スコってご存知ですか? 白石町の奥の方にね、須らく古いと書いて須古という地名がありますが、そこにあの龍造寺隆信の陣地があって、で大村方と、ここに、南の方に大村方ってのありますもんね? ここが大村藩の最前線だったようです。で、この最前線の大村方と、それから、須古からやってきた龍造寺方との合戦がこの辺で繰り広げられていたんですよ。で、ここに砦があったんですね、以前は。で、結局大村方が負けて、この辺一体が龍造寺隆信の配下になって、そのあと鍋島が継いで、で、鍋島の中の鹿島藩と」

 話は地図の上に戻って、

「そうね、これは私も知ってます。毘沙門、豊橋、それから五の宮、貝橋ね。ここはなんですか、フネガワラ?」

船河原はフナガワラという読みで教わりましたが。

「ふーん、で、ジョウバルですか?」

浄源……これはジョウゲンと。

「ジョウゲン……あ、さんずいがついてるの? これは?」

サンシュウ。山の枡と書いて、で、これはクリュウだそうです。

「で、中村、毘沙門……と」

こちらでも謎の「水深」について尋ねてみるがご存じない。地図ごとに地名や区切りが違うので、どの地図が一番古いのか・どの地図が一番新しいのか、という話に。

「こっちは新しいでしょう、こんなんがついてるんですから」

こんなん、って、この衛生処理場ですか?

「ええ、こんなんがついてるってことは、昔のじゃないですよ、こっちのが古いです。ほら、乙丸住宅なんてのがはいってますもんね、こっちのが最近のですよ」

この地図は随分古いのかと思ってたんですが……。

「いや、比較的新しいですよ、昔はこの通りなかったんですもんね、207号線が」

結局、区画整備が何年だったかという話になる。松尾さんに頂いた資料を見てみるがどうもよく分からない……。

「区画整備ですか、昭和……64年が平成元年だから、58年くらい、多分、58年か59年」

とのこと。割と最近の出来事なことに驚く。松尾さんはそれまでずっと有明海にいたんだろうか?

この時点で、収集した地名はまだ四つ。ノルマには程遠い。他に細かい地名を知っていたら教えてくれ、と縋る。どんなんでもいいから!と、こんな感じのです!と、去年の調査結果らしきものを見せて訊ねてみる。

「あー、そう、本町もやっぱり以前は、この船着場があって……私から言ってひいじいさんがね、ここまでね、天草から陶土を運んでここまで……あの、ここ、塩田川の百貫(ヒャッカン)、こうずーっとのぼって」

鹿島橋からの通りをずっと北へと辿っていくと、塩田川に百貫橋というのがかかっている。この辺のことのようだ。

「ずっとこっち側、この塩田ってありますが、この塩田まで塩田川遡ってずーっとこう売り歩いてみたり、ここまで持ってきてみたりして、陶土はこっから馬車で、水車を動かす塩田の町までね、或いは五町田(ゴチョウダ)とか、吉田とか、ああいったところへその、焼き物の生地を作るための陶土……その陶土を水車で砕いて売っていたんですが、そういったものをね、ここまで運んできていたんです、船着場のところまで」

 鹿島橋の辺までは、潮の満ち干が大きいために案外大きな船でも入ってこられたそうだ。その後、百貫まで陸路で荷を運び、再び塩田川という水路を遡って、塩田の辺りまで運ぶ。そしてそこからはまた陸路で各地へ、という寸法らしい。

「で、漁船もありましたけど、そのほかにこういう天草の陶土だとか、熊本で生産してた西瓜だとかね、そんなものを船で……今はもう車ですけど。で、この船着場がここだから、そういうあの船の方々に売買する米とか油とか、それからマキ……焚き木ですね、そんなのを私の曽祖父が商いしとったそうですよ。でそういったようなところから、なんかこの辺りが町の中心みたいな感じになってて、鹿島橋とここの間、ここが中心で、そいで同じこの鍵町の付近をシモといっておったんですよ、上下の下で」

袋町付近が商売の中心ということか。ということは、袋町がカミ?

「そうですね、袋町に対して鍵町を下。今も現にこの辺で道を聞いたら『ああ、もっと下のほうですよ』とかね、そういうふうに使います」

話題に出たので焚き木の調達について聞いてみる。田は近くにあるけれど、山からとってくるものはどうしてたんですか?

「直ぐ上のほうに五町田……塩田町の五町田というのがありますけど、或いは???のほうのアサオカとか、山直ぐそばでしょう? そういうところとか、あとこのタンドコロ……谷の所と書いてタンドコロと読みますが、普通は……鳥越(トリゴエ)、それからこっちは下浅浦(シモアサウラ)、大木庭(オオコバ)。すぐあの、雑木林がたくさんあったんですけどね、こっちから馬車で持ってくるわけですよ。それから油もね……油か、そういやどこから持ってきたんだろ……この塩田という町が、この塩田橋がね、案外潮の満ち干が激しいもんだから、かなり大きい船が通ってたんですよ。だからここが物資の集積地、いや集散地って言うのかな? そうなってて、で、この辺りから油もまたこっちへ持ってくる」

そう言えばここって塩田川って言いますけど、もしかすると塩もこのルートを通ってきたんでしょうかね?

「そうでしょう。いまはずっと堰をきってね、えーと、今は実際に潮が満ちてくるのは塩田橋の一本手前の、この辺りまで潮が満ち干してますよ。しかしもうこの辺りにも堰を切って、こっちはもう淡水ね、塩水は出入り出来ません」

あ、塩水が入ってくるから塩田川なんですね。

「そうでしょうね、この鹿島川も……そう、この辺りも潮の満ち干に関係あるんですよ。こちらの、鹿島のこっちの方は……ここの川は中川と言いますけども」

福岡の那珂川とは違う字ですよね?

「中川は鉄道線路よりもちょっと下、ここぐらいまでしか潮は来ません」

長崎本線が川を横切るより少し下流の辺りを示す。

「この辺りから上は淡水です。で鹿島川の方はどこまでも潮の満ち干があって」

 何となく会話が途切れる。あとは訊けるだけ質問をしていこうと決める。

早速、ずっとここに住んでいたのかを訊いてみる。もともとは本町の二番地の生まれだったとのこと。祖父が船を作って海運業をやっていたため、船着場の近くに家を構えたらしい。

この辺は昔からずっと住宅地だったんですか? 田んぼはこっち側で? と訊いてみると、

「そうですね、どちらかというとこっちよりもね、下のほう……有明海に近いほう、こっちのほうが穀倉地帯です。こっちもあの、まあまあいいですけど」

と長崎本線の西側を指差し、

「こっちよりこっちのほうが、質のいいお米が生産されてます、今も。って言うとこっちの人に悪いけど……水はこっちから流れてくるんですよ。この塩田川のね、上流を締め切って、水利権ていうの? それはずっと以前からこっちのひとたちと話し合いをして、で塩田川からこれくらいの幅の川を……三本くらい大きな川が流れてますけど、そこから水を取ってくる権利を」

と、残念ながらここでテープ切れ。少し話の内容がとんでしまう。

気を取り直して次へ。乾田・湿田ていうのはありましたか? と訊ねてみる。

「極端に言えばね。こっちからこう川が流れてきますけど、この辺になるとやっぱり住宅地なんかがあって、せき止められるって感じがあったんじゃないでしょうか。下に流れていかない」

松尾さんも、ガード下をくぐる水路が三つくらいしかないと仰っていた。山口さんも、やはり水路は三つだと仰る。

乾田とかいうと、麦は作ってました?

「以前は作ってました。今もね、結構作るようになりましたよ、三・四年前から」

これは減反政策の煽りらしい。米一本ではもう喰っていけないのだとか。

そういえば、畦で大豆を作るっていう話がありましたが……。

「ああ、それはね、大豆をとるためじゃなくて、緑肥」

あ、刈り取って田んぼの中に?

「そうそうそう。今はもう、大豆を収穫するために、大々的にやってますよ」

線路の西側・東側、どちらでも麦は作るけれど、今はハウスで苺や巨峰を作る農家も多いらしい。山口さんの畑はどうかと訊ねてみると、商売人の息子だったので畑を持ったことはないとのこと。曽祖父・祖父・父・本人と、全部職業が違うといって笑っていた。

終戦後の生活などについて訊いてみると、混乱は大してひどくなかったとのお言葉。ただ、空襲の被害はあったそうで、それも近くの市街地を爆撃した帰りに余った爆弾や燃料などを捨てていったものらしい。機銃掃射が家の屋根を打ち抜いたこともあるとか……。

混乱と言えば、旱魃の時はどうでしたか?

「この鹿島という町はね、ちょうどこの辺り、この辺りにね、ヤノ酒屋という酒屋があります、ここの長男がヤノ市長って鹿島市の市長にもなりましたけど……ヤノヘイハチっていうね、ヤノ酒造の一番初めのひとね、この人が、酒を作るために水を探していた。西牟田って地区あるんですよ、ここ、この辺りにね、水源地……井戸を掘ったんです。そしたら素晴らしい地下水に恵まれて、でこれがあの鹿島市の、まあここの市街地の生活用水、上水道の供給源になってんです。で、今はもうよそに自慢できる水。地下水だから水温が一定してるわけですよ、だから冬場はあったかいし、夏は冷たい。で、そういったことでね、そのヤノ酒造のご主人さんが、この水源地を発見して、で、酒造りに利用してたんですけど、それを鹿島市、行政が管理するようになって、もっと拡張して、この一角に水を供給してんですよ」

あちこちに掘って、今は水源地が三箇所くらいになっているとのこと。鹿島は殿様のお蔭で水路がきちんと整備されている、と話して下さった。

昔は木の筒で水を引いて、川の下を通して灌漑用水にしていたそうだ(もちろん今は腐食しにくい新素材が採用されている)。水源地は塩田川上流とのことで、松尾さんが話して下さった蓮の池藩の水源かも知れない。

他にも、鹿島の殿様は偉い、という話をいくつか伺った。

鍋島の殿様は重税を課さなかったから農民とも良好な関係を保てたとか、農地改革のときに自分の田畑を小作農に分けてあげたとか。住んでいたお屋敷は市に寄付されて、今は市民会館と福祉会館と図書館になっているとのこと。感服いたしました。

 続いて、商業も盛んだったようですし、人の出入りは激しかったと思うんですけど、ヨソモノとかそういう話ってあったんでしょうか? と訊いてみる。

「ありますね、そりゃあね。封建的ですからねぇ、排他的っちゅーのか」

よその村の人はなかなか入ってこられない、とか?

「以前はあったようですね」

商業の盛んな町のようなので、そういうのは緩いのかなと思ったんですが……。

「結構ね、そりゃ出入りは激しかったんだけど、お客さんである分にはよく相手するわけね。でもよその人が同じ土地に、こう……住み着いてしまうと、まあ厳しかったっちゅーか、ヨソモノ扱いで」

ヨソモノとの結婚はやっぱり白眼視されたんでしょうかね?

「やっぱり風習が違いますからね、いろいろあったろうと思いますが、今はもう随分あちこちから来ておられますよ。外部資本も随分入ってます、ジャスコとかオサダとか……」

 このあとは現在の鹿島についての話になった。新幹線の話について聞いてみると、開通したら佐賀周辺は「陸の孤島」になってしまうのではとの懸念が強いらしい。たった十五分縮めるだけのために新幹線を通すというのもどうかと仰る。同感です。それでも長崎からすれば是非開通させて欲しいんでしょうねぇ。

 時計を見るとあと十分。住所や生年月日を伺い、大学の話など問われるままに話しているうちに時間切れに。やはり名残惜しいが辞去した。

 思わぬトラブルがあったものの、何とか対策を講じることが出来、そこだけは本当に良かったと思う。貴重な現地調査の体験になった。

 お世話になった方々に感謝の意を申し述べたい。ありがとうございました。