鹿島市本城

 

石井 愛

上田 雅子

上林 真利子

 

 

はじめに 

私たちは今回、鹿島市能古見本城の理事会長の中村允彦さん(64)と、鹿島市役所の中村博之さんの紹介で中原満夫さん(66)にお話しをおうかがいした。今回の現地調査では鹿島市生涯学習センターの資料を参考にしようと考えたので、当初のバス移動を変更して自家用車で現地へ赴いた。鹿島市内を抜けて国道から本城に向かう道に入ると急に信号や店がなくなり、あたりに田園風景が広がった。稲刈りも済んで枯草色の水田、内側にぼんやり緑の見えるビニルハウスが並び、道路が平行に走る山の斜面には段々畑が見られた。田と田の間にある家々も枯れた稲と同じような色をしていた。いくつかの茶色の茅葺屋根が目を引いた。中原さんのお宅に着くと、近くの公民館へと案内された。そこには理事会長の中村さんもおられ、中へ通していただいた。中原さんは早速本城について話してくださった。その口調はゆっくりではあるが、事前に調べておいてくださったことが察せられた。

 

本城について

 昔、このあたりは長崎県所轄であったという。佐賀まで来て意外なことに私たちは驚いた。本城(ほんじょう)とは現在の小字で、大字は山浦(やまうら)と三河内(みかわち)だそうだ。以前は藤津郡能古見村であったが、昭和30年前後に五か町村が合併して今に至っている。中原さん宅の真向かいのバス停が本城(もとしろ)と呼ばれていることについて尋ねると、本城の由来に関係していた。公民館から本城川をはさんで向こう岸にある西蔵寺の裏山にはシロビラ<城平>のあとと呼ばれる城跡がある。しかし、本城は城下町ではなかった。山の上には大きな土地がなく、南北は断崖で、石垣や空濠などの形跡もなかったことから山城といっても小さな見張り城であったと思われる。この城跡にちなんで本城(もとしろ)と呼んだらしい。他にも西蔵寺の背後斜面の地名には原屋敷、城平などがあり、寺近くから山頂までの山道は城道と呼ばれた。

 

しこ名について

 私たちが中原さんにしこ名について尋ねると、始めは「そんなものはなか。」と言われた。「では、同じ小字の中にいくつも田んぼがあるときはどう区別されていますか。」と聞いても、農作業のときも水田(タンナカ)を小字で呼ぶ以外に呼び名はない、ということだった。水田以外にも同じように例を出して尋ねていると、中村さんが「タンナカには名前はないが、家のことは大きいのをオーヤシキ<大屋敷>、小さいのをコヤシキ<小屋敷>と言いよったなあ。」とおっしゃったので、他にもないですか、とこちらが身を乗り出すと「ウーダン、コダンとも言いよった。ウーダンは大きい田、コダンは小さい田のことで、『ウーダンやきコダンのごと仕事さばけんもんなあ。』って言うねえ。大きいタンナカの方が要領よくすませられっとですよ。」と話してくださった。

他にも、家の向かいの水田や家をムカイ<向かい>、同様に墓の前をハカマエ<墓前>、村の真ん中の集落をムラナカ<村中>、山と山の間の川のことをタンゴウ<谷川>、道のことをミチベタ<道端>と呼んだりするそうだ。固有名詞では、馬の形をした石でウマイシ<馬石>、猿が飛んだという岩でサルトビイワ<猿飛岩>、針の穴のような形をした岩のメンズイワ、そして由来はよくわからないがコチキイワ、テイタイワ、メオトイワ<夫婦岩>があり、夫婦岩にはオトコイワ<男岩>、オンナイワ<女岩>があるという。また、二人の女の人が荷物を通した棒の両端を持って荷物を運ぶ天秤のことをオオコウといったり、多数決のことをロクセワリといったりもする。最も興味深かったのは13ブツサンの話だった。岩の下にある13の仏像は、長崎から集団で逃げてきた人々を祭っている。その人々はそこで一生を終えたということだったが、話しがよく見えないので詳しく聞こうとすると、中原さんは「身売りから逃げたとですよ。こんなことはね、男の間では話せるがあなた方は女の方やから失礼やと思って言わんかったとですよ。」とおっしゃった。中原さんの配慮をありがたく思ったが、この問題の捉え方は中原さんと私たちの間で大きく異なるだろう。

お二人には本城独特のなまりがあって、しこ名を聞き取る際には何度も音を確認することが必要だった。小字にしても本城独特の呼び方があって、例えば城平(じょうびら)をシロビラ、小川内(おがわち)をオゴウチと言ったりするらしい。日常生活の中にも似たような例がある。学校はガッケ、いろりはユルイ、靴はクドゥー、風呂はフレェなどである。「風呂に入れ、っていうのは『ふれぇらい!』っていうんですよ。」中村さんがそうおっしゃった。私たちが「(病気で)寝込むことをネハマルというのは、布団に寝てはまるからですか?」と尋ねると、「そういう訳じゃないよ。」と言って笑っておられた。

 

中原さんの生活

 昭和20年、中原さんは10歳で、能古見小学校の本城分校の4年生だった。当時は太平洋戦争の真っ只中で、この本城地区にも空襲があり、あまり学校に行けなかったということだ。つい最近まで不発弾が近くにあったらしい。本城分校には福岡などから疎開してくる人々もいて、1クラス40人くらいの複式学級だった。中原さんに見せていただいた能古見小学校沿革誌によると、本城分校は昭和56年に廃校になっている。終戦直後は食糧難で弁当を持っていく余裕もなく、校庭に大豆などを蒔いて畑をつくっていたそうだ。当時はノートや本などもなく、先生は竹刀を持って授業をし、ほとんど勉強にならなかったとおっしゃった。戦時中のそうした学校のあり方に驚いたと同時に、自分たちが戦争というものを知らない世代だということを改めて認識した。下級生は上級生の命令には絶対服従で、今よりも上下関係が厳しかったことがうかがえる。中原さんは時々、上級生に言われて学校をスッポン(本城地区の方言で「さぼる」の意味)して、学校が終わる時間まで山の中で遊んだりもしたそうだ。「あんたらも学校さぼっちゃいかんよ。」と言われ苦笑いだったが、おさぼりが昔からいたことが妙におかしかった。

 国民学校を卒業した後、中原さんは親の後を継いで林業を始めた。この本城地区は山間

地なので、八割近くの人が林業に従事していたそうだ。農業との兼業が多かったが、農業

といっても自分たちが食べる分だけを作るようなものだった。今はもう林業を専業としているのは村に一人しかいないということだ。当時、中原さんは朝早く起きて、6〜7km

離れた林まで歩いて行き、ケヤキ、カヤ、モミ、スギなどを機械ではなく斧で伐採したそうだ。直径1〜1.5m、中には2mほどの大きな木がほとんどで、一本倒すのに半日掛かり、伐採したら半年から1,2年の間寝かせ、乾燥させてから運び出した。伐採した材木は「木馬」と書いてキンマと読む、山の傾斜を利用した道具を使って村まで運ぶ。キンマとは一種のソリで、その上に材木を載せて木馬道(キンマミチ)を滑らせて運び出した。適度な傾斜があるところでのキンマの利用は各地で広く行われていたそうで、その他の場所は人力や馬車などで運んでいた。中原さんが今の私たちと同じくらいの年齢のときは生活するのに精一杯で、農林業のほかに米・土方の仕事もしており、恋愛どころではなかった、と語っておられた。ではみなさん方は、どのように恋愛されていたのですか、と尋ねると「恋愛と言ってもね、今と違って隠れてコソコソ話する程度だったよ。」とおっしゃった。今と違って、という言葉には含みがあったが、コソコソ話しをするなんてかわいいなあ、と思うところが中原さんの世代との感覚の違いだろうか。村には幼馴染で結婚する人もいたそうだ。

「これからは林業だけではだめだ。資格がないと。」と思いついた二十歳の中原さんは、ついに「あこがれの東京」に出稼ぎに出た。東京では、当時一番儲かっていたセメント業に就いたそうだ。それから、東京オリンピック前に福岡でタクシーの運転手をした後、昭和45年前後、鹿島に戻り祐徳バスの運転手を30年くらいされたということだ。中原さんは今まで無事故無違反だということを誇らしげに語っておられた。

 現在はバスの運転手を辞められ、孫と遊んだり、わらび採りをしたりしてのんびり暮らしているという。毎日6時に起床して2km歩いておられるそうで、66歳にしてはお若い印象を受けた。

 

地下水について

2,3年前、鹿島市から長崎県大村市につながる国道444号線(通称「幸せ街道」)に沿い、トンネルを掘っている時に、1000メートルの地下から水が湧き出てきたそうだ。本城のすぐ近くにも小さな平谷温泉場があり、嬉野温泉などの一環ではないだろうか、と中原さんは語っていた。昔、温泉は田植えが終わると湯治に利用されていた。村の人々は何日も温泉に滞在し、そこで自炊しながら休養していた。天然水が出てきたことでトンネル工事は中断され、日本100選にもなった地下水を、現地の人々は無料で手に入れることができるようになった。近所の能古見や大村市の人々は勿論のこと、大川・佐賀・神崎・雲仙から汲みに来る人もおり、休日は列ができる程だそうだ。その水はミネラルが豊富でやわらかく甘めで、温泉にもできるらしい。

 

中川と村のこれから

本城の西部を流れる中川の水は、子供達の遊び場であり、水田に水を引く農業用水であり、村の人々の大切な生活用水であった。川の形が変わってしこ名が分からなくなったことからも、本城の人々にとって中川は重要な川であったことがうかがえる。しかしながら本城を流れる中川は支流ではなく、狭く小さな川に過ぎない。今から25〜30年程前から、本城のすぐ近くである中木庭にダムを建設しようという話が持ち出され、ダムに沈んでしまう中木庭の住民は勿論、ダムの直下となる本城の住民も猛反対したそうだ。だが現地住民の反対もむなしく、ダムは2018年を完成予定として、着々と建設準備が進められているらしい。中木庭に住んでいた人々は全員立ち退き、本城をも後にする人が出てきたそうだ。

昭和39年の七・八水害で、中川の形はすっかり変わってしまった。以前は、岩ばかりのところに水が流れ込むイワハイ/イワハエ<岩生>、太い淵のカナブチ<金淵>、おそろしう(=ひどく)深い淵のナガフチ<長淵>、惣七さん(人名)にちなんだ堰の名ソウシチデ<惣七出>、公民館付近の川沿いに柳の木があったことからつけられたヤナギノセ<柳の瀬>などがあったが、それらしこ名のあった場所はダム建設によってコンクリートと化してしまった。しこ名のついた岩岩(メオトイワ、ウマイシなど)も川の中に沈んでしまった。竹でつくった柵を立て、水が溢れるのを防いだ頃の川は、曲がりくねってはいたが流れはゆっくりであった。ダムの問題点は、中川をまっすぐにし、両側をコンクリートにしたことで川の流れを速めてしまったことにある、と中原さんはおっしゃった。

しかし今やダムの建設を受け入れ、ダムや天然水を使って、本城を観光地にしたいと力説されていた。農林業(主に林業)で成り立ってきたこの地域であるから、山にキャンプ場を設営し、福岡や長崎など他県からも遊びに来られるような場所になるように、いま鹿島市や佐賀県に交渉中とのことだった。自然の中にいようとも、キャンプ場を提供する人間、そこで余暇を過ごしに来る人間、つまり人と人とのふれ合いを大切にしていきたいということだった。中原さんには「本城をアピールしてほしい」と幾度となく言われた。地域のお年寄りが昔のことに縛られず、地域のこれからの発展を思って村おこしをするということはかなりエネルギーのいることであるが、そうした本城の人々の前向きな姿勢に我々は感心し、本城の発展を願ってこの地を去った。

 

鹿島市生涯学習センターできいたこと

中原さんに、昔のことはもう少し年配の人に話を聞いたほうがいいのではないかと言われ、元古枝小学校校長であり、現在は社会教育指導員をしていらっしゃる杉本 忠さんを紹介された。杉本さんは鹿島市生涯学習センターにいらっしゃると聞き、我々はそこを訪ねた。あいにく杉本さんはいらっしゃらなかったが、鹿島市の文化係長であり、中央公民館の主査である加田 隆志さんに話をうかがうことができた。

加田さんは鹿島市の文化や民族的なことも調べられており、我々が本城のことを調べていると言うと、ダムに沈んでしまうことになってしまい、本城のすぐ側である中木庭のことを詳しく調べた学術書である「なかこば」と、鹿島市の明治33年と昭和27年に測量された地図を下さった。また、加田さんは以前の鹿島市(特に本城付近)のことでご自身が調べられたことを親切にもお話して下さった。

以前、中川がコンクリートで整備されておらず、水害のある前は、土穴と本城の間には「野中」(のなか)という地名があったそうだが、今は消えてしまったそうだ。中木庭も戦前は本城地区の一つだったそうだが、戦後に本城と中木庭が分離したという。また、この生涯学習センターのある場所の大字は納富分(のうどみぶん)というのだが、そこは納富(のうどみ)氏の領分だったということだった。他にも鹿島には納富分の近くに大殿分や若殿分という小字が現在も存在しているが、それも昔はしこ名だったそうだ。

この生涯学習センターを訪れたことで、地域の古老に聞いただけでは分からないきちんとした調査に基づき、資料を手にすることができた。(勿論、「なかこば」については住民一人一人に話をきいていた。)実際、我々が本城を訪れる前に、中原さんはここを訪れて資料をもらってきたということだった。我々が本城に出向いて現地の人々に聞いた話で、加田さんがご存知ないこともあり、加田さんは興味深そうに「まとめて教えて下さい」とおっしゃった。郷土資料を集め、郷土に関することを調査するのはどの地方でも同じだと思うが、ここまで民族的な資料が豊富であり、施設も整っている鹿島市には、歴史を感じずにはいられなかった。

 

しこ名一覧

 オーヤシキ<大屋敷>  コヤシキ<小屋敷>   

ウーダン        コダン          

ムカイ<向かい>    ハカマエ<墓前>     ムラナカ<村中> 

タンゴウ<谷川>    ミチベタ<道端> 

ウマイシ<馬石>    サルトビイワ<猿飛岩>

 メンズイワ       テイタイワ        コチキイワ 

 メオトイワ<夫婦岩>  オトコイワ<男岩>    オンナイワ<女岩>  

 13ブツサン      シロビラ<城平>の跡 

オゴウチ<小川内>   イワハイ()<岩生> 

カナブチ<金淵>    ナガフチ<長淵> 

ヤナギノセ<柳の瀬>  ソウシチデ<惣七出>

 

方言一覧

 ユルイ(いろり)  ガッケ(学校)  フレェ(風呂)  ネハマル(寝込む)      クドゥー(靴)