現地調査鹿島市早の瀬

                            松尾 優樹

                            松永 健太郎

宮内 健太

1、お話を伺った方々--------林田 喜代司さん(大正13年生まれ)

             中川内 利正さん(大正13年生まれ)

2、            しこ名一覧

小字狩集のうちに------タチメ(立目)

オドイデ(踊出、音出)

小字宝畑のうちに------タノウエ(田之上)

イガナガシ

ウナギノボセ

イワイビ(祝日)

トシヨリ(年寄)

小字横嶽のうちに------ニシコバ、ニシコガ(西古場)

ヤナギ(柳)

ヤキチイワ(弥吉岩)

小字庵ノ前のうちに---クセダ

オシグチ

ジゴクイワ(地獄岩)

シトヤ

小字黒岩のうちに------ゴニンドウ(五人堂)

小字戸崎のうちに------テラバヤシ(寺林)

小字割石のうちに------キャーフキ(貝吹)

 

3、小字名、しこ名の由来

狩集、立目----------この地域は鹿島の鍋島藩の狩場であり、立目というのは藩主が狩をするときに家来が集合させられた場所であった。

貝吹、宝畑、祝日、イガナガシ、オドイデ-----------かつて本城が落城して城主、家臣が城を捨て逃げ出さねばならないという事態が起こり、落ち人たちは落ち合う場所を決めその場所で合図の貝を斥候に吹かせることにした。その場所が貝吹である。そして逃げ延びていく途中空腹に苦しむ人々を救ったのが山を降りたところに広がっていたサツマイモの畑であったため人々はこの畑のあたりを宝畑と呼ぶようになったそうである。祝日というのは山の尾根にある大きな岩のことで、逃げ延びる途中にこの岩のところで赤ん坊が生まれたことからその名前がついたそうである。しかしこの赤ん坊は逃げる際に足枷となったため早の瀬に流すこととなった。その流された場所がイガナガシ(‘イガ’は子供という意味)であり、急流に流され踊るように流されていく様子が見られたイガナガシの少し下流の場所をオドイデと呼ぶようになったそうである。(音を立てて流されていったためオドイデ(音出)というとする説もある。

ヤナギ----------ここ一帯は柳の谷といわれ、源氏との合戦に敗れた平家の残党が落ち延びてきたという場所であり、多くの金塊を持っていた残党たちは、この地の大きく、太い柳の樹の根元にその金塊を隠したそうである。小字の横嶽は掛橋との境の祠でも平家を祀っており、平家とのつながりの強い土地である。

庵の前、寺林--------------庵(小規模な寺)が昔この地域にあり、この寺の主が持っていたといわれる山の頂上付近の林は寺林といわれたそうである。

地獄岩--------------ここで観音様を祀ってあったのだが、盗人に観音像を盗まれてしまい、なぜかその祀ってあった址を地獄岩と呼ぶようになったそうである。(源頼朝公を祀っていたという説もある。)

五人堂-------------この地名の由来も二つの言い伝えがあるそうだ。一つは黒岩には昔関所が設けられていて、五人堂はその関所の址を誰ともなくそう呼ぶようになったのだというもので、もう一つは五人の顔(この五人が誰であるかは不明)を彫った岩(どうやら墓らしい)があったためその場所を五人堂と呼ぶようになったというものである。

 

4、            行動記録

僕たちは不安を抱えたままバスに乗っていた。「果たして調査はうまくいくのか」と。なぜなら巨瀬さんへと送ったはがきの返事はとうとう帰ってこないままであったし、3日前の電話でもあまりいい感触を得ていなかったからである。そしてバスを降りすぐに巨瀬さんのお宅へと向かったが、その家の中からは人の気配は感じられず、ただ飼い犬が僕らに向かって吠えてくるのみであった。

僕らはどうなるのかとかなり不安になりながらもバス停の前の小屋で木材を加工している人たちに巨瀬さんのことをたずねた。すると中の1人が「ほら、巨瀬さんっていいよんしゃるよ。」と呼び出してくれて会うことができた。巨瀬さんは「俺は何も知らんけん、年寄りのほうがよかろう」と言って林田さん中川内さんの2名を紹介してくださった。僕たちは林田さん達が昼食をとり終えるのを待って話をうかがった。

まず僕たちは改めて今日の調査の目的と内容を言った。そして最初に村の範囲について聞いた。村の範囲は僕らが事前の調査で予想していたものとほとんど変わらなかった。次にしこ名について尋ねてみた。狩集(カリアツメ)については「昔鹿島の鍋島の殿様が、狩りをしよったけん、そう呼びようとよ。そん時家来が集められよんしゃったところをタチメてゆうて・・・」と地図を指しながら説明してくださった。最初はしこ名の意味をつかめていなかったようだが、その意味が分かると芋蔓式に次々としこ名がでてきて記録するのも大変だった。

特に興味深かったのは横嶽のヤナギというしこ名である。聞けばこの地域には平家の落ち武者たちが金塊を隠したそうである。平家の残党が落ち延びてきたという伝説は各地にあるのだが、こんな寂れた山奥にまでこのような伝説があり、しかも埋蔵金があると言うのには驚きよりもにわかには信じがたいという気持ちのほうが強かった。しかし掛橋の祠でも平家を祀っているということもおっしゃっていたのであながち嘘でもないのだろう。

しこ名は一通り出たため次に村での生計の立て方を伺った。この土地は山間にあることもあり林業を中心として生計を立てていたそうである。特に竹は品質がよいらしく、魚を捕る仕掛けや海苔養殖に使われていた。そのため山村であるにも関わらず魚などの海産物を得るのには特別苦労はしなかったようである。また炭窯で作った酒の保存にも竹は使われたそうだが、現在ではそれらのものは使われなくなり、海苔の養殖でもビニール製のものが取って代わったため、竹の加工では生計は立てられないそうだ。特に海苔の養殖にビニール製のものが使われていることに対しては、現在の有明海汚染の一因となっているのではないかともおっしゃっていた。

稲作は食糧の不足のためどうしてもしなければならなかったらしい。棚田を作って何とか耕作地を確保して営んでいたそうだ。これも現在は一反で¥105,000(¥15,000×7俵)しか得られず支出のほうが多く、さらに減反政策もそれに拍車をかけ、生計を立てる手段として成り立たなくなっているそうだ。そのため百姓だけで生計を立てることは不可能で、若い人たちは町へ出て建設業などに従事しているらしい。そそのほか副業は、わらで縄を編むといった程度のことしかなかったらしい。

続いて水利慣行について伺った。地区ごとに溝が引かれており、瀬田溝、うわがわ溝、たのうえ溝など7〜8つほどある。稲を植える前の5月の下旬頃には「みぞし」とよばれる溝の修理、清掃を行う行事があったそうだ。この他にも川を清掃するかわまと呼ばれる行事もあったということからも水を大切にしていたことが窺える。日照りが起こることは少なく、水を争うということはなかったようだ。溝には水車を取り付けて水力によって杵を落とし農作業に利用していたという話題がきっかけとなって話は農具についてのことへと移っていった。脱穀の道具である千歯こきや米の選別の道具である唐箕などを身振り手振りで教えて下さった。そして「しいの」と呼ばれる道具は実物を見ることができた。これも唐箕と同様に米の選別をするための道具で大きなふるいのようなものであった。  

次に山のことについて伺った。山の行事としては、正月、山の神に一年間災いが起こらずに過ごせるように願う祭りが行われるそうである。山はほとんどを個人が所有しており入会地のような共同の場所は少なかったそうである。また山のしこ名はシモウク、ニシャギミョウク、ゴモク、インボシ、トヤ(ホヤ)など5〜60ほどあるとおっしゃっていた。しかし、時間の都合で全てのしこ名と場所を知ることは出来なかった。また、山の入会地について伺ったが、そのようなものは無かったようだ。

 最後に昔の村の生活について伺った。電気は、林田さんたちが物心つく頃には既に通っていたが、林田さんよりも少し上の世代になるとランプのホヤを磨いた経験を持つ人もいると言われていた。しかしランプを手にする機会はあったらしく、持ち運びのできるものと吊り下げ式のものの二種類があって、持ち運べるもののほうが高かったそうだ。遠い目つきで懐かしそうに語るその語り口から持ち運びランプへの憧れがあったように感じられた。

 娯楽と呼べるものは少なく、お祭りが唯一の楽しみであったらしい。若者たちは仕事以外のときは公民館に屯していたそうだ。何をしていたのか尋ねたが、巧く暈かされていまいち要領を得なかった。 

 もうひとつ青年たちに関係することで「青年クラブ」なるものを教えていただいた。これは独身男性が集まり、若者頭が教育するという組織で当時はどこにでもあったものだそうだが、今の僕たちには馴染みのないものであった。ここでも何を教育するのかがとても気になり質問したのだが、またも巧くかわされてしまった。

当然恋愛の自由はなく、親の決めた相手と結婚するのが定めであったそうだ。

 

5、            調査をしての感想および反省点

今回調査に参加して、様々なことを知ることができ、とても勉強になった。昔の生活について知る事ができたのも収穫の一つであった。山のほうで作った竹の仕掛けで海の魚を獲っていたことは驚きだった。平家の落ち武者が残したといわれる埋蔵金はいつか探してみたいと思った。このような山の中でも昔からの地名であるしこ名が多く存在しているということは大きな驚きであった。林田さん、中川内さんが村の過疎化について話をされていたのが印象的だった。これまで過疎化を身近に感じたことはなかったため事態の深刻さを思い知った。もう少し多くの人の話を聞きたかったことと山のしこ名の位置を知りたかったことが心残りである。最初は佐賀弁がほとんど分からず苦しんだ。しかし、親切にも協力してくださった林田さん、中川内さんのおかげで調査はスムーズに進んだ。心より感謝しています。忙しい年の瀬にもかかわらず貴重なお時間を割いていただきありがとうございました。また、林田さん、中川内さんを紹介してくださった巨瀬さんにもこの場を借りてお礼を述べさせていただきます。ありがとうございました。

 

6、            現地の写真

@    クセダ

A    オシグチ

B    トシヨリ