鹿島市八宿

                       花島義治

                        濱 友紀

                 調査に協力していだだいた方  重松 満治さん

                               (昭和6年生まれ)

 7月7日午前11時、我々は鹿島市浜町八宿に到着した。バスを降りてすぐに目に飛び込んできたのが大きな赤い鳥居だった。その鳥居には「祐徳稲荷神社」という文字が刻まれていた。この鳥居の向こう側に大きな神社でもあるのかと思ったが、辺りにそれらしき神社が見当たらなかったので、これから訪ねる重松さんにこの鳥居のことを聞いてみようかと思った。その日は朝に小雨が降って昼に日差しが差し込んできたのでとても蒸し暑くて歩いての調査は困難になるだろうと予想された。

 我々は迷いながらも、地図を広げて重松さん宅を探した。15分、いや20分くらい歩き回っただろうか、したたる汗を拭い我々はあることに気づいた。重松さん宅が、我々が降り立ったバス停から30秒でいける距離にあることを。急いでそのバス停に引き返し重松宅に向かった。しかしもうひとつ問題が発生した。事前に重松さんにだした手紙に午後1時に訪問すると書いていたが、このときまだ11時半、重松さんが我々の早すぎる訪問を受け入れてくれるかどうか不安であった。

 「ピンポーン」濱がチャイムを押した。「ハ〜イ」という声が奥から聞こえると同時に、重松さんの奥さんらしき人が玄関にやってきた。「僕たち事前に重松さんに手紙を出したこの町について調査しにきた九大の者ですけど、すいません予定の時間より大分早く着てしまって」と我々は挨拶した。「あら〜いま外にでかてるのよ、中で待ってて下さい」と居間に通された。我々が居間で少しくつろいでたら、奥さんがお茶を持ってきてくれた、そのお茶は重松さん宅につく前に二人で出されるであろうと予想した熱いお茶だった、そしてその居間の窓を全部しめて冷房をいれてくれた。「もうすぐ帰ってきますからくつろいでいて下さい」といって再び奥に消えていった。我々は重松さんが帰ってくる前にもう一度質問する内容を確認するためあらかじめメモをしていた手帳や講義で配られたマニュアルに目を通した。

 重松さんが帰ってくるのにさほど時間はかからなかった、玄関がガラガラっと開く音がしたら、そのまま居間に足を運ばれた。「すいません時間より早く着いてしまって、おじゃましてます」我々は挨拶と軽く自己紹介をした。重松さんは我々の早い訪問に少し驚いた様子が感じられたが快く迎えてくれ、そのまま調査へと話しが進んだ。

 我々は今回の調査のいわば主軸となるしこ名から聞いた、しかし返ってきた答えはこうだ、「はて、しこ名とはなんですかいな?」話しはしこ名の説明から入った、何回もしつこく聞いたが「いやーそげなもんなかったですなー」と答えは一辺倒だった。雰囲気がすこし静まり返ったので、しこ名は後に置いといて、別の質問から試みることにした。まず我々が論点にあげたのが旱魃だ、事前の調査で7年前に鹿島市に旱魃があったのを知っていたのでそのことについて、重松さんに聞いてみた。「7年前にこの地方には大旱魃があったそうですが、その年どのように水をまかなっていたのですか?」と、「この辺は太良岳の地下水が豊富で中川の水が枯れた時ですら、自分等が使う水には困らなかったですわ」という答えが返ってきた。どうやらこの辺りの町には旱魃による被害はなかったらしい。そこで他に旱魃や水害が無かったか重松さんに尋ねてみることにした。そしたら重松さんの記憶によると昭和3777日、誰もが晴れた夜の祈る七夕。そんなロマンチックな思いをあざ笑うかのように自然が猛威を奮ったらしい。「凄い大雨だった、浜辺の砂の城をあっけなく破壊してしまう波のような雨が堤防を破壊してしまった。勢いを増した雨は民家に侵入していき私達の住処さえもなきものにしようとした、そう、俗にいう床下浸水だ。しかし本当に恐ろしいのはこれからだった。堤が切れてしまったのだ。堤とは我々の命の水を溜めておくものだ、私達の命を繋ぎとめてくれる水が我々の命を奪おうとしたのだ。」重松さんの話を聞く限り当時の恐ろしい雨による水害が我々の頭の中で容易に想像できた。

◎昭和37年7月7日の水害による鹿島市の被害

雨量      289mm

死者      4名

行方不明    1名

家屋流戸数   9戸

床上浸水戸数  2335戸

 次に耕地や耕地に伴う慣行について聞いてみた。しかし残念ながら重松さんによると昔から八宿の辺りは宿場街として栄えていたので、田圃(たんなか)はあまり無かったらしい、だからそれに関しての情報を得ることはあまりできなかった。

 このときお互いまだぎくしゃくしていたため話しを盛り上げるために、我々は話しを昔の恋愛について聞いてみた。「今はメールと恋愛とか流行ってますけど昔の若者はどんな恋愛をしてたんですか?」重松さんは照れながらも我々の質問に答えてくれた「昔はねえ〜幼馴染かお見合いでの結婚が多かったんよ、部落内での結婚が多くてね、子供に知能が遅れる子が多かった。」それと今と比べて昔は男女関係に厳しかったらしい、重松さんが中学生くらいだったころは男子と女子で学校が別れていたため、女学校の近くを通るだけで恥ずかしかったそうだ、また汽車に乗る際には男と女で乗る車両が違った。我々は話しが盛り上がってきたと思いここで話しを夜這いのほうへと持っていこうとした。確かに昔は夜這いという風習があったらしいが重松さんが住む八宿のような町にはあまり見られず、農家の方で多く見られたらしい。こと重松さんにいたってはそういうことはしたことがないそうだ。また夜這いなどで子供ができてしまったら、今で言うできちゃった結婚が認められた部分があったそうだ。我々はやはり今と昔では恋愛や男女関係に関してかなり違う部分を知るこができ、もっと聞きたいことはあったのだがあまりこの話しにこだわるのもどうかなと思い次に、昔の若者について話しを伺った。昔の若者は、今のように遊ぶ所も多くは無かったため夜になるとクラブとゆう若者が集まる場所に毎日のように通っていたようである。このクラブとゆうものを聞いたとき始めはどんなものか想像もつかなかったが、話しが進むにつれだんだんとその正体が明らかとなってきた。クラブはそれぞれの町ごとにあり、毎日夕食が終わると仕事仲間などがここに集まって酒を飲んだりしながら朝まで騒いでいたらしい。また、時には隣町のクラブとけんかをすることもあったようで、重松さんは、「ここは昔漁村やったとです。漁村の人間は負けず嫌いやけん、けんかもよくしよったらしいですもんね。」と、少し照れたようにおっしゃた。重松さんも学校の授業で相撲や剣道をして体を鍛えていたそうだ。かつて八宿には酒屋が多くあり(今でもあちらこちらに酒蔵が残っているのだが)酒豪が多かったためそんな負けず嫌いな人達が育っていったのかもしれない()。一方、若い男達がクラブへ行っている頃、女性達は何をしていたかとゆうと、家の中にいることが多かったらしく編物などをしていたそうだ。今の女性像からは想像できないようなことであると我々は密かに思ったものである。またこの頃戦争があったため、その時代の風潮からか重松さんが子供の時は自然と戦争ごっこやチャンバラ、相撲など相手と力を競うような遊びが多かったと昔を思い出し懐かしそうな顔をして語ってくれた。

 昔の話をしてだんだんとお互いに慣れ親しんできたところさらに我々の質問は続いた。「今度は村の発達についてききたいんですけども、、」こう切りだし、電気ガマとテレビについて聞いた。重松さんの話によると八宿周辺の町は大正6年には電気が通っていたそうだ。「電気ガマは昭和32年ごろやったかねぇ、当時は高価なものでねほとんどの人が買えなかったですけんねえ、みんなその頃はまだ薪を使いよったですよ。私は太良岳の寮に住んでたから、自分で薪は拾ってたもんです。町に住んでた人は薪を買ってたんですよ。」電気ガマが高価で買えないなんて今の時代に生きてる我々には少し考えられないことだと思った。またちょうど同じ時期にテレビも現れたらしい。さきの電気ガマに続いてテレビについても話してくれた。「テレビも高価な物でねぇ、当時持ってる人はあんまいなかったんですよ、私が子供の頃テレビが見たくなったらねー持ってる人のうちに行ってプロレスなどよく見てましたよ、それで夜遅くなって家に帰ったらよく親に怒られましたけんねえ。」

現在の生活においてテレビは欠かせないものになっている、様々な番組がブラウン間に映る今に比べて当時のテレビの番組はどうであったのだろうか、我々は興味を抱きそのことについても聞いてみた。どうやら当時の番組は少なかったらしく、国会中継、プロレス、相撲などが放送されていたらしい、やはり人気があったのはプロレスで力道山、相撲では大鵬などスポーツがその時代でも熱狂されていたそうだ。この話しで盛り上がってるとこに奥さんが水羊羹を持ってきてくれて、話に加わった。奥さんは映画や劇場などについても話してくれた「鹿島市にも“ろくようかん”っていう映画館や鹿島座っていう劇場があって人気があったんですよ」当時の人気俳優は今でも著名な石原裕次郎や小林あきらだそうだ。奥さんはまるで思春期の少女のように頬を赤らめ語ってくれた、となりに重松さんがいたのに、、当時は戦争のこともあってか洋画の放映は禁止されていたそうだ。そうこう話している内に私は突然ある事を思い出し思わず口にした、「巨人、大鵬、卵焼きでしょ!」

重松さんは「よくしっとったねえ。」と、懐かしい事を思い出したように空を見上げた。我々は彼の青春に少し触れたような気がしてうれしかった。

 次にここの祭りついて語っていただいた。「やっぱ祭りといえば、祇園祭りかね。」重松さんは本棚から一冊の本を探し出して、その本を見せながら我々に話してくれた。祇園祭りは7月13日、15日に行われ、2台の部落別の神輿が松岡神社から出発し浜町をまわりゴールを目指すとゆう祭りである。五穀豊穣(五穀とは、あわ、麦、米、きび、豆の事)や家内安全を願うためこの祭りが始まったとゆうことだ。浜町をまわるといってもどうゆう風にまわるのか分からない我々は持っていった地図にその道を書きこんでもらうことにした。「こー行って、こー行って、、、違った、ここを曲がって、、、」地図上で何度も迷いながらも、奥さんと一緒に記憶をたどりながらなんとか書いていただいた。祭りの話しをしている内に最初に述べたあの大きな鳥居のことも聞くことができた。話によると、昔は正月にあの赤鳥居をくぐって参道を歩き祐徳神社へ行っていたとゆうことだ。しかし、今ではその参道も影を潜めており、神社へはバスで行くそうだ。そんな話しを聞いて、あれだけ存在感のある鳥居なのに少し淋しい感じがした。

 あっというまに2時間程度がすぎお互いに疲れの色が見えてきたところだが、我々の調査の質問も佳境に入ってきた。今度は人間の生活にかかせない食に関して、おもに米に関して尋ねてみることにした。米となると地主と小作人の関係がついてわまる問題だが、やはり地主さんの子供が小作人の子供をいじめるようなことがあったらしい。しかし重松さんの知っている地主さんは人間ができた人らしく大人の間でそういうことはなかったそうだ。また我々は重松さんが若かった頃は米は自給自足だと思っていたが、町の中に住んでいるせいか米は普通に買っていたということだ。その他に家族で食べる飯米のことを保有米といい、米の保存は町に住んでる者は木でできた米びつ、農家の人は土蔵に保存していたそうだ。終戦後(重松さん12歳の時)は卵や牛乳が貴重品で畑泥棒が増加したということも話してくれた。ここで唐突に「重松さんも泥棒したことあるんじゃないですか?」と思いきって聞いてみた。すると重松さんは声を高らかに笑い「それがあるんですよ、よくスイカや瓜を畑から盗みましたねぇ」と答えてくれた。どうやら重松さんの話しを聞いているとその時代、畑泥棒というのは珍しくなかったということが分かった。というのはやはり戦争というのが背景に重く感じられた。戦争のことに関しても少し尋ねてみたところ、鹿島市には直接爆弾が投下されたとかそういう被害は無かったらしいが、やはり町の青年達が徴兵され働き手が少なくなり、町全体が貧しかったそうだ。重松さんは兵隊さんに慰問文をだしたことがありそれが30年ぶりに自分の手元に戻ってきたことを話してくれ我々にその慰問分を見せてくれた。それは中学生の歴史の教科書で見たことあるような手紙だった。

 そろそろ重松さん宅を離れようかと思い、とりあえずもう一度しこ名について聞いてみることにした。だがやはりそれに関してはひとつも聞き出せることはできなかった。重松さんが後で調べて手紙を送ってくれると言ってくださったが、重松さんもそのことに関しては情報を得ることができなかったということが送ってきて下さった手紙から分かった。

最後に村の今後のありかたについて聞いた。すると重松さん夫妻は「諫早のがたよね、、、生活排水やらでね、がたが汚くなって巻き貝やムツゴロウみたいな珍しい生き物が減ってきたんよ、今県を中心にがたをきれいにしようとしているとこなんですけどねぇ」と少し落ち込んだ様子が伺えた口調で話してくれた。「それじゃあ僕達これからがたに行ってどんなものか見てきます」といって重松さん宅での調査は終わりを告げた。「今日はどうもありがとうございました。」家を出た我々はとりあえずご飯を食べようと近くの店に入った。そこの店は魚屋であいにく食事をとれる所ではなかったが、思いもよらず先程話しを聞いた巻き貝を見ることができた。しかし、その貝は輸入物だそうで、重松さん宅で聞いたように今では湾ではあまり取れないと魚屋のおばちゃんは言っていた。そこで食事をとれなかった我々は、近所で他に食事がとれそうな所はないか探してみたが辺りにそれらしき店はなかったため、通りすがりの人に尋ね少し離れた場所にあるレストランを教えてもらい歩いて行った。食事をとった我々はいよいよ‘がた‘に行くことにした。がたに着いた我々は感動を隠しきれなかった。辺り一面広がる水の無い、泥のような海。そこには無数のカニやムツゴロウがいた。それらは、我々が近づくとあっとゆうまに穴に消えていってしまった。このようなものは初めて見た、世界中にもこのような場所はあるのだろうか、ぜひ鹿島市のみなさんにはこのがたをきれいにし、いつまでもムツゴロウや巻き貝が住めるように努めてもらいたいものだと思った。そして鹿島市だけでなく我々もこの珍しいがたを大切に考えていけないのだと感じた。

 我々の調査はこれで終わったわけだが、人の家に調査しに行くことなんて初めての経験だったので、うまくいくかどうか不安な部分はたくさんあった。しかし重松さん夫妻はとても気持ちよく我々に対応してくれたので、調査の面白さ、また結局しこ名や田圃(たんなか)については調査することができなかったので調査の難しさを知った。少しでも鹿島市の歴史を知ることができ、それに歩き・見・触れたことはとてもうれしかった。