佐賀県鹿島市鮒越

 

勝田健二

浜端祐二

才田勝寿

 

 

はじめに

僕たちが今回調査するところは、佐賀県鹿島市鮒越だ。事前に住宅地図等を見ると、家はまばらにしか立っておらず、また田畑よりも果樹園が多く、大変な田舎というイメージを持った。調査するにあたり、現地の区長さんである山崎良治さんに調査依頼のお手紙を出させてもらった。手紙を送付したのが調査日の10日前を切っていたので、大変急なお願いをして恐縮した。速達で手紙を送って4日後に返事をもらった。山崎さんからの手紙の内容は、当日、村の者は年末で忙しく都合が合わないということだった。山崎さんのはがきによると、鮒越の年末は、みかんの収穫で忙しく、どこの家の人もみかん畑に出かけて、家には誰も残っていないらしい。実際このことは現地に行ってみて強く感じさせられた。鮒越には人の気配というものがまったくといっていいほど無かったように思う。代わりに山崎さんからは、近くの祐徳博物館ではどうかと、紹介をいただいた。

山崎さんに紹介していただいた祐徳博物館は、鮒越から離れていて、しこ名や昔の鮒越の生活を生の声で古老からお聞きするのは困難だと感じたので、とりあえず、服部先生にどうしたらよいか相談することにした。現地調査の日が差し迫っていたので、非常に焦っていた。しかも、服部先生に相談するために先生の研究室を二回訪れたが、先生が不在でどうしてよいか本当に悩んだ。三回目にしてようやく先生に相談する機会が持てた。先生のアドバイスは、当日鮒越を訪れて、古老の方を探しながら調査をするようにとのことだった。

 

 

現地調査当日

1222日晴れ。太陽は出て日は射しているのだが、なんせ風が強くてとても寒かった。僕たちがバスを降りた場所から、目的地である鮒越までは、住宅地図によるとかなり長い距離がある。途中曲がりくねった坂道が500メートルほど続き、日頃からあまり歩かないので、すでにもう少しばかりの疲労を感じていた。冷たい北風を正面に受け、ようやく長い坂道を登りきると、民家が何件か見え始めた。細い一本の道路の左右には、黄色く熟したみかんが、木にどっしりとぶら下がっている。私たちはとりあえず無礼を承知の上で、山崎さん宅を訪れることに決めた。山崎さんに、近くに住んでいらっしゃる古老の方などの情報を提供していただこうと思ったのだ。

 

 

山崎さん宅にて

バスから降りて30分ぐらいが経過した頃、住宅地図を参考にようやく山崎良治さん(65歳)宅に着いた。僕たちは、今まで他人のお宅を訪問した経験が無いので、どきどきしながら山崎さん宅を訪れた。山崎さん宅は、道路から少し下がったところにあって、家の周りは庭木で囲まれていた。玄関に3人で向かおうとしていたら、倉庫の方に人の気配を感じたので、覗き込んでみると山崎さんの奥さんが掃除をなさっていた。僕たちが、「こんにちは、先日お手紙を出させていただいた九州大学の者ですが」と声をかけると、奥さんが「あぁどうもすんまっしぇん、わざわざ来てくださてからぁ」と優しく応対してくださった。奥さんの話によると、良治さんはみかんの収穫に行っていて、午後からも忙しく、手紙の通り話をする時間があまりもてないということだった。せっかくなので、今回の現地調査の意味を理解して頂いて、しこ名について尋ねてみた。もちろん、しこ名の説明は十分にした。しかししこ名にまつわることはご存知ではなかった。

山崎さんの奥さんと話をしてから10分ぐらいが経った頃、良治さんがトラックにみかんを山のように乗せて帰ってこられた。僕たちの存在に心当たりがあったかのように「九州大学の方ですか」と声をかけてくださった。時間があまり持てないということなので、しこ名についてまず尋ねてみたが、まったくご存知ではなかった。最後に、良治さんに、鮒越で物知りの古老の方を紹介してくださるようお願いしたところ、奥さんといろいろ話し合った結果、小池俊蔵さんという方を紹介してくださった。そもそもこの鮒越には古老の方があまりいらっしゃらないらしく、あとから気づくのだが、紹介された小池俊蔵さんは鮒越唯一の古老の方であったと思う。

正午はすでにまわっており、山崎さん夫妻に別れを告げて、紹介してくださった小池俊蔵さん宅を目指した。山崎さん宅から小池さん宅までは少し距離があって、途中家がまばらにある。しかしどこの家からも人の気配が感じられない。やはり、山崎さんが言っていた通り、正月前のみかんの収穫で忙しいのだろうと思った。

 

 

小池さん宅にて

小池さん宅は、鮒越のバス停の前にあった。バスの時刻表を見ると1日に数本しかバスが通っていない。住宅地図を頼りに迷うことなくお宅を訪問することができた。玄関に向かうと、作業着を着た中年の男性に「あんたら、じいちゃんに話を聞きに来たっちゃろ」と笑顔混じりに声をかけられた。事前に山崎さんに電話を入れていただいていたので、小池俊蔵さんとすぐにコンタクトをとることができた。小池俊蔵さんは、大正15年生まれの76歳。笑顔がとても似合う元気なおじいさんだった。客間に三人は通され、ストーブまで入れてもらい、腰を落ち着かせて話を聞ける雰囲気になった。始め、今回の現地調査の趣旨を理解してもらい、お話を聞かせてもらっていたが、途中、小池さんの奥さんに、ラーメンをご馳走になり、一時話は中断した。それからしばらくたって、また話を再開した。

 

 

水利

小池さんのお話の中で興味深かったことの一つに、隣村との水合戦がある。そこでまず、鮒越の水の流れを説明する。

鮒越の西側には浜川が流れており、南の方が浜川の上流にあたる。その浜川の上流から水を引いて、鮒越の西田代池にためる。そこから鮒越の下にある黒岩堤にためて、湯峰(ゆのみね)、浜野(はまの)、新方(しんかた)という3つの部落に水が流れるようになっている。黒岩堤の隣には菅原堤もあり、これは鮒越よりもっと北に位置する野畑(のばこ)に流れている。

昔、鮒越では、土水路を通って水が流れていた。そして、興味深いことにこの土水路は、上下の段差をつけて二本の水路で造られていたのである。土水路だとどうしても漏水の心配を免れることができない。結局一本の水路では水が無駄になってしまうのだ。しかし、二本の段差つきの水路を造れば、その心配もあまりする必要が無くなってしまう。昔の人は良く考えたものだと感心させられた。

また、鮒越に流れる水は、浜川の上流から引いているものなので、浜川との水の量の比が決められていた。昔は、鮒越と浜川をそれぞれ流れる水の量の比は、鮒越の土水路の漏水を考慮に入れて、73と取り決められていた。ところが今は、46になっている。これは、鮒越にある土水路をコンクリートに造り変えたことが影響してそうなっている。コンクリート造りでは、漏水の心配が無いということだ。

 

 

旱魃

次に、1994年の旱魃のときの水利について尋ねた。前述したとおり、黒岩堤と、菅原堤が鮒越の北にあり(南から水は流れている)、菅原堤からは野畑(のばこ)に水が流れている。ただこの野畑は菅原堤からの単に流れ出た水を使っていたので、1994年の旱魃のときには菅原堤にすだっている(流れ出ている)水を、ポンプで隣の黒岩堤に汲み上げていたという。話を聞く限り、鮒越はどうも野畑とは折り合いが悪いらしい。昭和37年の水害で、菅原堤が決壊したときは、ひどく野畑が激怒して、鮒越側は堤の見張り(溝番)を立てて警戒したらしい。

 

 

恋愛

小池さんとの話が盛り上がり、次は昔の鮒越の青年についての話になった。

小池さんに「小池さんが僕たちの年齢ぐらいのとき、恋愛などはどうでしたか」と尋ねると、「あーその頃は恋愛する暇なんか無かったねー」とおっしゃった。この手の話題は僕たちも興味があり、もっと詳しく聞きたかったので、さらに尋ねてみると面白いエピソードを聞くことができた。

昔、たけ水路の溝の修復をする機会があったという。この修理での役割は、男女で異なり、男は溝のどこに土を入れるかを決めて修復を行い、女は溝に埋める土を運ぶのだそうだ。そしてこの男女共同で修復作業を行うときが、男女が接する唯一の機会だったらしい。小池さんいわく、恋愛に束縛は無かったが、とにかく出会いの機会が少なかったらしい。ちなみに、小池さんに現在の奥さんと出会ったことを尋ねると、これもまた興味深いお話だった。

昔はどこの家庭も貧しく小池さん自身もそうであった。田もなく、兵役中に母は他界、兄も戦死したそうだ。そのような中、復員後、義兄の家にお世話になっていたが、おじがブラジルにいくことになり、小池さん自身もついて行こうと思っていたそうである。しかし、小池さんは模範的な青年だったらしく、「ブラジルには行かせん」と周囲に言われて、ブラジルには行かなかったらしい。そしてそのときに養子の約束をなさって、現在にいたっているということである。貧しいからこそ労働力がさらに必要になって、自分の思い通りになるのは難しいと、話を聞いて強く感じた。

 

 

夜這い

次に、夜這いについて尋ねると少し照れ笑いを顔に浮かべながら「夜這いの風習ちゅうもんはここだけじゃなく、どこでんあったんじゃなかろうかねぇ。みんなしよったと思うがねぇ」とおっしゃっていた。夜女性の家に遊びに行ってそのまま泊まっていたらしく、当然親も家にいたのだが、あまり関係なかったらしい。

 

 

青年期

昔の若い頃の生活について尋ねてみた。少年時代は、山に友達と棒を採りに行って、もっぱらチャンバラをして遊んでいたらしい。青年時代は、食糧増産に力を入れなければいけなくなり、遊ぶ暇はなかったらしい。また、小池さんの学生期のエピソードで、貧しさを強く感じさせられたのがある。

小池さんは学生の頃弁当を学校に持参していた。その弁当の中身は、麦:米が73のおにぎりに梅干が入って、ごま塩がまぶしてあるものだった。そして、そのおにぎりを新聞紙に包んで持参していた。お昼時になり、包んであった新聞紙を開くと、新聞紙の文字がおにぎりに映って、しかも麦の割合が多いのでそれとあいまって、少し黒ずんだおにぎりになっていたらしい。そして、小池さんは「古枝(隣の部落)の連中の弁当を見ると、もう米が真っ白でねぇ。そりゃもう恥ずかしくて弁当持っていかんくなったねぇ」とおっしゃっていた。こうして弁当を持参しなくなったのだが、それに気づいた先生がおいしい弁当を分けてくださりこれに味をしめて、ますます弁当を持参したくなくなったと付け加えられた。

また、夜の夕食後の家族団らんの場では、家族の話し合いが長く行われ、何度も何度も同じ話を日に日にしていたという。この家族団らんのあと、青年たちは、クラブ(現在の公民館があるところにあったらしい)に布団を持って集まり、将来を語り合ったという。一方、女性は花生けなどをしていたそうだ。

 

 

食生活

次に、食生活についてだが、塩や魚などはきちんと商人が店を開いて売っていたらしい。ただ、戦後はなかなか手に入れることが難しく、塩は、海水を汲みに海へ行って、持ち帰った海水を家の釜で蒸発させて作っていたらしい。酒は今ほどしょっちゅう飲まず、しかも、祭りなど村全体で盛り上がって飲んだりするような機会はなかったそうだ。

 

 

しこ名

いろいろ、小池さんからは昔のことについて聞くことができた。そして最後に、この現地調査の一番の柱であるしこ名について訪ねてみた。僕たちが、「しこ名はご存知ですか」と、まずしこ名についての説明をせずに尋ねてみたところ、「あー知ってるよ」と、うれしい返事が返ってきた。そこでしこ名を聞いてみると、いくつか教えてくださった。しかし、小池さんのおっしゃったしこ名は、地図に書かれてあるあざ名であることに気づいた。さらに深く尋ねて、「この田んぼには特別な呼び方みたいなものはありますか」と尋ねると、「いやー、そんな特別な呼び方はせんねぇ。黒岩谷(くろいわだん)とか菅原谷(すがわらだん)とかしか呼ばんねぇ」とおっしゃった。何度かしこ名について説明してみても同じことだったので、小池さんによると結局鮒越でのしこ名というのは、地図に載っているあざ名と同じということだった。

こうして、小池さんとの話は長時間続き、とても有意義なお話を聞くことができた。それにしても小池さんは物知りな方だった。僕たちは、小池さんとの別れを惜しみつつお宅をあとにした。しかしながら、僕たちは一抹の不安を拭いきれずにいた。「もしかして、しこ名はあるのではないだろうか」という不安を。

まだ、迎えのバスの時間まで、少し余裕があったので、近くの家を十数件まわった。しかし、ほとんどの家が不在で、まれに話をすることができても、しこ名についての情報を得ることができなかった。そして、きまって住人の方にいわれる言葉が、「小池・・・小池俊蔵さんなら知っちゃるんじゃないんですか」だった。やはり、小池さんは鮒越では唯一の物知りの方に違いない。

結局、しこ名の情報は小池さんを頼りにすることにして、バスの時間も迫っていたので、鮒越をあとにすることにした。

 

小字               呼び名

田本(たほん)のうちに      田本(たほん)

    

黒岩(くろいわ)のうちに     黒岩谷(くろいわだん)

    

東田代(ひがしたしろ)のうちに  東田代(ひがしたしろ)

    

西田代(にしたしろ)のうちに   西田代(にしたしろ)

    

中谷(なかたに)のうちに     中谷(なかたに)

菅原(すがわら)のうちに     菅原谷(すがわらだん)

源吾(げんご)のうちに      源吾(げんご)

大廣木(おおひろぎ)のうちに   大廣木(おおひろぎ)

古賀坂(こがんざか)のうちに   古賀坂(こがんざか)

 

 

最後に

今回の佐賀県鹿島市鮒越の現地調査は、様々な方々の協力なしではすることができなかった。区長でいらっしゃる山崎良治さん、貴重なお話を多く語っていただいた小池俊蔵さん、そして鮒越の皆さん、どうも今回の調査に協力していただきありがとうございました。