歩き見ふれる歴史学 レポート
2001/6/24(日) @鹿島市江福
最初に・・・田のしこ名については、木原さんがほとんどわからなかったため、後日調べて資料を郵送
してくれる、とのことだったが、残念ながら期日には間に合わなかった。わかり次第こちらの方も発表し
ていきたいと思う。
訪問したのは鹿島市嘱託委員の木原清喬さん。12時頃お伺いする予定だったが、それより約
1時間近く早い到着となってしまった。それでも僕たちに気づいた木原さんは、「ずいぶん暑いで
すね」といいつつ僕たちを迎え入れてくれた。
木原さんは昭和14年に満州に生まれ、終戦とともに当時祖母のいた江福に引き揚げてきたそ
うだ。高校卒業後は、41年間市役所に勤め、2年前に退職なさったらしい。
「私よりも長老に聞いた方がよくわかると思うんですが、最近お亡くなりになりましてね・・・。」と
おっしゃってましたが、木原さんは、熱心かつ丁寧に話をしてくれた。
まず、現在の様子から伺った。現在、この地区には49世帯が生活し、約三分の二に当たる29
世帯が農業を営んでるそうだ。これは、見せていただいた昭和29年の資料と比較すると、世帯
数は変わらないが、農家の割合が全体の2〜3割くらい減少し、兼業農家の割合も増えている。
また、海に面しているのだが、漁業をされている方はたったの1世帯しかいないそうだ。かつて
政府主導でこの近辺の山をすべてみかん山にしたことがあったが、それも今では荒れ地と化して
いる。それを防ぐための施策として政府は全国的に中山間地等直接支払い制度を平成12年度
から開始している。これは、荒れ地を放置せずに年2,3回手入れをすればお金が給付されると
いう制度である。給付されたお金はこの地区にある神社の補修金などに使われているらしい。
神社という言葉がでてきたので、次は祭りについて訪ねることにした。この地区では農業にまつ
わる三大祭りがあり、それぞれ田祈祷、お供日(くんち)、初祈祷というらしい。まず、初祈祷は、
一月に行われる祭りだそうだ。田祈祷は田植えの終わった後お祝いに行われるもので早苗振(さ
なぶり)ともいうらしい。あとは、子供たちが神社で奉納相撲をする千灯籠というものがあるらし
い。
私たちが一番興味を惹かれたのは毎日旧暦の6月19日に行われる島参りだった。江戸時代
の末に、「おしまさん」という若い女性が、干ばつが続いたときに雨が降るようにと祈り海に身を
投げ、その後村人たちがその遺骸を探し埋葬すると、その翌日から雨が降り豊作になった、とい
う話によるらしい。この日は、江福周辺の人たちが、おしまさんの石像がある沖の島まで、船で向
かうらしい。提灯などで飾った船でチャッポンと呼ばれる鼓をならしながら、浮立を演じ、船団の
代表が上陸し、酒、米、塩等を備え、部落住民の安泰と五穀豊穣を祈願するのだそうだ。そのた
め、その1ヶ月ほど前、区長たちが島に行き、島にあるおしまさんの像をきれいに掃除し、化粧す
るそうだ。木原さんが子供の頃には、他に福富、芦刈、久保田や東与賀などの地区も参加し、猛
宗竹1本を目指して、潮がきた午後10時頃から続々と飾り船が出航するのである。木原さんも
小学生の時に参加したらしいが、翌日は学校の欠席者が多かった気がするそうだ。この江福に
伝わる踊りは「江福あや竹金生浮立」と呼ばれるもので保存会もあり、また「江福音頭」という歌
もあり、今は時々余興で歌われるそうだ。
次は地名について伺う事にした。江福と言う名が登場したのは江戸末期のことであった。江福
で圃場整理は二回行われた。まず昭和27年に田4町歩が4畝ずつに区切られ、その後昭和51
〜53年にかけて約7畝に整理された。この地区の田は搦(からみ)と呼ばれ、腰近くまで浸かっ
てしまう軟田だったそうだ。海側の比較的低い土地に多いこのような田は、じゅかじゅかした田と
いう意味で「じゅったんぼ」とよばれていた。「しら」という中身のない米がとれることが多く、上の
方の田と比べると収量は6割程度だったそうだ。水は、藤内(とうない)に堤があり、それを水源と
していたそうだ。雨乞いもやっていたそうだが、詳しいことはよく知らないとのことだった。堤には
新堤(あたらしづつみ)と古堤(ふるづつみ)があり、どちらも現在使われている。また、数年前水
が足りなくなったときは、ボーリングをして地下水をくみ上げ、いったん堤に使ったそうだ。なぜか
尋ねると、稲は冷たい水を嫌うかららしい。思わず感心してしまった。その川は「うたて」と呼ばれ、
また、水に田を入れるところは「いかりの口」と呼ばれているそうだ。また、「びるどこ」という所が
あるらしい(「びる」は吸血ヒル、「どこ」は床の意味である)。かつて毒蛇にかまれた人がそこへ行
き、ヒルに毒をすわせ助かったことがあったそうだ。
木原さんは農作業の話を更に続けられた。「ゆい」という親戚との共同作業の話や、あぜ道に
空豆などを植えていた話のあと、話題は肥料の話に移った。昔の肥料は、有明海のガタをガタ揚
場でいったん干したものや、じめきとよばれるうつぼをこさいだもの等だったと言う。じめきの効果
は絶大だったらしいが、田に入るとたちまち足などが切れるほどで、しばしば傷だらけになったら
しい。
防虫策としては、竹筒に灯油を入れ、少しずつでるように細工して田に入れる、といった方法や、
松明を集団で列になってかかげ山の上の方から海まで歩いていき、海に着いたら捨てるという虫
の走光性を利用した方法などがあった。少し近代的なものではBHCというものもある。また子供
は、授業の一環でタムシ取りをすることもあったらしい。
農作業は、雌の牛が多く使われ、一家に一匹はいたらしい。あとは農家によっては運送用の馬
がいたりもしたと言う。牛のえさは、むこう山と呼ばれるところにあったらしい。
収穫した米は、俵もしくはカンに入れ保存をした。収穫した米の約3割を供出として差し出したら
しい。
家族用の米は、「はんみゃ」と言う。はむは「食む」から来ているらしい。米には麦やイモを混ぜ
ていたそうだ。
ついで海について聞いていた。漁法は数多く、満ち潮を利用した「たかはじ」、干潮時に竹を用
いてムツゴロウを捕る「たけとっぽ」、小屋条のものを使う「あみとり」、網を使った「たなじぶ」、潮
が満ちるときに捕る「まちあみ」などがある。潮の流れにも名前があり、満潮で一番高い時を「か
らま」、一番高い時を「大潮」と言うそうだ。
他にも、いろいろと興味深い話をしてくれた。 嫁入り前の若い女性たちの仕事として、冬の深
夜から早朝にかけて「朝山」に行き、雑木などを切って家の前の石垣に積んでいくというものがあ
ったそうだ。これは一種の競争みたいなもので、積んだ量が多ければ多いほどいい嫁になるとい
われているそうだ。
当時の若い男性は、夜「倶楽部」と呼ばれる場所に集まり、楽しく過ごしたらしい。上下関係や
ルールが厳しく、また、時には他の村の人たちとケンカすることなどもあったらしい。良いことも悪
いこともそこで学んでいったという。夜這いも一般的に行われていたそうだ。一方、女性は家にい
たらしい。男女間の恋愛の自由はあまりなかったそうだ。
昔この地区には、大きな松の木が四本あり「御来光さんの木」「八幡さんの木」等の名前がつけ
られていたそうだ。どの木も非常に大きく、枝の上で昼寝できるほどのものだったらしい。落雷に
より焼失してしまったため、現在は残っていない。
隣町に行くには、「とのさまみち」と呼ばれる、江戸時代に参勤交代で通ったとされる道を通って
いたそうだ。
話が終わった後、木原さんは私たちを車に乗せ、江福を案内してくださった。前記のように、田
のしこ名はまだ手に入ってないが、木原さんと安永さん(長老の息子)の二人は実に親切に僕ら
に接してくれた。お二人のおかげで、調査が進みました。最後になりましたが、厚くお礼を申し上
げます。