バスを降りると、以外にも店が立ち並び、車の量も多かった。思ったより栄えている感じだった。まだ時間があったので、近くのファミリーレストランによった。店内は十一時前ということでガラガラだった。しかし十二時近くともなると、店内はほとんど埋まった。しかも老人の客が六割くらいだった。中には携帯で話しているおじいちゃんまでいた。携帯電話の普及というのがこんなところのおじいちゃんまできているのかと驚いた。時間がきたので店を出て土井丸を目指した。フタタやナフコなど一流店舗が立ち並ぶ国道をはずれると、そこは見渡す限り田んぼだった。昔ながらのからぶき屋根がちらほらと建ち、まさに映画に出てくる日本の田園風景という感じだった。景色はどこを向いても同じで目印という目印は見当たらず、なかなか大隈さん家が見つからなかった。田んぼの路肩を堂々と歩いていると、薪をしているおじさんと目が合い、その人が大隈さんだった。僕らとわかるやいなや、「ちょっとまっとって。」といい、車でどこかへ行った。立派な家だった。十分後大隈さんが八十歳くらいのおじいちゃんを連れて帰ってきた。いかにも物知りって感じの人だった。中に入ると、お菓子や果物、お茶にコーヒーとテーブルの上は豪華だった。「まあとりあえずゆっくりせんね。」と言われたので、お菓子を口にした。これくらいの年代の方と接する機会はあまりないので、どれくらい話ができるか不安だった。
水に関して
土井丸の田の水は、近くを流れている、塩田川という川から取水していたらしい。取水口は土井丸から3kmくらい先にある、
先にも述べたが、昭和55年、整備が行われ、水路や取水口は今ではコンクリートでできている。
水に関する問題も様々であった。土井丸にも水不足はたびたびあった。そういう時は、取水口が共同であることから、争いがおこった。しかしこのあたり一帯では、となりの部落の井手(僕たちのグループのもう一方が調査にいったところなのだが)というところが最も権力を握っていたらしい。雨乞いの習慣もあった。っていうか今でもあるらしい。一の宮から五の宮まで氏神様があり、そこに雨乞いしていたらしい。
水害もあった。昭和37年に大水があり、その時は床上1mくらいまできたらしい。遠くから豚の死体が流れてきたと思ったら、よく見ると女の死体であったというエピソードを聞いて、面白かったがあまり笑えなかった。土井丸のひとつの特徴として、塩田川の高さが、土井丸地区の高さよりも高いということが挙げられる。そのため、水害を防ぐ工夫が昔からあった。文章では表現し難いので、別紙に、図で描いて説明する。ちなみにこの工夫も55年の整備でコンクリート&ポンプ化している。
村の動物
昔は一家に一頭ぐらい牛を飼っていた。雌牛を飼っていた家も多かったが、力仕事が必要なときなどには、力の強い雄牛を飼っていた。馬洗い川というのがあったらしいが、もともとは、部落名だったというらいしい。もしかしたらただの地名かもしれないし、そこに馬洗い川あったのでそういう地名がついたのかもしれない。後者のほうが確率が高いと思う。
村の道
六尺道と九尺道というのがあり、結構いい道だったらしい。家のあるところを中心に、板石を敷き詰めて、雨で汚れないようにしていた。
村の祭り
村には部落中の班ごとに、七神様まつり、天神まつり、ごんげんまつりなどがあった。それは、今でも行われており、祭りでは青年相撲や少年相撲など相撲をやっていた。祭りには女性もいたんで若者はひっかけに行ったらしい。それもまつりのたのしみだった。
村の発達
昔このあたりでは、塩田川から水をひいていた。風呂には藻とかがあり、雨の時には、にごった風呂になっていた。電気は大正5,6年ごろ、プロパンガスは戦後、水道は昭和25年ごろにひかれた。北鹿島ではこの部落が一番早かったらしい。
村の若者
テレビも映画もなかった時代、若者はなにをしてあそんでいたのだろうか。昔は個人の家を買って公民館みたいなものにし、青年クラブというのをつくっていた。風流稽古、鐘浮龍、太鼓などをしていた。遊びといえば花札と将棋が主で、ようかん買ってお茶をのんで過ごしていた。また小さいお寺で青年クラブをやったりもしていた。部落どうしの喧嘩とかもあり、とくに塩田川のむかいの有明とは仲が悪かった。石を投げたり、いろいろな嫌がらせをしあっていた。昔はおもしろがって犬を食べていた。臭みとりで犬を泥に埋めていた。とくに、赤い犬がうまいという噂だったらしい。犬を食べたのは若者だけで、食料不足のためというより、興味本位というのが強かった。また昔は本当に「夜這い」というのはあったらしい。しかし、戦後売春禁止法などにより少なくなった。
中村 皓輔
渕上 一茂
山口 雄也
話者 森 多九見さん 大正10年6月4日生まれ
大隈 久雄さん 昭和19年5月25日生まれ
大変ありがとうございました。