「歩き・み・ふれる歴史学」現地調査レポート
佐賀県伊万里市山代町城 7月4日

鍋 壮一郎
小宮 大輔

資料協力:山下義朗さん


<聞き取り調査できた「あざ名」リスト>

*ハラホシバ(腹干場)
*キリヨセ(切寄)
*タヌキヤブ(狸薮)
*カリバ(狩場)
*ヨシナヤ(吉納屋)
*ニシガワチ(西河内)
*ナカドオリ(中通)
*ナカ(中)
*ナルイシ(鳴石)

「ハラホシバ」というあざ名は、「死人たちが腹を干していた場所」という意味であるらしい。「キリヨセ」とならんで、これはその一帯が古戦場跡であることを示している。ここで起こった戦とそれにまつわる祭りについて山下さんから聞くことができた。  山下さんの言うところによると、現在「ハラホシバ」「キリヨセ」と呼ばれる一帯で、かつて激しい戦が行われた。そのさい、負け方の12人が現在の「切寄堤」の位置にあった神社の境内まで逃げ、そこで自害した。その12人の霊を祭るために、神社の場所が移された現在でも毎年12月4日には祭礼が行われている。
 この時神社に12人分のお膳が供えられるのだが、同時に「ゴックサン」という行事が行われる。これは、餅米でなく普通の米を30合ほどついて大きなイノシシをつくり、焼いて出来た物を竹槍で突きくずし、今度はそれを米の飯に混ぜて祭りに来た人だれかれに振る舞う、というものである。
 切寄神社の氏子は城と鳴石の者達である。同じ山代町でも「城」と「峰」では神社が違う。すぐそばの「城」と「峰」では神社が違うのに、なぜかなり離れた鳴石の者達が切寄神社の氏子になっているのか? そのあたりの事情はよく分からないということだ。


<調査当日の行動記録>

 11時ごろバスを降りた。目の前にコンビニがあったので、昼食の弁当を買ってから行くことにした。
   11時30分ごろ、地図を見い見い、何とか「城」の一帯にたどり着いた。山の斜面のほとんどが棚田にされていて、まだ若い稲が強い風で波打っている。強い日差しが乱反射されてとてもきれいだ。その隙間をぬって坂道を進んでいくが、どこに行けば山下さんに会えるのかさっぱり分からない。このあたりの農家にはなぜか表札がないのだ。どうしよう? と話し合いながら進んでいくと、ある家の庭に人がいたので、聞いてみると何とか山下さんの家までの道が分かった。
 いったん山下さんの家のすぐ近くまで行ったが、もう12時をまわろうとしていたのでとりあえず場所だけ確認して切寄神社の境内で昼食ということにした。
 12:00〜12:45は神社で休憩。木陰に入るとけっこう風が涼しかった。石段に座って休んでいると、地元の中学生の女の子が通り掛かって、笑顔で挨拶してくれたのが印象的で、嬉しい気分になった。
 1時をまわったころに再び山下さんの家についた。玄関の上がりかまちで話を聞いた。
聞いた内容は前述の通り。山下さんは昔の地図をたくさん持っていて、それを見ながらあれこれと話してくれた。
 山下さんは自分はあまり詳しくないのだと言って、伊万里公民館の中尾さんや鳴石にいる市会議員の福村さんあたりが詳しいだろうと教えてくれた。山下さんの話だけではしこ名の数も足りないし、他に手がかりもないので、歩いていける距離にある鳴石の福村さん宅に行ってみることにした。
 山下さん宅を出て山を下りようとしているとき、釣竿やバケツを持った子ども3人組と会った。小学校の低学年くらいだろうか。男の子2人と、そのどちらかの妹らしい女の子。さっき見た用水路にはハヤが居たし、この子たちはそれを釣るのだろう。この子たちも、笑顔で私たちに挨拶してくれたので、すっかりいい気分なのだった。 
 鳴石はけっこう遠かった。まず山を下りて、それから国道をさらに歩いた。道に迷いさえした。しかも福村さんは留守だった! これは完全に私たちの意気をそいだ。
 3時近くになっていた。このまま合流地点に戻るか、それとももう一度城まで行くかで意見が割れたが、結局もう一度城へということになった。
 かといって坂道をヒイヒイ言って城まで戻っても、何もやることなんてありゃしないのだった。誰か道で通り掛かった人に聞こうと思っても、誰も通らない。さっきの子ども達が用水路でハヤを何匹か釣り上げているのが確認できただけだった。道端で景色を眺めながら少し休憩した後、合流地点に戻った。3時50分。


<感想>

 あざ名の調査という意味ではたいした成果は上げられなかったが、個人的には「ハラホシバ」などのあざ名の由来、祭り「ゴックサン」の話などがとても興味深かった。とても平和でありふれた農村に見える土地に、そんな血生臭く、特異な過去があると思うと、風景の見え方まで変わってくるような気がした。これが歴史の面白さだろうか?
 また、一日田舎を歩き回るのは、体はきつかったけど、精神的にはとても気持ちよかった。機会があればまた行ってみたい。