歴史と異文化理解A


調査者:久門 義明
藤木 清志


調査地名:佐賀県伊万里市立花町東・西円蔵寺


話者 :東円蔵寺区長 山口 良行さん 昭和 4年 11月 1日生まれ
東円蔵寺在住 田中 謙之さん 大正12年 5月26日生まれ
西円蔵寺区長 徳永 三郎さん 大正14年 12月 5日生まれ


<しこ名一覧>

小字「口ノ町」のうち:(コモンナリ)小物成
小字「円造寺」のうち:(モンボヤ)門外、(シタンカワ)下ノ川、(カンチョウ)官長
(チュウグミ)中組、(オオミチ)大道、(ヤマダ)山田
(サンゲンチャヤ)三軒茶屋、(ニケンチャヤ)二軒茶屋
(マルオ)丸尾、(ヒガシマルオ)東丸尾
(スイゲンチ)水源地
小字「野田」のうち :(ガンタケ)元岳、(カミビラキ)上開、(シモビラキ)下開
(ミネ)峯
小字「カンス」のうち:(イッタンゴセ)一反五畝、(コシキバル)小式原
(ワンゴウ)腕郷
その他 :(ハマノウラ)浜の浦、(ガタ)潟
(ヒグチノボチ)樋口の墓地、(ニシボチ)西墓地



<東円蔵寺・西円蔵寺地区>

現在存在する東円蔵寺・西円蔵寺・南ヶ丘この3つの地区すべてを昔は円蔵寺と呼ん でいた。また更に昔には町裏村と呼ばれていた。


<伊万里神社>

伊万里神社は昔あった岩栗神社、戸渡島神社、香橘神社の3つが1つになりできたものである。現在の伊万里神社は香橘神社があったところに建て替えられた。香橘神社は大陸から伝わってきたみかんが初めて植えられた場所であることからこう名づけられた。今でも地元の人々はこの神社を「コウキツサマ」と呼んでいるらしい。


<水利について>

水源と水路

神功皇后が朝鮮出兵の際に船をつないだと伝えられる木が残っていることからも わかる通り、円蔵寺周辺は昔は海だった。江戸時代の干拓によって現在の海岸線になった。 干拓は幕府の政策に基づくもので、新田に使われたわけだが、それに伴って水路も造られ た。その水源は、大きく分けて2つある。長谷池と伊万里川だ。
この地方では、ため池を堤(つつみ)と呼び、今日でも10万トンもの水を貯水する長谷池からは2つの水路が出ていて、新田川が筑肥線とぶつかるぐらいの所で、合流している。ちなみに、新田川は“にったがわ”ではなく、“しんでんがわ”と読むそうである。 もう一方の水源である伊万里川からも水路が出ている。伊万里川橋のやや下流、 円蔵寺公園に面する辺りに井堰があって、そこから出発している。伊万里川に沿って少し 行った後に岩栗橋のやや南で2つに分かれる。1つは八谷おぼれの方に、もう1つは 教法寺の方に流れていく。なお、国道202号線の六仙寺交差点から見てスタ−ボ−ルの 方一帯などは、今でも地下水が豊富に出ているそうだ。


水争いと干ばつ

天水(天然の水)が豊富な円蔵寺地区は、水の争いもなく、干ばつによる被害はあま りなかったようだが、1994年の大干ばつも例外ではないようで、収穫高にはあまり影 響がなかったようだ。
しかし、長谷の大堤は空になってしまって、新田川からポンプで水を汲み上げて田にまいたり、地下水を利用したり、下水処理場の水も多少利用したそうである。また、昔は黒神神社において雨乞いをしたということだ。


<農業の現状>

宅地化の進んだ円蔵寺地区では、農家が年々減少しているせいもあり、耕地面積が 少ない。米と麦の二毛作がほとんどで、他に栽培しているものは特にない。
昔から米の獲れ具合は、全体的に良くも悪くもなかったが、山に近づくにしたがって、 単位面積当たりの収穫高は少なくなっていく。
ちなみに、1反で7俵獲れたらかなりの良田だったそうだ。
入会地は、山の5分の1を東、西円蔵寺で管理していて、残りの5分の4は伊万里の 農業高校に委託している。
数が少なくなった農家だが、昔からの伝統行事今なお受け継がれている。円蔵寺に住む人々の氏神である伊万里神社において、様々な年中行事が行われている。
田植えの頃には豊作祈願、収穫の頃には入庫祝い(収穫祭)、11月19日には氏神様の祭りが行われている。これらの祭りには、親睦を深める要素が強い。特に氏神様の祭りでは、夫婦同伴で出席して家内安全を祈願する。
また、年に4回の“苦役”がある。苦役とは、水路(特に長谷池を水源とする水路の 草刈りや溝さらい、道造りをすることである。始めにこの言葉を聞いた時、“区役”とメモしたが、「区役ではなく苦役。」とおっしゃって、続けて「江戸時代から町民(士農工商の工商の人々)も参加した作業で、そういう意味からもこの漢字を用いるのでは…」と言われた。
なお八谷おぼれや古賀の方面では、“苦役”“ぎゃーしゃーで”と言って、“で”は“出”としても他の部分に適当な漢字が当てはまらず現在も研究中で、もし何か手がかりがあれば知らせて欲しいということだった。


<大庄屋(うーじょうや)と門外(もんぼか)>

円蔵地は鍋島藩だった。円蔵寺には、前田という名の大地主(=大庄屋)がいた。
ちなみに、大地主といっても農民だったらしく、その子孫は今も伊万里に住んでいるそうだ。ここで、この地区で“大”は“うー”と発音するため、大庄屋を“うーじょうや”と発音する。前田の家には時折殿様自ら出向いてくることがあって、その時は一家の者は殿様のために家をあけた。殿様がいる家の周辺には幾重にも柵を巡らして、柵の外に通行禁止の立て札を立てた。この逸話から門外(もんぼか)という地名が生まれた。


<しこ名の由来>

三軒茶屋、二軒茶屋:元々山地であった伊万里市付近で昔、旅人が峠を越す際に立ち寄っ た茶屋がいまの主要地方道武雄線沿いに二、三軒並んでいたためこ のしこ名がついた。
下ノ川 :いまは姿を消した用水路沿いにあったため。 官長 :有力な人物の古墳があるため。
山田 :昔この地域には大きな杉が何本も生えていた山がありその中の田ん ぼにつけた名前だから。
大道 :昔大通り沿いにあったため。
浜ノ裏、潟 :昔の海岸線はこの地域付近であったため。


<由来についての感想>

失礼かも知れないが、しこ名には非常に単純なものが多かったように思う。逆にそれだからこそ地元の人たちから長年愛用されてきたのだとおもう。


<西円蔵寺のしこ名>

東円蔵寺のしこ名の調査は非常にスムーズにいったのだが、西円蔵寺については昔の小字を田の呼び名にしているらしく特にしこ名と呼ばれるような呼び名はないということらしい。


<墓地について>

この地域を訪れてまず気づいたことがお墓が多いところだなぁということである。話を聞いてみるとやはりこの地域にはお墓が密集しているらしい。特に大規模なものとして伊万里川左岸の墓地、東円蔵寺地区中央部の墓地、そして妙顕寺の少し南にある墓地である。前の2つはそれぞれ樋口の墓地、西墓地という名がついている。話によれば昔この地域に住んでいた人が一等地であるこの台地上の町、東円蔵寺・西円蔵寺につぎつぎと埋葬したため現在のように非常に墓地の多い町になったらしい。


<これからの円蔵寺>

今回実際現地を訪れて感じたのは宅地化の進行が早いスピードで行われているということである。あちこちで新築が建てられているところを目にした。地元の人の話だとこれらの家はもともとこの地域に住む人が親から離れて建てているものが多いらしい。つまり人口の増減については今現在目立った変化はないらしい。区長さんはこのことを「核分裂現象」とおっしゃった。また農家数についても同様で今のまま農業は続けられるだろうという見通しであった。ちなみに今この地域の人口はほんの少し減少気味の59000人ほどらしい。


<感想>

実際に佐賀に行ったのは7月4日のみだったが、その前の2〜3週間は毎日たいへんだった。班全員の分の地図をコピーしてくると安請け合いしてしまったものだから、何度もコピー機にならんで枚数を10枚にセットし直した。おかげで円蔵寺だけでなく、その周辺の地名まで完璧になってしまった。
当日は、調査は、地元の方々のおかげでとてもうまくいった。弁当を出してもらい、お土産に伊万里まんじゅうまでもらってしまった。明太子を送るか、おきゅうとを送るか 迷っている。


<当日の行動>

8:15 九大正門集合
10:30 佐賀県伊万里市大坪町六仙寺交差点到着
11:00 東円蔵寺区長 山口 良行さん宅に到着
11:15 東円蔵寺公民館に到着
西円蔵寺区長 徳永 三郎さん、東円蔵寺在住 田中 謙之さんと合流 お話を聞く
12:30 昼食
 お弁当をごちそうになる
13:20 再びお話を聞く
14:15 終了
 お話の後 山口さんの車で旧円蔵寺地区の周辺をまわる。
14:50 完全終了

今回は話者の方々のおかげで非常に時間を有効に利用しながら調査を進めることができた。感謝しっぱなしの1日でした。