歴史と異文化理解A 佐賀県伊万里市における現地調査についてのレポート 村の名前 : 伊万里市屋敷野永山 話者 : 松尾 重臣 さん 47才 調査者 : 小井手 武治 霍田 将享 しこ名について 小字のコピーが屋敷野付近において少し不鮮明であり 正確に読み取れないので、しこ名の位置は地図を参照とする。 田畑 : ・ カバノキ(樺の木) ・ インドヤマ 集落 : ・ インゴウ(犬川) ・センガンクボ ・キャーマガイ ・ヨシノモト(吉野本) ・ナガヤマ(永山) ・セケンドウ 神社 : ・ フゲンドウ(普賢堂) ・ミヤタケサン 岩 : ・ ヤマノカミ(山の神) 使用している用水 永山溜池 (永山のみで使用) 他に個人で所有している溜池 昔の配水の慣行、約束事、水争いは全くなかったそうです。 7月4日土曜日に伊万里市屋敷野永山の組合長である松尾重臣さん (47)の家を訪ねた。松尾さんの家は山の奥のほうに位置していた ために、家にたどりつくためには小さな山をこえなければならなかっ た。その山道はすこしだけコンクリートで舗装されていた。後で松尾 さんに聞いたのだが、その道は、昔、市にたのんでコンクリートを支 給してもらい、それを用いて、松尾さんたち村人自身で舗装したそう です。昔はよくその道を利用していたそうだが、最近になって周囲に 大きな道が出来たために、村人はその山道をもうほとんど利用せず、 国道202号線に出るにも少々遠まわりでも広い大きな道を車で移動 しているそうです。それもあってかその山道はコンクリートで舗装は されてはいたが、かなり荒れてしまったいた。 松尾さんの家にはおよそ11時くらいに着いた。丁度その時に、重臣 さんは家の前の畑で、草刈りをしていた。仕事の邪魔をするのはどう かとは思ったが、終わるのを待っていては日がくれそうだったので、 声をかけるとやさしくあいさつをしてくれて、家に案内してもらった。 そこで再びこの調査の主旨を説明してこの調査を開始した。 まずしこ名についてたずねた。まず、松尾さんの家の付近はセケンド ウと呼ばれているそうです。田や畑だけを指すしこ名はほとんどなかっ たのだが、カバノキ(樺の木)やインドヤマと呼ばれている田や畑の 地区 があった。次に集落の呼び名として、インゴウ(犬川)、ヨシ ノモト(吉野本)センガンクボ、キャ―マガイと呼ばれているものがあ った。このキャーマガイという名には昔何か意味があってつけられた ものらしいが、それについては松尾さんもよく分からないと言ってい た。後で調べて分かったことだが、インゴウもヨシノモトも地図に載っ ていてヨシノモトにおいては吉野本橋という小さな橋まであったので、 少しがっかりしてしまうところがあった。神社などについては永山溜 池の横にある山の頂上付近にある神社は普賢堂というものであった。 おそらくこれも地図に載っているものだろう。しかし次に聞いたミヤ タケサンとヤマノカミはその位置する場所には、地図になんの記号も つけられていなかった。このミヤタケサンは元は宮地岳神社のことで 地元の人々が愛称のようにミヤタケサンと呼んでいるそうだ。ヤマノ カミにおいては村の人々はみんなあがめているそうで、その実物は大 きさとしておよそ横30cm縦25cm程度のただの石だそうです。 なぜそうするようになったのか分からないが、年に1回、12月に開 かれる村の祭りの際には、村の人々は、魚とわらで作った小さな家の 形をしたものを持って、ヤマノカミのところへお参りにいくそうだ。 そのヤマノカミと呼ばれている石の周囲だけ雑木林でそれをとりかこ むように杉や桧の林になっていて、さらにその山は凸型をしていてそ の頂上にヤマノカミがあるそうです。そのように何か特別な雰囲気の ところにある石なのでヤマノカミと呼ばれているのではないかと考え られる。しこ名として松尾さんから聞き出せたのはこれだけだが松尾 さんに聞くと、元々この永山地区は隣町の脇田町に属していて1つの 村だったそうなのだが、地籍調査の際に屋敷野町に編入され、そして 現在のようになっているそうです。そのためもあってか、比較的新し く出来た集落が多くて、地元の人の間で昔から使われているしこ名は ほとんど存在しないそうです。 その田畑を呼ぶときには、しこ名のような何か特別な呼び方をするの ではなく、誰々さんのお宅の下の田や、誰さんの畑という呼び方をし たり、あるいはまったく呼び名のない田畑もあるそうです。同じ事が 用水路、川、道、橋についてもいえて、永山溜池からの川と呼んだり、 橋については地図に載っている名前で呼んでいるそうです。 田の水の引き方について尋ねると、永山においてはほとんどの田が永 山溜池からの川の流域以外のところでは、個人で所有している小さな 溜池から水を田に引いているそうです。この個人の溜池は、地図を見 ただけでは見落してしまいそうなぐらいの大きさで、その数は以外と 多かったが、そのほとんどを松尾さんに言われるまでは見落してしまっ ていた。 現在では、田に水を揚げるときには、ポンプも利用されているらしい が、昔は、高低差を利用して、その田よりも上流のところから、小さ な土管のようなもので、溝を作り、その溝に水を通して、田に水を入 れ、後は田と田の高低差を利用して、田から田へと水を落としていっ ていたらしいです。現在でもこの方法は用いられているそうですが、 この方法を用いれば、あまりポンプも使う必要はないそうです。 近くに溜池や用水路もないような、山の奥のほうのところでは、土地 は果樹園として利用されているそうだが、地図に示されているところ でも、果樹園はほとんど見受けられなかった。そのことについて松尾 さんの話によると、昔の米以外の現金収入は桃が中心であったそうで す。しかし、次第に桃がみかんへと移り変わっていったそうです。そ して現在では、そのみかん栽培もほとんど姿を消し、荒地となってし まったので、果樹園の姿が見受けられなかったのです。そのみかんに 変わる現在の米以外の収入は、会社勤めなんだそうです。永山で会社 勤めをしていない家はほとんどないそうです。また、戦前、戦後まも なくは、あわやひえも当然作られていたそうです。米と混ぜて食べる 時のおよその割合は、米:あわ:ひえが 6:2:2 だったそうです。 これはその家ごとで多少の違いはあるだろうが、松尾さんのところで は、こうだったそうです。4年前の水不足のときの対策について尋ね たところ、あまりの大渇水で、もうどうしようもなかったそうです。 頼みの永山溜池も完全に枯れてしまったために、村人たちはどうしよ うもなく、あきらめるほかになかったそうです。本当にどうしようも なかったそうです。 次に米のよくとれる田、あまりとれない田について尋ねた。米のとれ る量としては、田に入れる水の温度が比較的高いインゴウ付近の田だ そうです。このインゴウ付近の田は、昭和57年から58年頃に整備 されたもので、そのように整備されたのも米がよくとれる理由なんだ そうです。逆にとれない田は、上流のほうの水温の低いナガヤマ付近 の田だそうです。この水温が低い理由は、山から集めた冷たい水が、 あまり時間がたたないうちに田に入ってくるからです。一般的に水温 が高いほうがよく米が取れ、水温が低いとあまり取れないそうです。 だからナガヤマよりも上流のほうは、さらに収穫量は少ないそうです。 しかし、この冷たい水で育った米のほうが、温かい水で育った米より も、全然おいしいそうです。だから、伊万里の下流域で作られた米よ り、ナガヤマ付近の米のほうがおいしいそうです。このナガヤマにつ いてですが、この地区全体を永山と呼んではいるのですが、本当にこ の「永山」というのが指す地区は、地図に示した地区のことらしいの です。それが地図に示してある永山の範囲すべてのところを示してい ることには少し驚きました。このレポートにおいて、その2つを区別 するために、大きな範囲の場合「永山」、小さな範囲の場合「ナガヤ マ」と表記しています。過去の米の収穫量について尋ねると、昔は 1反あたりおよそ5俵から6俵ほど取れていたらしい。1俵が60kg なので300kgから360kg取れていたことになる。基準がどれ くらいなのかが分からないので、これが多いのか少ないのかよく分か らないないが、現在の収穫量について尋ねると、8俵から9俵、すな わち480kgから540kgとれているそうなので、3俵から4俵 も以前よりとれるようになったのは、最近の農業技術の進歩のたまも のだろう。 |