歴史と異文化理解A

調査地 白野:大坪町乙

      調査者 有浦 芙美
          榊原  裕

      話者   小松 一夫  (昭和4年生まれ)
           吉原 豊次  (大正9年生まれ)
           川原 富夫  (昭和4年生まれ)
           前田 信義  (昭和9年生まれ)

1,しこ名一覧

@間入れ川−遠浅になっている。浅いところがある。
          A井手の川(イデンノコウ)−少し深い。上級生の水遊び場
          Bシチンゴウ−浅い。子どもの水浴び場、広い。
          C島−山の神社がある。集落になっている。
          Dタッチョ−屋号。川力義俊宅。小高い丘になっている。
          E番所−番所があった。
          F馬場(ババ)−馬をつないでおくところ。
           F'内笑川(ヒャアコンガワ)
          G中道(ナカドオリ)
          H雨くぼ−十三塚のなかに雨くぼがある。
     半の尻  Iゴウシロ(ゴツシロ)−田んぼ
     半の尻  Jゴケタンクボ−同じく田んぼ
     尾の根  Kマーコバ−火葬場の入り口にある。
     戸 城  Lフクノクボ
     平古場  M梅ノ木谷
     学校裏  Nヒラキ−1つの家のことを呼んでいた。
          O向組(ムカイグミ)
     戸 城  Pナベカクラ
          Q山法師塚(ヤンボシズカ)−塚の名前。神様をまつっている。昔人が生き埋めになったそうだ。
          Rニシノクボ−お墓。土葬していたので、窪みができている。
          S前んで(マエンデ)、紅屋(クウヤ)−染め物屋だった。藍染め。染め物の「染め」を「クウ」といった。

 ・同じ川なのに、@、A、Bのように場所によってしこ名が違う。
 ・墓や神様をまつったことに関係するしこ名が目立った。

2、屋号

 小字「曲川」(マガイコウ)内の呼称
          @川原富夫宅:ごたろう
          A緒方義一宅:ちゃえんばし
          B丸田アサノ宅:たいたに
          C池田信行宅
           緒方忠男宅:とっくりたに
          D松尾輝雄宅:たかみ
          E力武肇宅:おっくー
          F緒方マツエ宅:ふねお
                      (住宅地図の番号と同じ)

(由来)
Aちゃえんばしと言うだけあって、昔茶の木があったらしい。
Bこれも読み方どうり谷だったから。
Cとっくりたにのところを流れている川の下流がせまくなっていて、下流からみると川がとっくりに見える。
D高台のところにある。
Fかなり昔に船がついていた。

(コメント)
@のごたろうとEのおっくーの由来はわからなかった。由来の分かった屋号はどれも納得のいく理由があった。Fのふねおの名前は古い時代の生涯に川を使っていたのだろうということを考えさせ、道以外に水路も交通手段、運送手段だったのだろう。

3、利用している用水

*伊万里川に流れ込む白野川
・川の水を共有している他村はない。白野川のまわりには白野の村しかないから。
*ため池
・現地の人はため池は多くあるといっていた。大小さまざまな大きさのため池がある。
・ため池には一つにつき一人ずつ封通がいる。
・封通が水を管理している。
・昔も今もため池の水を引くときには封通の許可がいる。

(水の利用について)
白野は、とても恵まれていることに、水に関する争いはあまりなかった。白野川の上流、中流、下流を通して他の村が存在しなかったのが大きな理由である。加えて、多くのため池を有し、水不足を補うために用いられた。水の管理システムもよい。ため池には封通が一人ずついるし、田植え時などの水を多く利用するときには話し合いがもたれ、下流の人を気づかった。
そうはいっても、昔から七月の上旬には水が不足することがある。昔から「年の初めから数えて210日目〜220日目には水不足になる」といわれていたそうだ。
川は水田に引く水を供給するだけでなく、夏などの暑い日には子供たちの遊び場にもなった。このことはしこ名のところで述べたように、川が住民の生活場所の一部になっていることを示す。川は住民に愛されていたのだろう。
4、田んぼについて

・良い田―昔は一反あたり6俵ぐらいの米がとれた。今は8俵ぐらい
      (1俵=60s、1反=10a)
・悪い田―昔は一反あたり4俵ぐらい。
     悪い田は基本的に谷のところが多い。
・田んぼの裏作―麦や菜種を作っていた。裏作と言えばこの二つだったようだ。
        裏作のできる田んぼは全体で六割くらい。
        白野の田んぼはあまり良くなかったらしい。
・水利事情―水に関しては、あまり問題がなかったので、時間給水などはなかった。主に川から水を引いた。不足するとため池からの水を利用した。

(田んぼにまつわる昔の話)
昔、上の人にお米を納める必要があった。村の人たちは自分たちが作った米をかなり多く納めた。若い子供たちはたくさんご飯を食べるので、自分たちのお米を食べさせて、自分は芋ご飯や、大根ご飯を食べたりして暮らしていた。家に年寄りがいる場合だと、もし死んだときに行う儀式用に一俵は米を取っておかないといけなかった。納める米の量は土地の大きさによって決められていた。自分の持つ田んぼの大きさを調査して役人に報告しなければならない。しかし生活の厳しさから、多くの人は自分の田んぼの大きさをごまかして少しでも多くの米が自分の手元に残るようにした。

(コメント)
若者には将来への期待、年寄りには人生の尊敬をと言う気遣いがうかがわれる。土地をごまかすのは生活するための賢さからでたものだろう。昔は土地の区画調査があいまいだったからこういうことができた。でも今は当然ごまかせないそうだ。

(田植えに関して)
種もみは田植えの半月前から種浸け川と呼ばれる川に浸けられる。種浸け川とはたぶん白野川の支流のことだろう。この冷たい水に浸けることによって種もみの消毒になり、弱いもみを殺して良いものだけ残すということにもなる。米の発芽まで浸けておいて、芽が出ると植えた。この地域の田植えは5月13日ぐらいからで、1日に0,5a〜0,6aほど植えていく。 ・米の保存―日光を遮ることを主として、俵の中に入れて、暗いところで保存した。俵のことをかますといっていた。

(出稼ぎへ)
佐賀平野は白野より田植えが遅いので、こっちの田植えが終わると出稼ぎにいった。夫婦でいく人もいた。だいたい10日間ぐらい働いて労賃を稼いだ。この金が結構いい金になったらしい。今の短期バイトのようだ。この辺は現代とにている。

(大切なもの)
田んぼはとても大切なものだった。今でこそ田んぼの中を子供が横切って歩いたりすることがあるらしいが、もし、当時にそんなことをしたら親から大目玉を食らう。昔はいろいろな自然の中で子供たちは遊んだが、田んぼの中では決して遊ばなかった。

(コメント)
今では農業だけをして生計を立てている家は2,3件しかないが、昔は田への依存が大きかった。それゆえに小さい子供へしかることを通じて田んぼの大切さを教えたのだろう。

5、畑について

野菜―大豆、なす、大根、小豆、渋柿
・大坪町は近くの地域で中心的な場所になっている。伊万里郷をかかえていたので、生活は豊かだった。
・野菜を使って市場に売りに行った。人々に好評で、すぐに売れた。松浦や大川のほうへ売りに行った。

(村の人の話)
農業によって人々は結ばれていた点があった。昔は機械がないのですべて手作業、草などは一本一本手で刈った。雨の日でも風の日でも畑にでて働いている姿を見て子供たちは育った。村の人たちは1日のうちで出会わないことがないくらいお互いよくあって自然と気持ちのつながりが生まれていた。「農業は土にまみれてするものだ。昔の農作業は芸術だ。」とおっしゃっていた。

6、古道

・今の国道202号のちかくにトノサマミチと呼ばれる古道があった。
・トノサマミチがあった付近の道は何度かルートを変えて今の大きな道になった。
・トノサマミチは今はほとんどないに等しい。地図上では一番小さい歩道としてかすかに記してあった。

トノサマミチについて
いつからできていて、何が運ばれていたのか不明。昔の道は商業通路かけもの道からの自然発生なので、これもそれにあたる道だろう。読み方から殿様が関係していたのかも?

7、昔の村の生活のあり方

・青年団―16歳になると青年団にはいることができた。若い人は進んでこれに参加した。公の施設があり、そこで10日間くらい生活することがあった。青年団にはいることで先輩からいろいろなことを教わる。いいことも悪いことも教わる。ここで年を越えた縦のつながりが生まれた。かわいいイタズラもした。先輩の命令で「あそこのスイカをとってこい」と言われると1つスイカをとってみんなで食べたりし、太郎さんの家と花子さんの家の表札を変えて笑ったりする。でもそれは村の人々の迷惑になるようなことはせずに笑って済ませるぐらいのこと。それだけ青年団は村になじんでいた存在なのだ。いざ火事や災害がおきるとまず青年団に助けを求めにいき、村を守る役としても重要であった。
青年団にはいることで、村の共同体意識が強まる。若い人たちが参加しているので村には活気が絶えなかった。入団は村のためにもなり、自分のためにもなる。大人への自立を覚えるのに絶好の機会である。そして、多くの人生経験をすることにもなった。

・祭り―村の一大行事と言えばやはり祭りであった。騒いで暴れて日頃のストレスを発散させる。今でも変わらないことだ。自分たちの祭りの他に隣町の祭りにも足をのばす人もいる。ただ騒ぐため、軽いけんかのため、お嫁さん探しのためなどと理由はいろいろあったらしい。自村の共同体意識が強いためか、他の村の祭りに行くとけんかが起きる。それでも程度をわきまえていて、ある程度で互いに手を引いて軽いけんかで終わる。ちなみに、隣町の祭りまで行くのに、10qぐらいあったそうだ。

・食生活―昔は米が貴重で、十分に食べられなかったので代わりに裏作で作った麦を食べていた。他には大豆飯、大根飯、こうりゃん飯など聞いたこともないようなご飯をつくっていた。見た目は結構おいしそうなのだが、食べてみるとそうでもなかったらしい。
米は昔は本当に貴重品だったそうだ。戦時中は白米を食べていると非国民扱いされたぐらいである。化学肥料が導入される前まで、本当の有機肥料が使われていた。これ以上食べられなくて残った食べ残しなどを使ったのだろう。でも無機物、たとえばリンや窒素などの不足であまりよい出来ではなかった。現在ではやはり化学肥料、農薬に頼っている。米の品種改良も進み、多くの米ができるようになった。ところで裏作だが、基本的にはあまりしなかった。いや、しなかったというより水はけや日光の当たり具合の問題からできなかったのだろう。

・土葬―火葬技術が未熟だったからか、人が死ぬと土葬をした。火葬しようとすると内臓の部分が焼け残ってしまうと言う。戦時中、夜に火葬していると、敵の飛行機が火を見つけて攻撃してきて、水で火を消すが、今度はそのあとが大変燃えにくくて上半身だけが焼けないままになったということがあったようだ。話をしていただいた中の一人の人は、「うちの祖父が死んだとき、自分らで墓を掘ったよ。体中をタオルで拭いてあげてお別れをした。今までかわいがってもらったのにその人の死がこんなに近くにあるので怖かったよ。」と言っておられた。人の死というものも身近なところで感じられ、だからこそ命についてのはっきりとした意識がもてたに違いない。これは他人の尊重、利益を求めない助け合いにつながっていると思う。

・牛―牛は機械がはいる前はよく人の助けになった。どこの家でも牛を飼っていた。牛の食べ物はわらや草などの飼い葉である。これらは村の共同の山から自由にとることができた。川の周りの草も取ることができた。だから今のように草は川の周りに茂っておらず、いつも手入れをされていたのだ。きまった草切り場もあったようだ。

その他・子供は親に絶対服従  
   ・子供と言えば、親のお手伝い
   ・夏は蚊帳の中で寝ていた
   ・佐賀の人は気性が荒いと言われていた。・・・「佐賀人の歩いたあとは草もはえん」
    (区長さんや長老の方々はとても優しかった)
   ・隣村などの違う地域によって言葉遣いが微妙に違うらしい
   ・食べ物は自給できた
   ・近くの村との交流はあった

8、村の歴史

・昔は大坪町甲、大坪町乙、大坪町丙をあわせて今岳村と呼ばれていた。その後、分離。
・昭和の初めぐらいの時期に電気が通った。しかし、一般に普及したのはもう少し後のようだ。
・昭和20年、4月に向野から永山が独立。
 (理由)・人口が多くなった。 
       ・管理するのに広すぎた。
  戦後まもなくのことで、村の人たちはこの決定にあまり関与しておらず、行政が行ったことであった。
・昭和42年7月9日、伊万里川の氾濫、家の一階が浸水。青年団の活躍。
        ↓
     水道組合の設立
   市の助けを借りて川の整備につとめた。自分たちで整備する人もいた。
   (かかった費用:2万〜7万6000円/1坪)
・下水道は、現在整備中で、平成15年までに整備完了予定。

9、これから

村の様子は変わりつつある。以前は土葬をしていたが、昭和42年6月にそれぞれの村にあった5つの火葬場を一つに統合し、白野に建てたことを期に完全に火葬になった。農業で多いに活躍した牛は必要性を失い、耕運機、トラクター、田植え機が目立つ。子どもに対する教育観も変わってきた。長年培ってきた古老の知恵を軽視する傾向がある。子供達に役立つと思って言う言葉も若い世代にとってみれば大きなお世話のように思われてしまう。話を聞かせてくれた方々の口から「昔きよき時代」という言葉が聞かされたのが印象的だった。
コンビニという言葉が道を尋ねた人から何度か出た。国道沿いにできたコンビニがいい目印になっているようだ。昔ながらのスーパーでもなく電気屋でもなくコンビニが道を教える目印になっているという村の様子に、住んでいる人たちも知らず知らずのうちになれていっている。こういう今だからこそ何を残し伝え、何が消えていくのかを考えることが重要になってくる。その意味で今回の現地調査で、村の歴史の一部分でも知り、記録できたことがうれしく思った。